帰郷 1. 〜アンドレ〜



『おふくろが死んだ。一度、村に戻ってこないか?』

ポール・ジュヴェからの手紙を受け取ったのは、1789年春。
日差しが柔らかさを増した、3月半ばのことだった。
もうひとりのおふくろとも思っていたアンヌおばさんの死に、俺は少なからずショッ
クを受けた。
生まれ故郷の小さな村。
隣に住むポールは、俺より3歳年上の幼なじみだった。
俺もポールも早くに親父を亡くし、おふくろの手で育てられた。
似たような境遇がそうさせたのだろう。
俺は、ポールのことを兄のように慕っていたし、ポールも俺の面倒をよく見てくれ
た。
母親同士も、互いに助け合っていた。
俺のおふくろが倒れたとき、誰よりも親身になって俺の心配をしてくれたのは、アン
ヌおばさんだった。
寝込んだおふくろと俺の世話をし、ジャルジェ家で働くおばあちゃんに連絡をとって
くれた。
俺が今こうしていられるのは、すべてアンヌおばさんのおかげと言ってもいいくらい
だ。
26年前、ジャルジェ家に来てから、もうずっと会っていない。
時折交わす手紙だけが、わずかに、俺と故郷をつないでいた。

『おふくろは最後まで、〈かわいいアンドレぼうや〉を気にかけていた。
立派になったおまえを、見せてやってほしい。』
ポールの手紙は、こう結んであった。
〈かわいいアンドレぼうや〉か・・・。
ふふっ、アンヌおばさんには、俺はいつまでたっても、あの頃のままだったんだな。
そういえば、おふくろが死んだのも春の初めだった。
そうだな、一度、戻ってみようか、親父とおふくろの墓参りも兼ねて。
5月に三部会が開かれる前に。
俺の目が、まだ見えるうちに・・・。


次の日、オスカルに数日の休暇をもらえるよう頼んでみた。
休暇をという俺に、オスカルは最初驚いたようだったが、事情を話すと、
「わかった。」
とひとこと短く答えた。
ずいぶん素っ気ないんだな・・・。
所詮、俺はおまえにとって、その程度の存在なのか?
書類に目を通すオスカルをしばらく見つめていたが、伏せられた睫が上がることはな
かった。
「じゃあ、オスカル、悪いが明日から勝手をさせてもらうよ。」
そう声をかけると、それまで一心に書類に目を通していたオスカルが、突然顔を上げ
た。
「明日だって!?」
瞳が、大きく見開かれている。
「ああ、明日からはたいした予定もなかっただろう?
来週いっぱいは、ちょうどブイエ将軍も休暇だし・・・。
それに、次の週はまた、会議だのなんだので忙しくなるはずだ。
先延ばしにすると、行きそびれてしまいそうだからな。」
「・・・急なんだな・・・」
オスカルがぼそっと言った。
その様子がなんだか頼りなげで、俺はたちまち、不安になってしまう。
「都合が悪いのか?それなら、日を改めるが・・・」
「いや。もうしばらくすると、休暇どころではなくなるからな。
羽を伸ばしてくるといい。」
「本当にいいのか?俺がいなくて大丈夫か?」
オスカルをひとりこの衛兵隊に残していくのだと思うと、急に故郷が色あせだした。
「無理に帰らなくてもいいんだから。」
「おまえ、私をいくつだと思ってるんだ?
心配するな、おまえがいなくたって、大丈夫だ!」
少し唇をとがらせて答えるおまえは、子どものようだぞ。
心配にきまってるじゃないか・・・。
やはり、休暇はとりやめだ。
そう言おうとした時、オスカルはプイと顔をそむけ、小さな声で言った。
「ひとりでやれる・・・1週間くらいなら・・・・・」


出発の日の朝は、柔らかな朝靄がかかっていた。
門のところで振り返り、オスカルの部屋の窓に目を走らせる。
おまえは、まだ夢の中なんだろうな。
「行って来るよ、オスカル。」
声にだして言ってから、ジャルジェ家を後にした。
馬をとばせば、夕方までに村につくだろう。
26年ぶりの故郷は、変わってしまっただろうか。
俺はずいぶんと変わってしまったけれど・・・。

俺も今年で34だ。
親父やおふくろの死んだ年を、すっかり追い越してしまった。
この年までひとり身で過ごすなんて、思ってもみなかったな。
俺は、唇の端に、苦い笑いを浮かべた。

この道を辿りジャルジェ家に来て、オスカルに出会った。
「きみ、名前は?」
初めて聞いたオスカルの声。
光の中に天使が舞い降りたような姿。
今も忘れることができない、鮮やかな思い出。

俺の人生は、そこから狂い始めたんだろうか。

・・・・・いや、狂ったんじゃない。
オスカルに出会ったことで、俺の人生は始まったんだ。
たとえようもなく、あまやかで幸せな、
けれどそれと同じ重みで、切なさと苦しみを伴った人生だが・・・・・。

そういえば、昨日のオスカルは、なんだかヘンだった。
ひとりでやれる、1週間くらいならって、
それ以上は仕事に支障をきたすってことなんだろうな、やはり・・・。

それにしても、あの儚げな様子はなんなんだ?
誤解してしまうじゃないか。

いやいや、昨日だけじゃないぞ。
最近あいつはどうもおかしい。。
妙にはしゃいでいるかと思えば、急に黙りこくったり、怒ってみたり・・・。
そうだ、やたらと目が合うのも気になってたんだ。
そのくせ、すぐに視線をそらしてしまうし・・・。
結婚話を蹴ってしまってから、情緒不安定なんだろうか。

ここまで考えて、ふとおかしくなり、ひとり笑ってしまった。
今日からしばらくは、おまえもベルサイユも、衛兵隊もこの国の行く末も、すっかり
忘れてしまうつもりだったのに・・・。
さっきから考えるのはおまえのことばかりだ。
オスカル、おまえはいったい、どこまで俺をふりまわせば気がすむんだ?
これほどまでにおまえの虜になってしまった俺を、どうしてくれる?
本当に、おまえは罪作りだな・・・。

出発の時かかっていた靄が、少しずつ晴れてきた。
雲の切れ間から、陽の光がこぼれはじめると、空気が柔らかさを増した。
春だなあ。
俺はあと何回、この目で春を見ることができるんだろう。
暗い思いが心に芽生えた瞬間、金色に輝くものが、目の端をかすめた。
慌てて、手綱を引き、振り返った。


「オスカル!!」
街道沿いの並木に寄りかかるようにして、オスカルが立っていた。
「おはよう、アンドレ。」
「おはようって、おまえ、何してるんだ、こんなところで!?」
「今日は、早くに目が覚めたんだ。せっかくだから、おまえを見送ってやろうと思っ
たのさ。」
オスカルは、にこやかに微笑みながら答える。
「見送ってって・・・。おまえ、いつからここにいたんだ?
俺より早く、お屋敷をでたってことか?
いったい、何だってこんな無茶をやらかすんだ?」
「そんなに一度に答えられない。」
矢継ぎ早に尋ねる俺に、オスカルはクスリと笑った。
「窓からおまえが出ていくところが見えたから。
近道をすれば追いつくかと急いで来たんだ。
私のほうが、早かったな。」
オスカルは、自分の予想通りになったことに、いたくご機嫌な様子だ。
少し頬を紅潮させ、うれしそうに笑う姿がたまらなくかわいい。
よく見ると、そのあたりの上着をひっかけただけの軽装で、おまけに朝露のためか、
上着はすっかり濡れてしまっている。
「おまえ、どこを通ってきたんだ?
こんなに濡れて・・・。風邪をひくだろう。」
おれは羽織っていた外套をぬぎ、オスカルの肩に着せかけてやった。
「大丈夫だってば、もう!!
いいかげん、こども扱いはやめてくれ。
おまえこそ、ちゃんと着ておかないと、旅先で風邪引くじゃないか。」
オスカルは体をよじるようにして、外套を押し返してきた。
「俺なら心配ないよ。ほら、太陽がでて暖かくなってきたからね。
おまえみたいに、ぬれねずみでもないし。
それより、俺のいない間に病気になると困るだろう?」
「何が困るんだ?」
なにげに聞き返すオスカルの言葉が、俺の胸につきささる。
そうだ、何が困るっていうんだ?
俺がいなくたって、医者もいれば、世話をする使用人だっているんだ。
何ひとつ、オスカルが困ることなんて、ありはしない。
 
それでは、俺は何のためにオスカルのそばにいるのだろう?

「そうだな、やはりおまえがいない間に寝込むと大変だ。」
少しだけ二人の間に横たわった気まずい沈黙。
それを、蹴散らすようにオスカルが言った。
「私のわがままにつきあってくれるのは、おまえくらいのものだ。
おまえがいなければ、病気になっても、おとなしいいい子でいなければいけないから
な。」
そんなのはゴメンだと、オスカルはクスクス笑った。
笑いながら、俺の外套に袖をとおすと
「暖かいな・・・。」
そう言って、そっと目を伏せた。
長い睫が、白い顔に柔らかな影をおとす。

ああ、なんて美しいんだろう!
その仕草が、その声が姿が、どんなに俺を魅了しているのか、おまえは知っているの
だろうか?
俺は手のひらに爪が食い込むほど強く、両手を握りしめた。
そうしなければ、オスカルを抱きしめてしまいそうだった。
それだけはできない。
誓いを破ったなら、もう、おまえのそばにはいられない。

沸き上がる想いを閉じこめるため、深呼吸をひとつ。
おまえの突飛な行動に呆れてしまったため息に似せて。
そうだ、決しておまえに気取られないように・・・。

「もう戻った方がいい。
おまえがいないって、みんな大騒ぎになるぞ。
俺も、そろそろ行かなくては。」
「うん。そうだな・・・。」
頷きながら、オスカルはなかなか帰ろうとしない。
昨日の姿が重なって、俺は少し心配になってきた。
「オスカル、どうかしたのか?」
彼女の答えによっては、戻ってもよかったのだ。
オスカルより大切なものなんて、俺にはないのだから・・・。

「帰る。」
ようやく顔をあげたオスカルが言った。
そうか、ひとりで帰るのか。
行くなというおまえの答えを、心のどこかで待っていたのかもしれない。
俺はずるい、そして弱い男だな。
心の底まで見透かされそうなおまえの蒼い瞳。
そのまっすぐなまなざしの前に、自分の弱さをさらけ出すのがつらくて、おまえから
目をそらした。
その時だった。
ふいに、俺の頬にやわらかな唇がふれた。
同時に、冷たい指が俺の手の内に滑り込み、俺の指を捕らえると、ぎゅっと握りしめ
た。
甘い香りが俺を絡め取り、動きを封じ込める。

「気をつけて行け。」
そう言い残すと、オスカルは馬首を翻した。
自分を取り戻したときには、もう、その姿は見えなくなっていた。
俺は夢を見ていたのだろうか。
・・・いや、夢じゃない。
あれは決して夢なんかじゃない。
片頬だけに残る燃えるような熱と、冷たい指先がそう言っている。
オスカル・・・おまえ、いったい・・・・・・


いつまで待たせる気だと言いたげな、いななきが聞こえた。
そうだ、こうしていても仕方がない。故郷はまだ遠い。
「すまないな。さあ、出かけようか。」
俺は、不満げな旅の相棒に声をかけ、軽く首をなでてやった。
けれど、今まで以上に、心はオスカルで占められていた。
今はここにいない彼女に、いくつもの疑問を投げかけてみる。

オスカル、おまえ、何のためにここまで来たんだ?
何か俺に言いたかったんじゃないのか?
本当におまえをひとりにしてもよかったのか?
なぜ俺にキスした?
おまえ、いったい何を考えているんだ?


しばらくおまえと距離をおくことで、その答えが見つかるだろうか。
それとも、休暇が終わってヴェルサイユに戻ってきたとき、おまえから答えがもらえ
るのだろうか。
俺は、オスカルが握った指にそっと唇を押し当てた。
甘やかなオスカルの香りがよみがえるような気がした。
いつの間にか、雲は姿を消し、青空が広がっている。
暖かな日差しの中、俺は再び、街道を南へ走り始めた。