帰郷 2. 〜オスカル〜 小鳥の囀りが聞こえる。 まだ夜は明けきらぬというのに・・・。 春の訪れが嬉しくて仕方がないのだろうか。 私は、眠られぬ長い夜がようやく終わろうとしていることに、ほっとした。 数え切れないため息と寝返りを繰り返し、やっと迎えた朝は、朝靄に包まれていた 。 「もう、発ってしまったんだろうか・・・。」 誰に言うともなく、呟く。 しばらく窓から外を眺めていたが、寒くなったので寝台に戻ろうとした。 まだ朝は早い。 『オスカル』 不意に名を呼ばれた気がして、振り返る。 黒い影が見えた。彼だ! 私はもう一度窓辺に駆け寄った。 黒い影は門のあたりで振り返り、 こちらを見ているようだったが、やがて、靄の中へ消えてしまった。 急に、ある思いが胸にわき上がる。 『このまま、二度と会えなくなったらどうしよう』 考えるより先に着替えをすませ、上着を手に部屋を飛び出している私がいた。 暴徒に馬車を襲われた。 アンドレが大怪我を負ったことで、 私はどんなにしても拭い去れない不安を抱いてしまった。 ―――アンドレを失うかもしれない それは、翌朝、彼の命が無事であることを 医師から告げられた後も、消えることはなかった。 怪我や病気でなくても、アンドレが私のことを嫌って、 あるいは誰か愛する人を見つけて、私から離れていってしまうかもしれない。 生きているアンドレを失うことは、ある意味 アンドレの命が失われるよりも、さらにつらいことのように私には思えた。 その日以来、私の中で、アンドレは今まで以上に特別な存在になったのだった。 ジェローデルとの結婚も、断った。 彼が与えてくれるだろう穏やかな生活に、心が揺れないではなかった。 けれど、当然ながら、そこにアンドレはいないのだ。 アンドレのいないこと、そして私が嫁ぐことで 彼が生きてはいけないほどに傷ついてしまうことを思ったとき、 私は迷わずアンドレを選んだ。 ただ、彼をひとりの男として愛しているのかと尋ねるジェローデルに 答えることはできなかった。 『アンドレを失いたくない。』 この想いがジェローデルの言う愛なのか、私にはわからない。 いつもそばにいてほしいという気持ちだけが、心を占めていた。 今まで彼と生きてきた長い日々を失うことには、 到底耐えられそうになかったのだ。 『愛しているのですか』 胸の中で何度も繰り返されるジェローデルの声に答えられないまま、 日毎にアンドレを目で追う時間が増えていった。 そして、彼と視線が合うたび早まる胸の動悸に 少しばかりとまどう自分を、もてあましていたのだった。 街道を駆けているアンドレに追いつくため、途中森を抜け、近道をとった。 馬を走らせながら、昨日の会話を思い出す。 突然のアンドレからの休暇願いは、私を驚かせた。 昔世話になった人が亡くなったので、両親の墓参を兼ねて、 生まれ育った村へ帰りたいのだと言う。 そういえば、ヴェルサイユに来てからアンドレは 一度も休暇らしい休暇を取っていなかった。 彼の休暇は、いつだって私と一緒だったから・・・。 アンドレは今まで何も言わなかったが、故郷に帰りたいときだってあっただろう。 私は、ずいぶんとひどい主人だったのかもしれない。 今までの自分を反省しつつ、「わかった。」とだけ、返事をした。 本当は、彼がしばらくいなくなることで、かなり憂鬱な気分になったのだが、 それと気づかれないよう、手元の書類に視線を落とした。 アンドレはしばらく何か考えていたが、突然、こう言ったのだ。 「じゃあ、オスカル、悪いが明日から勝手をさせてもらうよ。」 「明日だって!?」 思わず大きな声を出してしまった私に、アンドレが答える。 「ああ、明日からはたいした予定もなかっただろう? 来週いっぱいは、ちょうどブイエ将軍も休暇だし・・・。 それに、次の週はまた、会議だのなんだので忙しくなるはずだ。 先延ばしにすると、行きそびれてしまいそうだからな。」 ああ、そうだ、そのとおりだよ、アンドレ。 だけど、そんなに急に私をひとりにしてしまうのか? あまりにもうろたえた様子の私が心配になったのだろう。 アンドレは、日を改めようかと言ってくれたが、 結局私は、彼の休暇を認めたのだった。 ただ、ひとこと、こう言わずにはいられなかった。 「ひとりでやれる・・・1週間くらいなら・・・・・」 そう、1週間が限界だと、 おまえなしにいられるぎりぎりの時間だと、アンドレに訴えたのだった。 森を抜け、街道に出た。 アンドレはまだ、ここまでは来ていないはずだ。 馬から降り、並木にもたれて、一息ついた。 森を通って来たため、私は朝露ですっかり濡れてしまった。 そのせいで少し寒かったが、雲間から日がさしてくると、空気が暖かくなってきた。 屋敷を出たとき高ぶっていた気持ちが、ゆっくりと落ち着きをとりもどす。 アンドレは、私を見つけてくれるだろうか? なぜここにいるのかと聞かれたら、何と答えればいいのだろう? それよりも、私は、どうしたいのだ? アンドレに、何を言いたい? おまえに二度と会えないような気がして追いかけてきたのだと、 そう言ったら、アンドレはどんな顔をするのだろう? 彼のおだやかなまなざしを思い浮かべると、なぜだか泣きたくなってきた。 アンドレに会いたくて仕方がなかった。 もう何度も投げかけた疑問を、もう一度繰り返す。 『おまえは、アンドレを愛しているのか?』 私の心は、答えない。 戸惑いと、躊躇いと、やるせなさが溢れてくるばかりだ。 この気持ちを、何と名付ければいいのだろう? やがて、遠くから蹄の音が聞こえてきた。 遙かに見える影は、あっという間に彼とわかる場所へたどりつき、 やがて、私の前を通り過ぎてしまった。 心が萎えてしまいそうな刹那、私の名が叫ばれる。 「オスカル!!」 ああ、アンドレの声だ! 鼓動が速度を速める。 彼に会えたことで、彼が私を認めてくれたことで、 何とも言えない幸せな気持ちが、私を満たしていく。 私がこんなところにいるのを、アンドレは信じられないといった顔でみつめていた。 矢継ぎ早に浴びせられる質問に笑って答えながら、 さっきから感じている幸せが、 いつしか、切ない痛みに変わっていくのに気がついた。 今はいい。アンドレがそばにいるから・・・。 けれど、次の瞬間には、彼は行ってしまうのだ。 私をひとりここに残して・・・。 故郷への思いは、きっと私のことなど、すぐに消し去ってしまうだろう。 私を心配してくれるまなざしは、故郷の懐かしい景色に奪われてしまうだろう。 そんなのは・・・・・ そんなのは・・・・・いや・・だ・・・。 アンドレには、どんなときも、私だけを思っていてほしい。 その瞳には、私だけをうつしていてほしい。 以前にも、こんな思いを抱いたことがなかったろうか。 生まれて初めてドレスを身にまとい、女性側のステップを踏んで踊ったあのとき・・ ・。 そうだ、この胸の痛みはあのときと同じもの。 いや、それよりも、もっと・・もっと・・・・・。 風邪をひくからと、アンドレが自分の外套を着せかけてくれる。 これから旅にでるお前にこそ、必要なものなのに・・・。 こうして、いつもアンドレが心配してくれることを、当たり前のように思ってきた。 アンドレはいつだって、私のそばにいてくれたから・・・。 けれど、それは誰もが望んで得られるものではないのだ。 アンドレの存在は、まるで奇跡のようなのだと、 26年も経ってようやく私は気づいたのだった。 外套を羽織ると、ふわりと彼のかおりがした。 「暖かいな・・・。」 思わず、言葉がこぼれた。 もうひとつこぼれ落ちそうな言葉を、そっと心の奥深く閉じこめる。 今は、言えない。 これ以上、おまえに無理を言ってはいけない。 すべてを見透かしてしまうアンドレの瞳に捕まらないよう、 私は彼から視線を反らし、目を伏せる。 アンドレが、ひとつため息をついた。 わがままな私に、呆れてしまったのだろう。 「もう戻った方がいい。 おまえがいないって、みんな大騒ぎになるぞ。 俺も、そろそろ行かなくては。」 おまえの言葉が、ひどく淋しい。 もちろん、私のことを心配して言ってくれるのだが なんだか、追い返されているような気がして・・・。 けれど、これ以上おまえの時間をとどめておくことはできないな。 アンドレに頷いて返しながら、それでも、私はなかなか帰ることができずにいた。 私は待っていたのだ。 『休暇はやめだ』 『今から、一緒に屋敷に戻ろう』 そうおまえが微笑んで言ってくれるのを。 人から与えられることばかりを望んでいる私は なんて卑怯で、臆病な人間だろう。 アンドレはこんな私に気づいているのだろうか。 自分の心の内を知ってほしいという声と 女々しい弱さを知られたくないという声とが、激しく交叉する。 「帰る。」 やっとの思いでそう言った。 アンドレが、私から遙か遠くへと視線を移した。 彼の心は、すでに故郷へと向かっているのだ。 そう思うと、さっき閉じこめた言葉が、口をついて出そうになった。 『行かないでほしい』と・・・・・。 『私のそばにいてほしい』と・・・・・。 決して言えない言葉は、再び閉じこめられる。 今度は、アンドレの力を借りて、さらに深く封印される。 私は、彼の頬に唇を押し当てた。 彼の暖かな手の中に自分の手を滑り込ませ、長くしなやかな指をぎゅっと握った。 アンドレのぬくもりを忘れないように。 アンドレが私を忘れてしまわないように。 そして、ついに私は知ってしまう。 ジェローデルから、自分自身から、何度も問いかけられたその答えを・・・。 「気をつけて行け。」 短く言い残し、館へと馬を駆る。 アンドレとの距離が広がっていく。 それに比例するように、私の中で彼の存在が大きくなっていく。 たった今知り染めた思いを、私は心の中で何度も繰り返していた。 とまどいも胸の痛みも、すべては、アンドレへの恋ゆえだった。 愚かな私は、かつてのように傷つくのが怖くて 真実から目を背けていたのだ。 アンドレから守られる心地よさだけを享受し、 自分から与えることには、気づかないふりを装っていた。 心は、こんなにもアンドレを求めていたというのに・・・。 アンドレ、すまない。 私は、とんでもない大馬鹿者だ。 こんな私でも、おまえはまだ、愛していてくれるのだろうか。 前とかわらぬ思いを、抱いてくれているのだろうか。 屋敷へ続く道が、街道と分かれる場所で 私は馬をとめ、後ろを振り返った。 このまま、この道を駆けていきたい衝動に体が震える。 アンドレの後を追い、この気持ちを彼に預けてしまいたい・・・ 清かに風が吹き、借りたままのアンドレの外套から、彼の香りが立ちのぼる。 この外套を手に追いかけていったなら、彼はどんな顔をするだろう。 今なら、なんの苦もなく、アンドレに私の気持ちを伝えられる気がする。 まなざしを交わすだけで、その瞳をみつめるだけで、きっと彼は気づいてくれる。 何の言葉がなくっても・・・。 愛してる、アンドレ・・・ 声には出さず、唇だけで囁いてみた。 恋しさが溢れて、涙が一粒、頬を伝っていった。 アンドレが戻ってきたら、ちゃんと声にだして彼に告げよう。 そのときまで、この胸の痛みに耐えなければならないのだ。 それは、長い間、自分を偽って彼を苦しめてきたことへの 私がしなければならない、せめてもの償いだ。 ああ、けれど、ずいぶんとつらい1週間になるだろう。 私は、これから始まる甘い責め苦を思い、ため息をついた。 それから、ため息のむこうに見える幸せに向かって微笑んだ。 幸せの名は、アンドレ。 溢れる思いを抱きしめながら、私はゆっくりと、屋敷へ戻っていった。 |