懐かしい声が蘇った。
パリへ向かう馬車の中、罵声と怒号を聞きながら、アントワネットは遠い日へと想いを馳せていた。

――妃殿下はただいまここで、妃殿下に恋している20万の人々をごらんになっているのでございます――

凛とした声は、あの日の幸せそのままに甘やかに胸を打つ。初めてのパリ訪問。人々は嵐のような歓声で、皇太子夫妻を迎えてくれた。彼らは何処へ行ってしまったのだろう?いつもそばにいてくれた美しい近衛士官も・・・。

ああ、そうだ。彼女はもういない。あれほどまでに尽くしてくれた彼女は、自分に相対する道を選んだのだ。
その事実はアントワネットに得も言われぬ哀しみを与えたが、彼女を憎いとは思わなかった。

彼女に想いを馳せるとき、アントワネットはいつも暖かな幸せに包まれた。
思うがまま人生を謳歌していた日々。春の中の春。明日という日は、幸せな今日の続きだと信じて疑わなかった。
けれど今にして思えば、彼女の言葉のひとつひとつに、今の姿は見え隠れしていたのだ。それに気づこうとしなかった自分は、なんと幼く、頼りない存在だったろう。今なら充分、彼女に応えられたろうに・・・。アントワネットは強く唇をかんだ。

ほんとうにあの頃は何も分からずにいたのだと、彼女との会話を思いだし、反芻しながら、アントワネットはいたたまれないような気分になった。とりわけ彼女を傷つけたに違いない一言が、指先に刺さってなかなかとれない棘のように、胸を痛くする。

――あなたに女の心を求めるのは無理なことなのでしょうか――

なんと思いやりの無い言葉だったことか。彼女は確かに女であったものを・・・。
最後に会ったとき、決して許されない愛を、王妃ではなく、ただの女にすぎない自分を、涙と共に彼女は受け止めてくれた。それは彼女が、愛し愛されることを知っていたからに他ならないではないか。
すぐには分からなかった。彼女は恋をしているのだと気づいたのは、しばらく時間がたってからで、そのときは、自分の想いに囚われ、彼女の気持ちまで思いやれなかったのだ。そうして、かつて投げつけた心ない言葉を詫びる機会を、アントワネットは永遠に逃してしまった。

彼女が愛したのは誰だったのか?アントワネットの脳裏に、いつも彼女に寄り添っていた男の影がよぎった。黒い髪、黒い瞳。夜の国の使者にも似た静かな男。
彼女は愛したのだろうか?自分の分身のようなあの男を・・・。身分や纏い付くしがらみを超えて、ふたりは愛し合ったのだろうか?

「オスカル・・・」
アントワネットは、小さく呟いた。
今こそあなたに会いたい。王妃と近衛士官ではなく、ひとりの人間としてあなたと語り合いたい。
二度と取り戻せない時間を、アントワネットは悔やんだ。彼女の頬を涙が伝う。

――今だけだ。泣くのは、この馬車の中でだけ・・・――

負けられない戦いが始まる。今こそ、フランス王妃として、誰よりも誇り高く顔をあげて歩くのだ。だから、今だけは・・・・・・。
溢れる涙と共に、アントワネットはベルサイユに永遠の別れを告げた。



愛しい声を聞いた気がした。
レニエ・ド・ジャルジェ将軍は、領地のアラスで療養する妻を訪ねていた。国王夫妻がパリへ移されたあとも忠誠を誓い、ベルサイユにあった将軍だったが、末娘の死後、病がちな妻は、わずかな使用人とともに領地に住まわせている。
バスティーユ牢獄襲撃に始まる革命は、人々の人生を大きく変えてしまった。ジャルジェ将軍もまた、人生を変えられたひとりだった。

パリ出動の朝、娘はひときわ輝いて見えた。もとより美しい娘ではあったが、今朝の彼女は見慣れた軍服姿にもかかわらず、内からにじみ出るような美しさを纏っていた。彼女が、寄り添うように立つ男に微笑むのを見たとき、将軍は全てを理解した。

愛しい末娘は、幸せをつかんだのだ。幼いときから共に生きてきた男の手で、女としての人生を満たされたのだ。
その想いは、彼につかの間の喜びを与えた後、言いしれぬ淋しさへと導いていった。
彼女を見るのは、これが最後になるのではないか・・・・・・。

――たとえなにがおころうとも、父上はわたくしを卑怯者にはお育てにならなかったとお信じくださってよろしゅうございます――

一抹の不安は、その言葉が確信へと変えた。娘は、もうこの家には戻ってこない。彼女と相まみえることは、今この瞬間が最後となるのだ。
自分とは異なる道を歩むだろう娘に、かけてやる餞(はなむけ)の言葉は見つからなかった。ただ頷くだけの自分が、ひどく能なしに思えたが、彼女は微笑み、それから傍らに佇む男を見上げた。そのまなざしの、なんと甘やかだったことか。
男が微笑み返すと、彼女は頬を優しく染めた。それから父親に向き直り、もう一度笑顔を向けた。
生まれてきた喜び、男として育てられたことへの感謝、かけがえのない相手と巡り会えた幸せ、家族として慈しみあい過ごした日々への愛おしさ。万感の想いを込めた微笑みが、胸に染みわたる。

――行って参ります――

そう告げて、娘は生まれ育った屋敷を後にした。老いた両親を思いやり、最後まで希望を持たせてくれる優しい言葉を残して・・・。今はただ、彼女が自分の信ずるままに生きてくれることを、願うばかりだった。

それから数日の記憶は定かではない。
彼女の率いるフランス衛兵隊が、民衆の側にねがえった。息子のように思い、娘を託した男が死に、最愛の娘もまた、手の届かぬ場所へと逝ってしまった。そうした知らせが、まるで夢の中の出来事のようにもたらされる。いつ日が昇り、沈んだのかさえ分からぬまま、数日が過ぎた。

ロザリーが訪れたのは、そんなときだった。
ふたりは、ひとつ棺に納められ、パリに葬られたのだという。何とかしてここに連れてきたかったが、混乱したパリから運び出すことはできなかったと、ロザリーは涙にかきくれた。せめてもの形見にふたりの遺髪を届けてくれ、その最後を、彼らがどのように弔われたかを、知りうる限り、詳しく話してくれたのだった。
話の間中、妻は声ひとつ立てず、丁寧に小箱にいれられた黒と金の髪を、細い指先で愛おしんでいた。ロザリーが、どうかふたりの髪を一緒にしておいてほしい。ふたりが夫婦であったことを、娘が死の間際に告げていたと話したとたん、堰を切ったように泣き崩れ、そのまま床についてしまった。

アラスの館のそばに立つ菩提樹の根元に、彼らの髪を埋めた。明らかな墓標は憚りがあると、その木を代わりにしたのだ。花言葉は夫婦の愛だという。
あの夏の朝、娘とその夫に言えなかったいくつもの言葉を、将軍は菩提樹に告げる。

――あの日のおまえは、素晴らしく美しかった。アンドレ、私の大切な自慢の娘だ。頼んだぞ――
――おまえが私の娘でよかった。身に余る幸福を与えてくれた――
――無理をさせたな。すまなかった・・・――
――どうか、幸せに・・・――

菩提樹の葉を揺らす風の中、娘の笑う声が聞こえてくる。

「・・・オスカル・・・・・オスカル・・・!!」
彼女が逝ってから、初めて流す涙だった。心の奥につかえていたものが、ゆっくりと解け出していく。想いは尽きない。
将軍は菩提樹を抱き、いつまでもその場を離れなかった。



忘れられない声があった。
朝靄の中で、雨の巷で、雪の降りしきる深夜の窓辺で、予期せぬ場所、予期せぬ時に思いがけずそれは訪れ、その度ジェローデルの胸を熱くする。けれど次の瞬間、彼の心は切なく震え、行き場を無くした気持ちは深いため息となり、やがて小さな痛みを残し解き放たれる。
いつでも何度でも聞きたい声ではあったが、それは必ず、最も聞きたくない名と共に蘇り、ジェローデルを傷つけた。

――アンドレ・・・――

何と優しい、甘く切ない声なのか。自分をこそ、この響きで呼んで欲しかったものを・・・。あの人は最後まで、自分の名を呼んではくれなかった。

――ジェローデル――

近衛の部下であったときそのままに、この名の呼ばれ方が変わることはなかった。嫌悪もないが、愛情もない。何の感情も感じられない残酷な声。
いや、違う。そうではない。たった一つだけ、その声が告げてくれるものがあった。
信頼。
それはジェローデルが勝ち得た、かけがえのないものだった。

――さあ撃て!!――

激しい声だった。
議場にいすわる平民議員を排除するため、出動した近衛兵の前に立ちはだかった人。たとえようもなく、彼女を愛していた。

最初はその美貌に、やがては彼女の純な心や、真摯な態度に惹かれるようになった。
突然、彼女が近衛を去り、さらに過酷な場所へと転属した後、その想いは手が付けられなくなり、やがて、彼女の顔を見ずには、その声を聞かずにはいられない自分に気がついた。ジェローデルは迷わず、彼女の父親に告げていた。

――どうか、オスカル嬢との結婚をお許し下さい――

だが、彼の望みが叶えられる日は、永遠にこなかった。一度はその婚約者として、屋敷への出入りも許されたが、彼女の心が向き合う相手は、彼ではなかったのだ。

久しぶりに見る彼女は、壮絶なまでに美しかった。輝く髪は、その一本一本が意志をもって風にうねり、蒼い瞳は、燃える星のようだった。力弱き者にむける感情は、いかにも彼女らしく、ジェローデルは、ただ頭を垂れるしかなかった。何よりも、彼女の前で卑怯者になりたくはなかったのだ。

――退却!!――

命令を下す彼を、澄んだまなざしが捉えた。おまえを信じていると、蒼い瞳が告げる。心に、彼女の声が響いてきた。

――ジェローデル――

ああ、これは彼女が、近衛で自分を呼んだ声だ。彼女のもとから去った夜にも、聞こえた声だ。
大いなる信頼。時に、愛情よりも得難いその栄誉を、永遠の彼の女神から与えられたことに、ジェローデルは気がついた。
これでいいと思った。男女の愛ではなかったが、今、彼が受け取ったものは、それに値する輝きで心を照らしている。謀反人と呼ばれ、命を落とそうとも、悔いはない。恍惚とした想いが、馬上の彼を満たしていた。

――アンドレ・・・――

その声が告げるものを、ジェローデルは瞬時に理解した。
彼女の率いるフランス衛兵が出動すると聞き、いても立ってもいられず訪ねた兵舎で、それは偶然、耳にしたのだった。
少し先を歩く背の高い男に、彼女は呼びかけていた。黒髪が振り向き、深く穏やかな瞳が彼女を見つめる。彼女の声音と彼のまなざしから、ふたりの人生が重なり合ったのを、ジェローデルは知った。
胸に苦いものがこみあげる。踵を返し、足早にその場を離れた。それが、彼女を見た最後の日となってしまった。

彼女が命と引き替えにしたものは何だったのだろう。革命と呼ばれるそれが歩み続けるのを、ジェローデルはつぶさに見てきた。
多くの血が流された。自分が仕えた高貴な女性の死を、彼女はどのような想いで見ていたのか。いや、すでに空の高みにある人には、抱きあう魂だけが全てなのかも知れない。

あの秋の夜、もっと我が儘な男でいられたら、彼女は今も生きて、自分の傍らにいただろうか。もしかしたらその手に、小さな命が抱かれていたろうか。
言いたかったのは、あんな物わかりのいいセリフではなかった。
あきらめられない。身を引くことなどできはしない。あなたが欲しい、ただただ、あなただけが欲しいと、本当はそう言いたかったのだ。たとえ彼女に憎まれたとしても、無理矢理自分のものにしていたなら・・・。
彼女が逝ってしまってから幾度となく繰り返してきた想いに、答えはない。いや、答えはすでに出ているのだ。埒もないと、ジェローデルはゆがんだ笑いを頬に刻んだ。

――彼が不しあわせになるなら・・・・・・わたしもまたこの世でもっとも不しあわせな人間になってしまう・・・・・・――
――わたしもまた・・・・・・あなたが不幸になるならこの世でもっとも不幸な人間になってしまうから・・・です――

嘘と真実が交叉した夜。彼女が心の奥にひそむパンドラの箱に手をかけ、ジェローデルがシシュポスの苦役を背負った夜。
生ある限り、ジェローデルはあの夜をくり返し思い出し、丹念にその瞬間を拾い集める作業を続けるだろう。彼女の言葉を、その表情を、愛しい声を、ひとつたりとも忘れはしない。あそこで全てが終わり、そして全てがはじまったのだ。

「オスカル嬢・・・・・」

ジェローデルは呼びかける。

「一度でいいから、呼んでみたかったのですよ。あの男のように・・・。オスカル、とね。」

乾ききった瞳が優しく潤されるのは、この世に別れを告げるときだろうか。その日まであとどれだけ、この痛みに耐えていくのか。
彼女への想いに比例して深くなるため息が、密やかにこぼれる。それは、労るように、慈しむように、ジェローデルを包み込み、やがて空へと立ち上っていった。



fin