森の王様 〜初めての友だち〜
「これはきんぽうげ、こっちはつぼすみれ、あそこに咲いてるのはみみなぐさ。」
穏やかな春の午後、初めてふたりで屋敷の外に飛び出した。
明るい日差しが、木々の間からこぼれ落ちてくる。
森の中は、花や草のいい匂いでいっぱいだ。
小さな冒険に、オスカルの心は躍るようにはずんでいた。
やわらかな風に揺れる花を指さしては、アンドレが楽しげにその名を告げる。
「ほら、この黄色いのがへびいちごの花。もう少ししたら、赤い実がなるよ。」
「それ、さるとりいばらだ。とげがあるよ。気をつけて。」
「見てごらん!かけすがいる。あいつは、ものまねが上手なんだ。」
オスカルは、青い目をみはって、アンドレの指さす方向をみつめていた。
森の中で、アンドレの知らないものなんてあるんだろうか。
ラテン語や剣や乗馬なら、もちろんアンドレよりオスカルの方が上手にこなせる。
オスカルの方が、いつだって先生役だった。
けれど、ひとたび屋敷の外に出たら、ふたりの立場は忽ち逆転してしまったのだ。
花や鳥の名前も、木登りにうってつけの木も、アンドレが教えてくれた。
名前を知ってるだけじゃない。
オスカルが手をだすと逃げ出してしまう臆病なリスだって、アンドレだとうれしそう
に近寄ってくるのだ。
「慌てちゃダメなんだ。
奴らが、安心するまでじっと待ってあげなくちゃ。
こっちが悪さをしないのがわかれば、リスだって小鳥だって、そばに来てくれる
よ。」
アンドレは、手の中のパンを持って走り去る小さな仲間を、優しい目で見送りながら
そう言った。
「すごいや、アンドレ!
森のこと、何でも知ってるんだね。」
感嘆をこめて言うオスカルに、アンドレが答えた。
「そんなことないよ。
僕なんて、知らないことばかりだ。
オスカルのほうが物知りじゃないか。」
「アンドレのほうが、す・ご・い!
まるで・・まるで・・・・・森の王様みたいだ!」
オスカルがあまりに熱心に褒めるので、アンドレは赤くなってしまった。
「やめてよ、オスカル。そんなことないって。
それにポールなら、僕よりもっともっと、いろんなことを知ってるよ。」
「ポールって誰?」
「村にいたときの友だち。僕んちの隣に住んでたんだ。
兄貴みたいな人。」
「ふうん。」
アンドレがジャルジェ家に来て、一月あまりがたとうとしていた。
母親の死、故郷や友人との別れ・・・
短い間に、ずいぶんたくさんのことがあった。
新しい暮らしに慣れるため、夢中で過ごした一月だった。
失くしてきたものを、思い出す暇さえなかったような気がする。
久しぶりに口にした名前は、アンドレを一気に懐かしい場所へと運んでいった。
「僕、ポールにいろんなことを教えてもらったんだ。」
そう言って遠くを見ているアンドレがどこかに行ってしまうような気がして、オスカ
ルは少しばかり不安になってしまう。
大貴族の跡取りとして、屋敷の奥深く、厳しく育てられた彼女には、『友だち』とい
える相手は今までいなかった。
アンドレがオスカルの初めて親しくなった、同年代の子どもだった。
「アンドレには、友だちがたくさんいた?」
顔も知らないポールに軽い嫉妬を感じて、オスカルは尋ねる。
「うん、いたよ。
ポールは言ったよね。
あとはジャンだろ。
クロード、アンリ、ルネ、セルジュ、ポーリーヌ、リディー、ジャネット・・・」
「もういい。」
少しばかり不機嫌な声で、オスカルが遮った。
「オスカルは?」
アンドレは、無邪気に聞き返す。
友だちのいない子どもがいるなんて、彼には想像もつかないのだ。
「・・・・・僕・・・僕、剣の稽古や、勉強しなくちゃいけないんだもの。
遊んでる時間なんてないんだ。
だから、友だちなんていらないんだ!」
友だちのいない淋しさを素直にそうとは言えず、オスカルは強がってみせた。
「そうか。そうだよね、オスカルは、とっても忙しいものね。
僕みたいに、遊んでばかりいられなかったんだ。
えらいなぁ、オスカル。」
むずかしい本だって読めるし、剣は強いし、本当にオスカルはえらい!
アンドレは、心からそう思った。
けれどそれと同時に、少しだけ淋しい気持ちがするのは、なぜだろう?
僕は、オスカルの『友だち』じゃないんだ。
ふたりの間に身分というものがあって、それが違うんだっていうことは知っている。
オスカルは貴族のお嬢様で、僕は平民の子ども。
でも、僕はオスカルのことが大好きだし、オスカルだって、僕のことを好きでいてく
れると思ってた。
けれどそれは、友だちとしてじゃなかったんだ。
・・・・・僕はオスカルの・・・何なんだろう?
初めて感じた身分の差。
自分ではどうにもならないその壁が、初めてアンドレの前に大きく立ちふさがった。
少しだけ、ふたりの間に気まずい空気が流れる。
軽やかにリズムをきざんでいた足取りが、ほんの少し重くなった。
あんなに輝いていた太陽までが、急に雲に隠れてしまった。
「曇ってきたね。オスカル、そろそろ帰る?」
「うん・・・」
気のない返事を返したオスカルの瞳に、小さな白い花がうつった。
楽しい時間を取り戻したくて、オスカルはアンドレを呼び止めた。
「ねぇ、アンドレ、この花、なんて言うの?」
「どれ?」
「これ。この木に咲いてる花。」
二人の背丈ほどの木に、小さな白い花が咲いている。
ほろほろとこぼれ散った花びらが、風にふうわりと運ばれていく。
「小さくて可愛いね。ねぇ、なんて花?」
振り返って、オスカルは驚いた。
答えてくれるはずの『森の王様』は、オスカルが初めて見る暗いまなざしをその花に
向けていた。
「アンドレ?」
「え?・・・あ、ごめん。
えっと、この花だね・・・。
これ・・ね・・・・」
しばらく俯いて考えていたアンドレは、すまなさそうに小さな声で言った。
「ごめんね、オスカル。
僕、忘れてしまった。思い出せないや・・・・・。」
「『王様』も知らないのか。
まぁ、いいや。アンドレ、ナイフ持ってる?」
「あるけど・・・。」
「ちょっと貸して。」
アンドレにナイフを借りると、オスカルは、一番よく咲いている一枝を切り取った。
「母上のおみやげにしよう。気に入ってくださるかな?。」
オスカルの言葉に、アンドレのまなざしがさらに翳った。
「きっと、喜んでくださるよ。」
やはり俯きかげんにそう言うと、アンドレは、屋敷にむかって足早に歩き出した。
オスカルは、慌ててその後を追った。
アンドレはどうしたんだろう?
あんなに楽しそうだったのに、急に黙り込んでしまって・・・。
帰る道すがら、オスカルは何度もアンドレに話しかけた。
けれど、来たときのような弾んだ声は、彼から聞くことはできなかった。
雲で翳っているせいか、顔色も悪いような気がする。
「アンドレ、具合が悪いのか?」
オスカルが尋ねると
「うん、ちょっと、ここんとこが痛い。」
アンドレはそう言って、胸のあたりをおさえた。
驚いて医者をというオスカルに、大丈夫、疲れただけだと返事をして
「ごめんね、オスカル。
僕、部屋で休んでもいいかな?」
そう言い残し、アンドレは自分の部屋にすっこんでしまった。
いつもの彼とは違う様子が気になった。
でも、どんなに考えてみても、アンドレが急に無口になった理由はわからない。
王様なんて言ったのに、この花のことを知らなかったから、恥ずかしかったのだろう
か。
そんなの、なんでもないことなのに・・・。
オスカルは、首をかしげながら、ジャルジェ夫人の居間にむかった。
「母上、ただいま!」
勇んで部屋に飛び込むと、オスカルは手にした花をさしだした。
「これ、おみやげです。森でみつけたんだ。」
ジャルジェ夫人は刺繍の手をとめ、うれしそうにオスカルの『おみやげ』を受け取っ
た。
「まあ、さんざしね。もう、そんな季節になったのねえ。」
「母上、この花を知っていらっしゃるの?」
オスカルは驚いて尋ねた。
「ええ、知ってますよ。
ああ、お屋敷の中ではみかけないから、あなたは知らなかったのね。
昔はよく森へ散歩に行ったものだから、春になると必ずお目にかかったのだけれど・
・・。
久しぶりにみせてもらいましたよ。
ありがとう、オスカル。」
そう言うと、ジャルジェ夫人はオスカルの頬に、優しくキスをした。
母のうれしそうな顔に、オスカルも幸せな気持ちになった。
「あら、さんざし。どうなさったんです?」
お茶の用意をするため部屋に入ってきたマロン・グラッセが、ふたりに声をかけた。
「ばあやも、この花知ってるのか?」
「ええ、よぉく知っておりますとも。
娘が、アンドレの死んだ母親ですけれど、さんざしが好きでしてね。
春には、もっと華やかで色とりどりの花がありますのに・・・。
どういうわけか、この花を気にいってましたね。
小さくて愛らしいとか言って。」
アンドレの母上が好きだったって?
それなのに、どうしてアンドレは知らないなんて言ってたんだろう?
「あの子が亡くなった時には、まだ、さんざしは咲いていなくて・・・。
なのに、どうしてもお墓に供えるんだって、アンドレが駄々をこねたんですよ。
かあさんの大好きな花だからって言って。
あの時は、ちょっとばかり困りましたね。」
そう言って、マロン・グラッセは少し淋しそうに微笑んだ。
「ばあや、僕、お茶はいいから!」
そう言い残して、オスカルは部屋を飛びだすと、アンドレの部屋にむかって走り出し
た。
『アンドレ、ごめん。
僕、知らなかったんだ。
母上のこと思い出したんだね?
だから、あんなに、淋しそうだったんだね?』
アンドレの部屋の前に来ると、すすり泣きが聞こえてきた。
扉をノックしようとしたが、できなかった。
「かあさん、かあさん」と何度も呼ぶ声に、オスカルの胸はひどく傷んだ。
いつも明るくて優しいアンドレからは、想像できない悲しい声だった。
オスカルはどうすることもできずに、しばらく立ちつくしていたが、
「ごめんね、アンドレ。」
扉にむかって小さな声で呟くと、その場を後にしたのだった。
次の日、沈んだ心をもてあましながら、オスカルは厩舎にむかった。
馬で駆ければ、少しは気持ちが晴れるかと思ったのだ。
「おはよう、オスカル!」
突然、アンドレに声をかけられ、オスカルは息が止まりそうになった。
「あ、おはよう、アンドレ。」
「いい天気だね。」
「うん。・・・・・あの、あのね、アンドレ・・・」
「何?」
「えっと、昨日のことなんだけど・・・」
オスカルは自分が何を言いたいのか、わからなかった。
けれど、何かアンドレに言わなければいけないような気がして、言葉を探していた。
しばらくの間言いよどんでいると、アンドレの方が先に話し出した。
「オスカル、昨日はごめんね。
僕、何だか疲れてしまって・・・。
ちゃんと返事もしなくて、悪かったなって・・・。」
「そんなの気にしてない。」
気になるのは、アンドレの気持ちなんだ!
その時、アンドレが微笑みながら言った。
「昨日忘れたっていってた花なんだけど、名前、思い出したんだ。
さんざしっていうんだよ。
早く、オスカルに教えてあげようと思って・・・」
オスカルの瞳が大きく見開かれた。
いつもとかわらない微笑み、おだやかなまなざしのアンドレが、そこにいた。
昨日の淋しげな少年はどこにもいない。
涙のあとも、見つけられない。
あの悲しみを、アンドレはいったいどこにしまい込んだのだろう?
自分にさんざしの名を教えるために、どれだけの力を必要としたのだろう?
アンドレの強さを、オスカルは驚きと賞賛をこめて称えた。
「アンドレ、ありがとう。
ほんとにすごいな。
やっぱり、アンドレは、『森の王様』だ。」
「え〜?いやだなぁ、オスカルやめてよ、王様なんて。」
「だって、王様だよ。」
そうだ、アンドレは王様だ。
自分のつらい気持ちに誰かを巻き込んでしまわないよう、ひとりで泣いていたアンド
レ。
自分だけの力で悲しみから立ち上がり、人を思いやることができるアンドレ。
優しくて、誰よりも強い心を持っているアンドレは、王様にふさわしい。
誰が何て言ったって、アンドレは『森の王様』だ!
今まで弱虫だとばかり思っていたアンドレが、今日は少し大きく見えた。
「誰かに自慢したいな。王様が友だちだなんて。」
オスカルがうれしそうに言うと、今度はアンドレの瞳がまるくなった。
「オスカル、僕のこと、友だちだって思ってくれるの?」
―――僕は、ただの使用人じゃないの?
「何言ってるんだよ。友だちだろ?」
おかしそうに笑って答えたオスカルだったが、ふと思い出したように付け加えた。
「僕、ポールみたいにいろんなこと知らないけれど・・・。
それでも、アンドレは友だちって思ってくれるのかな・・・?」
俯いた目の前に、手が差し出された。
「よろしく。ベルサイユで最初の友だち。」
オスカルは微笑んで、その手をぎゅっと握った。
―――よろしく。僕の初めての友だち
口に出すと恥ずかしいので、心の中でそっと挨拶をした。
「オスカル、これからどこかに行くの?」
「馬に乗ろうと思ったんだけど、やめた。
アンドレ、また、昨日の森に行かないか?」
「うん、いいよ。
ちょっと待ってて。僕、すぐに仕事を片づけてしまうから。」
アンドレは、屋敷にむかって走り出したが、急に振り向いて大声で叫んだ。
「オスカル、さんざしの花言葉はね、『希望』なんだ。
僕のかあさんの大好きな花なんだ!」
明るい笑顔を残して、アンドレはまた走り出した。
咲き誇る花の向こうに姿が消えてしまう前に、もう一度振り返って手を振った。
朝日がアンドレを包んで輝いている。
まるで、金の王冠とマントをつけてるみたいだ。
ふふっ、『森の王様』にぴったりだな。
アンドレに手を振り返しながら、オスカルは歌うように囁いた。
僕の友だちは森の王様
金の光が彼の王冠
誰よりも優しくて
誰よりも強い心で
僕の大好きな、大切な宝物
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