そして、それから、だから、のつづき・・・・・・1 厚い扉を静かに閉じて、アンドレは小さくため息をついた。気持ちを入れ替えるべく軽く頭を振ってみたが、一度沈んだ心が浮上するにはもう少し時間が必要なようだ。 足早に厨房へ向かいながら、アンドレは今日自分が演じてしまった失態を思い返していた。 ――日に二度もヘマをやらかすなんて・・・。しかもオスカルの目の前で!! 端正な顔を曇らせて、アンドレは再び、今度は深く息をついた。 一度目は司令官室でだった。ちょっと注意していれば見つけられた書類を探し回ってしまった。二 度目はたった今。カップに手が当たり、彼女のために入れたショコラをこぼしてしまった。 書類はちゃんと見つかった。こぼれたショコラはすぐに片づけた。 それ自体はどうといった事件ではないのだが、問題なのは、書類もカップも彼の左側にあったことと、それをオスカルがしっかりと見ていたことだった。 左目を失明してから視野が狭くなってしまった。不自由なのは否めないが、だからと言って悲観はしなかった。もしも自分ではなく彼女が傷ついていたら・・・。それは考えるだけでも恐ろしいことだった。この命よりも大切な人に捧げたのだ。誇りでこそあれ、何を悲しむことがあるだろう。それなのにオスカルは、彼が傷ついたのは自分のせいで、彼が負った怪我は自分が負うべきものだったと、何年たっても自身を責めている。 今日のように彼が何かを見落としたりするたび(それが彼の左側で起こったことならなおさら)、彼女の蒼い瞳に暗い影がさすのだった。 アンドレの胸に、オスカルの微笑みが蘇る。 ワインがよかったのにとかわいらしく拗ねていた。飲み過ぎだからと返してやると、ばあやそっくりだと楽しそうに笑っていた。 あでやかな笑顔、拗ねた横顔、いたずらなまなざし、甘えた指先。 自分だけに向けられるオスカルの仕草のひとつひとつが、アンドレを幸せにしていた。それは長い時を経て、ようやく彼が手にした宝物だった。 書類を見失ったりカップを倒したりしたのは、そんな彼女に見とれていたからかもしれない。いや、きっとそうに違いない。 それなのに、夏の輝く海のようだった彼女の瞳は、一瞬のうちに翳ってしまった。そして、アンドレの心もまた、暗く沈んでしまったのだった。 「ずいぶんと景気が悪そうだこと。」 不意に声をかけられ、アンドレは顔をあげた。 「やあ、コレット。」 オスカル付きの侍女、コレットは、昔からアンドレには姉のような存在だった。面倒見と、おまけに勘もいい彼女に、ふたりの新しい関係はすぐ気づかれてしまったが、コレットはそれをなじるでも心配するでもなく、暖かく見守ってくれていた。 「熟れた果物が落ちてくるように、自然なことだったのよね。」 そう言ってよかったわねと微笑んでくれた彼女の顔を、アンドレはずっと忘れられずにいる。障害の多い恋人たちにとっては、頼もしい理解者なのだった。 「オスカルさまのお部屋に行くんでしょう?それなのに、ずいぶん陰気な顔じゃない。」 オスカルさまにお茶をお持ちするのは本当は私の役目なんだからねと、コレットは背の高いアンドレを上目遣いに軽く睨んだ。 「そんなに嫌なら私が代わるわよ。」 「ちがうよ、コレット。」 慌てて答えたアンドレがおかしくて、コレットは吹き出した。 「安心なさいな。あんたのじゃまはしないわよ。って言うより、オスカルさまのがっかりしたお顔を見るのは、私、嫌だもの。」 何かあったのと瞳で問いかける彼女に、アンドレはかいつまんで今日の話をした。小首をかしげて話を聞いていたコレットは、ほっと小さなため息をついた。 「責任感のお強いところがオスカルさまのいいところなんだけれど・・・。ずっとそんなじゃ、あんたもつらいわね。」 「つらいっていうか、おれはその度、彼女が痛ましいんだよ。おれのことで悲しい顔をさせたくないんだ。」 「あらあら、お熱いことで。」 「からかうなよ。」 アンドレの頬が赤くなった。その様子が何ともこどもっぽくて、コレットは思わず微笑んだ。 時折彼が見せるそうした姿は、コレットに幼い彼を思い出させるのだ。くりくりした瞳のかわいい少年だった。オスカルさまと一緒に悪戯をして、ばあやさんや私によく叱られていたっけ。 侍女たちの熱い恋心をさらりとかわす技術には長けたようだが、中身はまだまだ。ストイックで物静かな大人の男だなんて、いったい誰が言ったのだろう。 今では自分の遙か上にある彼の顔を見ながら、コレットはおかしくて仕方がなかった。 「それならなおさらのこと。あんたはその陰気な顔をどこかにやっちゃって、少しでも早く、オスカルさまのところへ戻りなさい。あの方をお元気にしてさしあげられるのは、あんただけのようだからね。」 アンドレの大きな手をとりぽんぽんと軽くたたいてから、コレットはウインクした。 「聞きようによっちゃ、オスカルさまがどれだけあんたのことを心配して大切に思ってらっしゃるのかって、惚気にも聞こえてよ。」 「なっ!そ、そんなんじゃないよ。」 コレットは笑いながら、がんばりなさいよと、まっかになって焦っているアンドレの背中をどんと押した。 重い扉が閉じる音をオスカルは背中で聞いた。と同時に振り返り、切ないまなざしを扉にむけた。 たった今そこから出て行った男が恋しくて恋しくて、すぐさま後を追っていきたくなる。 「アンドレ・・・。」 小声でその名を呼んでみると、胸がきゅっと痛くなった。 幼なじみから恋人同士へと、ふたりの人生は今まで以上に深く重なり合った。それと共に急激に変わっていく自分が、何となく面はゆい。 彼の名を聞くだけで胸がときめく。ひとりで過ごす時間がひどく長く感じる。彼の声や姿をたえず追いかけてしまう。 以前にも恋はしたけれど、これほどではなかった。恋しい人を思うとき、たとえようもなく暖かな気持ちで満たされることを、オスカルは初めて知った。 『薔薇色の人生』とはきっとこんな日々のことを言うのだろうと、ついさっきまでは思っていたの だ。そう、ついさっきまでは・・・。 アンドレが運んでくれたショコラの香りが、まだ部屋に残っている。 彼のいれてくれるショコラは彼女のお気に入りだが、なんとなく我が儘を言いたくて、ワインがよかったと拗ねてみたのだ。 自分がそんな風に甘えるとき、彼がとびきり幸せそうに微笑むことに、いつの頃からかオスカルは気づいていた。その笑顔が見たくて、時折、わざと我が儘なお嬢様を装うのだ。 我が儘も小さな諍いも、恋人同士の甘い戯れにすぎなかったし、ふたりの時間をさらに薔薇色に彩るスパイスになった。彼がカップを倒してしまったのだって笑い話で終わるはずだったのに、それなのにどうして、今、自分はひとりでこんなにも寂しい思いをしているのだろう。 わたしのせいだと、オスカルは唇をかんだ。 わたしが悲しい顔をしたから、わたしが黙り込んでしまったから、わたしが、彼の瞳を奪ってしまったから・・・・・。 彼が視野の狭さゆえにトラブルを起こすたび、オスカルは自分を苛んでいた。 ――わたしが無茶をしなければ、アンドレは片眼を失うことはなかったのだ。 もう何度も繰り返してきた後悔の言葉は、心の中に幾重にも降り積もっている。 彼は一度だってオスカルを責めなかった。おまえの目でなくてよかったとさえ言ってくれた。 その深い愛情は、時にオスカルを切なくさせる。今ではそこに彼への愛が加わり、さらに増した胸の痛みが、彼女を苦しめていた。 悔やむ気持ちは尽きない。考えていると涙がにじんできた。オスカルは瞳を閉じ、椅子の背もたれに頭を預けた。 まぶたに、優しい笑顔が浮かんでくる。自分が目を閉じるとその面影が浮かぶように、彼の左目にもいつも自分の面影が映っているだろうか。愛おしいすべてが五感に蘇り、会いたい気持ちに拍車をかける。 「アンドレ・・・、アンドレ・・・・・」 消えそうな呟きが、密やかな吐息といっしょにこぼれ落ちた。 コレットに背中を押されて、アンドレはオスカルの部屋に戻ってきた。 ――オスカルさまをお元気にしてさしあげられるのは、あんただけ この言葉が、なかなか効いた。 そうだ、彼女が笑顔でいられるようにすることこそ、自分の使命ではないか。アンドレは片手をぐ っと握り、自分自身に気合いを入れてからノックした。 ところが、扉の向こうから、返事は帰ってこない。 待ちくたびれて眠ってしまったのだろうか?それとも、まだ、沈んだままでいるのだろうか?アンドレは、そっと扉を押し開け、部屋の中へと視線を走らせた。 形の良い金色の頭が、大きな椅子の背もたれからのぞいていた。アンドレは声をかけようとして、 立ち止まった。オスカルの声が聞こえたのだ。 「違う・・・・・こうじゃない・・・・・。 ・・・・・やっぱりだめだ・・・。」 オスカルは、呟きながらため息をついていた。 少しずつ頭の角度を変えては、背もたれに預けたり、額を押しつけたりしている。彼女が何のため にそんなことをしているのか、アンドレにはまったくわからなかった。 「何がだめなんだ?」 声をかけると、ピタリとオスカルの動きが止まり、やがてゆっくりと振り向いた。その頬に涙の後 がないのを見て、アンドレはほっと胸をなで下ろした。しばらく恨めしげに彼を見つめていたオスカルが、ぼそっと言った。 「見たな。」 「ああ。」 「部屋に入るときは、ノックぐらいするものだ。」 「もちろん!おれは躾のいい従僕だから、ちゃんとノックはいたしました。」 アンドレは大袈裟にお辞儀をしてみせた。 「わたしには聞こえなかった。」 「たぶんね。返事がなかった。」 「躾のいい従僕は、返事がないうちは部屋に入ってこないものだが。」 「おれは、躾がいい上に有能な従僕なんだ。ご主人の身に返事ができないようなことが起こったんじゃないかと、心配で待っていられなかったのさ。」 言いながら、アンドレはオスカルの隣に腰をおろした。 黒い瞳が悪戯っぽく輝き、唇は楽しげな弧を描いている。それを見上げるオスカルの瞳にも、悪戯な色が浮かんだ。 「心配してくれたわりには、黙って眺めていたようだが。」 「声をかけていいものかどうか、思案していたんだよ。言ったろう?おれは躾が良くて有能だって。どうすれば一番ご主人さまのためになるのかを、常に考えているんだ。」 「ほんとうに?」 「ほんとうに!」 笑みをたたえながら、挑むように見つめ合っていたふたりだったが、オスカルのまなざしが、不意に甘くゆらいだ。 「だったら・・・アンドレ・・・・・・。今、一番わたしのためになることをしてほしい・・・・・。」 アンドレは微笑んで頷くと、オスカルを抱きしめ、耳元で囁いた。 「お待たせしました、ご主人さま。」 吐息のような声を聞きながら、オスカルもしっかりと彼を抱きしめた。ほんのわずか離れていた時間が、媚薬のように恋心をかきたてる。互いのぬくもりを確かめ合うように、ふたりは、じっと抱き合っていた。 |