そして、それから、だから、のつづき・・・2 時計が遠慮がちに時を告げる。 オスカルの頬を両手で包み顔を上げさせると、蒼い瞳が夢見るように開かれた。それをしばらく見つめ、今はそこに幸せしかないことを確認してから、アンドレは安心して目を細めた。 「もう、大丈夫?」 静かに尋ねると、再び彼女の顔に小さな影がさした。 しまった。まだ言うんじゃなかった。今夜はかなり重症らしい。 アンドレは、自分が今どんなに幸せでいるか知っているかと尋ねながら、素直に答えられない恋人を再び抱きしめた。 「おれは確かに片眼を失ったけれど、それ以上のものを受け取ったんだ。 ・・・こうは考えられないか?おれたちが経験してきたことは、すべて今に繋がっているって。」 両親の死後、ここに引き取られたことや、オスカルが男として育てられたこと――そういった過去のどれかひとつでも欠けていたなら、ふたりはこうしていなかったかもしれない。ぽつりぽつりと話すアンドレに、彼のシャツをぎゅっと握ったオスカルはかぶりをふった。髪の香りがふわりと舞い上がった。 「わたしは、たとえ何があったとしても、必ずおまえと巡り会ったと信じたい。」 小さいがはっきりと、オスカルは言う。ふたりが共に生きること、愛し合うことは運命に定められていると、そう思っていたかった。 たとえ違う人生を生きていたとしても、必ず彼をみつけだし、この腕の中に戻ってくる。彼を愛し、愛されて生涯を終えるのだ。今は、それ以外の人生など考えられなかった。 激しく自分を求めてくれるオスカルがあまりにも愛しくて、アンドレは胸が痛くなってきた。 幸せが大きすぎると、却って切なくなるのはなぜだろう。抱きしめた『切なさのもと』。その存在を確かめるように、静かに彼女の背を撫でた。 「そうだね。だけど、過去が今をもっと幸福にしているとは思わないか?」 「おまえの目を失ったことが?わたしの我が儘で長い間おまえを傷つけてきたことも?」 彼が軍に籍を置くようになったのも自分のせいだ。銃や剣が誰よりも似つかわしくない男なのに・・・。自分に関わったことで、アンドレはどれほどの犠牲をその体と心に負ってきたのだろう。 「わたしがいなければおまえは」 「おまえがいたから、おれは生きてきたんだよ。」 静かな揺るぎない声がオスカルを遮った。 彼女と共に過ごしてきた時間のすべてを覚えている。喜び、悲しみ、その時々に流した涙。それらのひとつひとつが細胞となり、今の彼を形作っているのだ。いらないものなんて、ない。つらい時を経たからこそ、今の喜びは果てしがない。 「過去はすべて必要だったんだ。この瞬間を過ごすために・・・。」 涙がアンドレのシャツを濡らした。 優しく抱かれ、あやされるように揺られていると、彼の言葉が嬉しい気持ちと自分を責める気持ちとがないまぜとなり、悲しくて泣いているのか幸せだからなのか、オスカルはわからなくなってしまった。 ひとつだけわかるのは涙がひとつこぼれ落ちるごとに、張り裂けそうだった胸が癒されていくこと。彼女を苛んでいた痛みは、胸の奥で次第に小さく鈍くなっていった。 「そしてふたりは、いつまでも幸せに暮らしました。」 ふとアンドレが呟き、彼の胸の中で身じろぎもせずにいたオスカルは、思わず顔を上げた。 「ずっと願っていた。そういう日がくることを・・・。だけどね。」 そこで言葉を切り、彼はためらう素振りを見せた。 続きを待つまなざしが不安げに揺れる。涙の後を追って頬をそっとなでるアンドレの指にオスカルの手が重なり、先を促す。しなやかな指のぬくもりに押されるように、ためらいのわけがこぼれ出た。 「だけど・・・その願いが叶ってみると、想像していたのとは少し違っていたんだ。・・・・・・めでたしめでたしでは終われなかった。」 よくわからないと形の良い眉がひそめられるのを見て、何て言ったらいいのかなと、アンドレはため息と共に呟いた。 ふいに心に浮かんだ思いだったのだが、それは、なんて今の自分たちに似つかわしい喩えなのだろう。 「ふたりは愛し合って幸せになって・・・。 今までは、それでよかった。それだけで十分だったのさ。おまえに愛されることこそが、おれのただ一つの願いだったから・・・・・・。だから、その先のことなんて思いもしなかった。 けれど現実はおとぎ話とは違う。そこからまた新しい毎日が始まる。めでたしめでたしの続きがあるってことに気がついたんだよ。」 言葉を探しながら、一言一言、自身に言い聞かせるように話していたアンドレが、少し悲しげに瞼を伏せた。 「おまえがおれを愛してくれる。 それだけでよかったはずだった。 それなのに実際そうなってみると、次の願いが生まれてくるんだ。もっともっとと、おまえを求めてしまう。際限なく。 おれは今まで、自分がこんなにも欲深な人間だったなんて知らなかったよ。」 静かな声がゆっくりとオスカルの心を染めていった。 彼の想いが嬉しい。少しずつ愛に彩られていく自分が愛おしい。 潮のように体を満たしていく幸せを伝えたくて、オスカルは彼の背中にまわした手に力を込めた。それに応えるように彼女の髪に顔を埋めたアンドレが呟いた。 「おまえをこうして抱きしめていても、不安になるんだ。これは夢じゃないかって。」 「夢なんかじゃない。おまえはこんなにあたたかい。わたしは?」 「ああ、あたたかいよ。あたたかくて柔らかくて・・・・・・。 そうだ、これは夢じゃない。だからおれたちは、おとぎ話の中で生きているんじゃない。過去に囚われるより、その先を綴っていく方が大事なんじゃないかな。」 「その先・・・。」 「愛していると言い合って、その後は?そしてふたりはどうする?それからどうなる?だからどうすればいい?」 彼女の瞳が大きく見開かれた。それをのぞき込むようにして、アンドレは柔らかく微笑み頷いた。 「おれが片眼を無くしたのは変えようがない事実だ。 おまえが気遣ってくれるのは嬉しいけれど、それをいつまでも嘆いたところでどうなるものでもないだろう?それよりも、今から先のことを考える方が、ずっといい。」 オスカルの胸に残る痛みが柔らかく溶けていく。 今を、これから始まる明日を考える――それはとても素敵なことに思えたが、ほんとうにそれでいいのだろうか。そんなにも簡単に、自分の過ちは許されるのだろうか。 なおも眉を顰めているオスカルを見て、アンドレは困ったように笑うと、彼女の額に自分の額をこつんとくっつけた。 何もかもを見ているただひとつの瞳。 目の前のそれにうつっているのがどんな顔か知りたくて、オスカルは瞳を凝らした。 時に燃えるような情熱を宿すまなざしは、今、限りない暖かさと慈しみをたたえ、穏やかに凪いでいる。 察するに、自分はかなり情けない顔をしているに違いない。アンドレはいったいどう思っているのだろう?彼が愛しているのは、もっと凛々しく潔い人間なのだろうか? オスカルは瞳を伏せ、アンドレの視線から逃れた。 「・・・・・・こんなわたしは・・・嫌いか?」 「まさか!」 アンドレが声を荒げた。 「今夜のおまえはどうかしているぞ。いったいどこをどう押せばそんな考えが湧いてくるんだ? いいか、よく聞け。オスカル、おれはおまえを愛している。言葉では語り尽くせないほど愛している。愛さずにいられないよ。」 「アンドレ・・・」 「おれが言いたいのは、いつだって前向きなおまえが、どうしておれの目だけには、いつまでも拘っているのかってことだ。」 「当たり前ではないか!」 今度はオスカルの声が大きくなった。 「いったい誰の話をしていると思ってるんだ!?おまえの・・・!!」 言葉が途切れた。 ぎゅっとかんだ唇の、鮮やかなその色がわずかに褪せた。白い顔が怒っているようにも、泣いているようにも見える。 オスカルはしばらく睨むようにアンドレを見つめた後、手のひらをそっと彼の頬に添えた。細い指が左の瞼を撫でる。震える指先は熱く、彼の見えない目の奥にまでその熱を伝えてきた。 「おまえの目だから・・・大切なわたしの目なのだから・・・・・だから、ずっと悲しいんじゃないか・・・・・・・。」 呟くように言うと、オスカルはアンドレの首に腕をまわし、しっかりと抱きしめた。 二度と失いたくない。どんなに小さくても、彼の何かを失うのは嫌だった。 何よりも誰よりも大切なもの。もう決して傷つけたりはしない。こうしていることで守れるものなら、永遠に抱きしめていよう。たとえどんなに困難なことにでも、立ち向かってみせよう。 そう思ったとき、さっきの彼の言葉が蘇った。 ――愛していると言い合って、その後は?そしてふたりはどうする?それからどうなる?だからどうすればいい? 頭の中で何かが弾けた。 彼女にしっかりと抱きしめられて、アンドレは戸惑った。彼女から先に自分を抱きしめるという動作は、初めてだったのだ。 ふれ合う肌の温度とその柔らかさが、思考を停止させる。身動きができない。ただ彼女の声だけが、繰り返し頭の中に響いている。 ――おまえの目だから・・・大切なわたしの目なのだから・・・・・だから、ずっと悲しいんじゃないか・・・・・・・。 声の後を何度かたどり、ようやくその意味が理解できたとき、彼の腕は彼女をかき抱いた。 「続きが見つかった。」 耳元で囁く声に顔を上げたアンドレは、まっすぐに自分に向けられた瞳に、思わず目を細めた。憂いを脱ぎ捨てた凛と涼やかなまなざしが眩しい。では彼女は、ようやく過去をふっきる術を見つけたのだ。どんな表情も魅力的だが、迷いなく信じるものを見つめる彼女は、何にもまして美しい。その視線の先が自分であることに、アンドレは、体が震えるような喜びを感じていた。 「それはよかった。」 答えた声は少し掠れていたが、それを聞いたオスカルは花がほころぶように笑った。それから彼の肩に顔を埋ると、ほぉっと深く満足げなため息をついて言った。 「もう、おまえの目のことで泣くのはやめる。」 そうだ。彼の目が不自由ならば、それを自分が補えばいい。彼が出来ないことは、自分が代わればいい。 彼が今までしてくれたように、今度は自分が彼を助け支えていくのだ。 どんなにしたって、アンドレの瞳が失われた悲しみが無くなることはない。胸の痛みも消え去りはしないだろう。 けれど、ただ嘆いているよりは、この考え方の方がずっと建設的だ。何より、アンドレの顔を曇らせずにすむではないか。 オスカルは、ふふっと小さく笑った。 「そうして、王子様とお姫様はもっと幸せになるんだ。」 密やかな笑い声にくすぐられ、アンドレは彼女を抱く手に力を込めた。 オスカルが愛してくれるのは知っている。どれほど大切に想っていてくれるのかも、十分すぎるほどわかっている。 けれど、彼女の気持ちが言葉となってその唇からこぼれたとき、その愛が、自分が彼女を想うのと同じ重みであることに、アンドレは初めて思い至ったのだ。 今までは彼女を守ることだけしか頭になかった。彼女のためなら命すら惜しいとは思わなかった。 傷つけないよう傷つかないよう心を砕いてきたが、自分の思いだけが先走ってはいなかったか。彼女の心の在りどころを考えたことはあっただろうか。彼女の痛みを愛おしく思うのと同じく、彼女はアンドレの痛みを我が事と感じているのだ。 彼女をすっかり理解しているつもりで、一番大切なところがわかっていなかったと、アンドレは猛烈に悔やんだ。そしてそれ以上に、愛し愛される幸福に酔った。 想いのたけを伝えるため重ねた唇から、手のひらから、ふれ合う体のすべてから愛情が行き来する。互いの熱が心を溶かし、ひとつにする。 ほんとうに、恋とはなんと甘美なものなのだろう。 長いくちづけの後、再び見つめあう瞳の中に、ふたりは同じ想いを読み取っていた。 「わたしたちは、この世で一番幸せな恋人同士だと思わないか?」 「ああ。おれたち以上の幸せ者は、今までも、これからだってきっといないだろうさ。」 オスカルが、ひとが聞いたらあきれて物も言えないだろうと、アンドレの肩に額をこすりつけるようにして顔をうめ、笑った。 同じく笑いながら、その様子を愛しげに見つめていたアンドレは、ふと、この部屋に戻ってきたときのことを思い出した。彼女は椅子の背に、今と同じように頭を預け呟いていた。違う、こうではないと。 そういえば、さっきから何度も同じ仕草を自分の肩の上でオスカルは繰り返していた。 「オスカル、これはなにかのまじないか?」 「?」 「いや、さっきからずっと、額をごしごしやっているから。おれがここに戻ってきたときは椅子に、今はおれの肩に・・・。 こうすると、何かいいことでもあるのかと思って。」 何のことだときょとんとしたオスカルの頬が、赤く染まった。そうして、ここは居心地がいいんだと、恥ずかしそうに答えた。 「おまえの肩に不思議なくらいぴったりと、私が収まる場所があるんだ。」 こうやってと、彼の肩で頭を振っていたオスカルがその動きを止め、ほらと嬉しそうに言った。確かに彼女の顔のライン――額や頬や鼻や顎が、首の付け根から鎖骨のあたりで、ぴたりと自分にそっている。あの不可解な首振りは、ここを探し当てるための儀式だったわけだ。なんて可愛いことをやっているんだと、アンドレはたまらず彼女のそこここにキスの雨を降らせた。 「くすぐったい!」 「だって、おまえが可愛いすぎるから。こうしないとおれの心臓が破裂してしまう。これはおれのまじないだ。」 「ばか。」 「ああ、おれはばかだよ。恋する男なんて、みんな大馬鹿野郎に決まってるさ。」 そうなのかと真顔で尋ねる様子が愛しくて抱きしめると、オスカルは自分の特等席に頭を預けた。 「ここにこうしていると、心が穏やかになっていくんだ。暖かくて安らかで・・・・・・。 さっきは、おまえがいなくなってしまったから・・・ちょっと淋しくて・・・」 「それは嬉しい言葉だな。」 アンドレは心からそう言ったのだが、からかうなよと頬を染めたオスカルは彼から体を離し、拗ねて横を向いてしまった。けれどすぐにくすくすと笑い、椅子の背にしなやかな指をすべらせた。 「なかなか座り心地のいい椅子なんだが・・・。残念ながら、おまえの代わりにはならないようだ。」 そう言って柔らかく微笑むと、再び、アンドレの肩に納まった。薔薇色の唇から、満足げなため息がこぼれる。 「お気に召しましたか?」 「うん、気に入った。」 「それはよかった。」 アンドレの優しい声が体から体へと響いてきて、心が甘やかに満たされた。 けれど幸せに浸りながらも、ふとオスカルは思いだす。 貧しさにあえぐパリの人々を、衛兵隊の兵士たちを、愛を込め仕えた美しい人を、かつて恋いこがれた北国の貴公子を、愛故に身を引いてくれたあの人を。 こうしている間にも時は流れ、歴史はその歯車をとどめない。フランスは歩み続けているのだ。 それではわたしたちのそれからは、どうなっていくのだろう? 黙り込んだオスカルの頬に、アンドレが小さくくちづけた。 彼の唇が触れた場所から、その存在を主張するようにゆっくりと熱がひろがっていく。 たとえ何が起ころうとも、このぬくもりはいつも傍らにある。明日を紡いでいくため、前に進む勇気を与えてくれるもの。 めまぐるしく変わっていく時を生きていくためには、けっして変わらないものが不可欠なのかもしれない。 「アンドレ・・・」 「ん?」 「ここは、わたしのために作られた場所らしい。だから・・・・・」 「だから?」 「だから誰にも・・・、ここに触れさせないでほしい。」 目をとじてうっとりと囁くオスカルに、もちろんそうするさと、アンドレは囁き返した。 たとえどんな未来が待っていようとも、彼女への思いが変わることはない。この愛があったからこそ、今日までの日々があり明日を生きていけるのだ。 おれのすべてはおまえだけのためにあるのだと、アンドレは思う。 わたしのすべてがおまえだけを求めていると、オスカルは思う。 そして、恋人たちは再び見つめ合い それから、微笑みあった。 愛おしくてならないものを互いの瞳の中におさめると、この時がいつまでも続くようにと願う。 だから・・・・・・ そのためにはどうすればいいのだろう。 その答えはきっと、これからふたりで捜していくのだ。 胸の内に同じ想いを重ね合って、ふたりはもう一度、唇を合わせた。 開け放たれた窓から忍び込んだ夜の風が、しめやかに愛し合う者たちを包みこんだ。 |