〜聖ヴァレンティヌスは笑う〜


空がどんよりと灰色の雲でおおわれている。この分だと、また雪になるかもしれない。
私は、窓の外をぼんやりとながめながら、すっかり冷めてしまったショコラを飲みほした。
今日は久しぶりの休暇で、私は暇をもてあましていた。
いや、こんなはずではなかった。暇をもてあますどころか、時間が足りなくて困るはずだったのに・・・。
「いったい、何のために今日を休暇にしたと思ってるんだ!」
何だか腹がたってきた私は、ひとりごちた。私の苦情を聞いてくれるはずの、アンドレはここにはいない。
隣にポッカリとあいた彼が座るはずの場所に、私はひとつパンチをお見舞いした。

今日は、2月14日。聖ヴァレンティヌスの祝日だ。
ローマ皇帝クラウディウスは軍隊強化のため、兵士の結婚を禁じていた。司祭ヴァレンティヌスはそれを無視し、兵士の結婚を執り行ってやったため、罰せられた。その殉教した日が、いつの間にか愛の日となったんだそうだ。
この日は、恋人同士がプレゼントを贈りあう風習があって、宮廷でも毎年賑やかな1日になっていた。
今まで、そういったことにはまったく興味のなかった私だが、今年は少しばかり事情が変わっていた。幼なじみだとばかり思っていた男を、誰よりも愛していることに気
がついてしまったから・・・。
ありていに言えば、私も世の恋人たちと同じように、この日を過ごしてみたかったのだ。
ただ、アンドレにこの気持ちを素直に伝えるのは、ちょっとためらわれた。
彼と一緒にいたい、一瞬たりとも離れずにそばにいてほしい。
それは、私の偽らざる気持ちだけれど、こんな小娘のようなことを言うと、アンドレに笑われてしまいそうで、少しばかり恥ずかしかったのだ。
そこで私は、この日に休暇をとることを思いついた。一日中屋敷にいたなら、アンドレとゆっくり過ごせると、そう考えたのだ。

けれど、それがかなり浅はかな考えだったということを、今イヤというほど思い知らされている。
たとえ衛兵隊が休暇であっても、アンドレには屋敷でのいろいろな仕事が待っているのだ。
私ひとりのために、彼の時間を使うことはできなかった。
1時間ほど前、ショコラを持ってきてくれたけれど、
「いい子にしてろよ。」
そう言って軽い口づけを残し、アンドレはすぐに出ていってしまった。
私は、ただぼんやりと、彼が私だけのものになるのを待つしかなかった。

ため息ばかりが、部屋にふりつもっていく。
何か気分をかえるもの・・・・・そうだ、もう一度あれを見てみよう。
私は、机の引き出しに大事にしまっておいた小箱をとりだした。ふたをそっとあけてみる。黒い天鵞絨の上に小さな銀の十字架がふたつ、寄り添うようにおさまっている。
思わず、微笑みがこぼれた。アンドレは喜んでくれるだろうか?私の小さな贈り物を・・・・・。

休暇を決めると同時に、私はアンドレにプレゼントをしようと思いついた。何か彼が
いつも身につけていてくれるようなものを贈りたかった。そして、それと同じものを、私もいつも離さず身につけていたいと思った。
そうすることで、アンドレがそばにいないときでも、彼を感じていられるような気がしたのだ。
それほどまでに、私はアンドレを欲していた。いつもいつも、彼と一緒にいたかった。
こんなふうに、私がただの女にすぎないことを教えたアンドレが、とても愛しかった。そして、アンドレのことばかり考えている、恋に不慣れな自分のことも、とても愛しく思った。

あれこれ悩んだ末、ふたりで身につけていても不自然ではないものだからと、十字架を贈ることに決めたのだった。
パリの街を探しに探して、これをみつけた。何の飾りもないシンプルな十字架は、アンドレを思う私の心そのままのような気がした。
これを渡して、ふたりで初めての恋人達の日を過ごしているはずだったのに・・・。
世の中、なかなか思うようにはいかないものだ。私は、深いため息をついた。
こんなことなら、出仕しているほうがよかった。司令官室にいたほうが、ふたりだけの時間を過ごせたかもしれない。
・・・・・今からでもそうしようか。急用だとか何とか言って・・・。
そうだ、そうしよう!このまま屋敷にいたって、いつアンドレを独り占めできるかわからないもの。
思い立ったら即実行だ。まずはアンドレを探さなければ・・・。

私はプレゼントの箱を手に立ち上がった。と、同時に部屋のドアがあいた。もしかして、アンドレ?
「失礼いたします、オスカル様。」入ってきたのは、私付きの侍女、コレットだった。
「なんだ、コレットか。」思わず呟いた言葉にコレットは口をとがらせた。
「まぁ、ご挨拶ですのね。いったいどなただとお思いでしたの?」
コレットは、私が小さい頃から世話をしてくれている侍女なので、言いたい放題ポンポンと私にものを言うのだ。
けれど、そこには私への愛情がいっぱい感じられるので、けっして不快ではない。むしろ、物わかりのいい姉として、私はずいぶんと彼女を頼りにしていた。アンドレとのことも承知していて、何かと協力してくれるので、非常にありがたい存在なのだった。
「誰だっていいだろう。それより、アンドレを見なかったか?」
「アンドレですか?今日は彼、忙しそうでしたからねぇ。今はどこにいるのかしら・・・」
「そんなに屋敷の用が多いのか?」
それなら、衛兵隊に行くのはあきらめようか。これ以上アンドレを疲れさせるのは、かわいそうだし・・・。
私がそう考えていると、コレットが、ぷっとふきだした。
「ちがいますわ、オスカル様。今日は何の日かご存じですか?」
「え?きょ、今日か?」
こら、こら、オスカル。ここで慌てて、どうするんだ?
落ち着きをなくした私をからかうように、コレットが言った。
「今日は、聖ヴァレンティヌスの祝日です。恋人達の日ですわ。」
「それとアンドレが忙しいのと、どんな関係があるっていうんだ?」
今度は、コレットはため息をついた。物わかりの悪い私に、あきれているようだ。
「アンドレは、朝から侍女達に追っかけ回されてますわ。今年はアンドレが休暇でお屋敷にいるからって、みんな喜んでて・・・。オスカル様、ライバル達にチャンスを
あげておしまいになりましたわね。」
私はびっくりして、言葉を無くしてしまった。
アンドレが、プレゼントをもらってる?私のそばには、少しの時間もいてくれないのに?こんなにも、アンドレを待って待って待ちこがれている私がいるのに!
最初の驚きが、徐々に怒りへと変わっていく。
私は部屋を飛び出した。後ろから、コレットの声が聞こえたような気がした。

夢中でアンドレの部屋をめざす。彼の部屋に行ったって、アンドレはいないのだろうけれど、そうせずにはいられなかった。
ノックもせずに、乱暴にドアをあけて、もう一度びっくりした。
テーブルの上に、小さな花かごやリボンのかかった小箱なんかが、いくつも置いてあったのだ。これがみんな、アンドレへのプレゼントなんだろうか?
そばに寄ってみると 『いつも優しいアンドレへ   愛を込めて』とかかれたカードが目に入った。
かわいらしく飾られたプレゼントをみているうちに、思いがけず、涙がこぼれてきた。
胸がしめつけられるように痛い。
私は、彼のそばにもいられないし、プレゼントを渡すこともできないでいるのに・・・。私たちは、恋人同士だっていうのに・・・!
腹立たしくて、悲しくて、もどかしくて、それ以上にアンドレが恋しくて・・・・・。
これが嫉妬というものなのだろうか?
初めて知った嵐のような感情に、私は、ただただ、とまどうばかりだった。

廊下の向こうで人の気配がした。誰かが話しながらこちらに来るようだ。
あの声は・・・アンドレ!そして、もうひとりは・・・・・?
女だ。
アンドレは、誰か女と話しながら、部屋に戻ってきたらしい。何を話してるんだろう?楽しげなふたりの笑い声が聞こえてくる。
私は、慌ててアンドレの部屋のドアを閉め、中で息を殺していた。

「ありがとう、アンドレ。おかげで、助かったわ。私ひとりじゃ、とても運べないもの。あんなにたくさんの荷物。」
この声はリュシエンヌだ。小柄でかわいくて、屋敷の男達になかなか人気のある侍女だ。
「どういたしまして。あれくらいおやすいご用だよ。それじゃあ、俺、着替えてくるから・・・。」
「ええ、急に吹雪いてくるんだもの。ほんとにあなたが来てくれてよかった!風邪ひかないようにね、アンドレ。」
「ああ、ありがとう」
アンドレがノブに手をかけた。カチャリと音がして、ドアが半分開く。
私はあわてて身を隠した。アンドレに見つかったら、何て言えばいいんだろう?
その時、リュシエンヌの声がアンドレを引き留めた。
「あ、あのね、アンドレ・・」
「何?」
「あ、あの・・・これ、受け取ってほしいのだけれど・・・。今日は、聖ヴァレンティヌスの日だから・・・。」
半開きになったドアの隙間からそっとのぞくと、小さな包みをアンドレにさしだしている白い手が見えた。私の心臓が、再びキリキリと痛み出す。
もうこれ以上耐えられない。ふたりの前に飛び出して、大声で叫びだしてしまいそうだ。
リュシエンヌからの贈り物を受け取るアンドレの声を聞きたくなくて、私は彼の寝台に突っ伏し、枕で耳をふさいだ。

頬に冷たい手が触れた。
顔をあげてみると、大好きな黒曜石の瞳があった。やさしいまなざしが、私の顔をみたとたんに心配の影をまとう。
「どうしたんだ、オスカル?大丈夫か?気分でも悪いのか?」
答えるより先に、体が動いてしまった。手にしていた枕を彼に投げつける。
「アンドレのばか!」
「うわっ、何するんだ!?」
「ばか!、ばか!!、ばか!!!、ばか!!!!」
「何怒ってるんだ?いったい、何があった?」
アンドレは訳がわからないといった様子で、眉をひそめている。
「おまえの顔なんてみたくない!出て行け!!」
「ここは俺の部屋なんだが・・・」
「うるさいっ、おまえなんか、大嫌いだ!」
「それは、残念だ。俺は好きで好きでたまらないのに・・・」
からかうようにアンドレが言う。私は、憎らしいくらい落ち着いている彼を睨みつけた。
「オスカル、どうしたっていうんだ?ちゃんと話さないとわからないだろう?」
侍女達に嫉妬していたなんて、言えるはずがない。
彼から顔をそむけた私がテーブルの上のプレゼントにとどめた視線を、アンドレは見逃さなかった。

「姫君のお怒りのわけは、テーブルの上にあり。そうなのか?」
アンドレは、笑いを含んだ声で私に尋ねた。
「おまえ、カードを見たか?」
隠していたってしょうがない。私は彼の顔を見ないまま、頷いた。
「送り主は?」
そんなの知りたいもんか!かぶりをふると、アンドレはたまらないと言うように笑い出した。
「やっぱり!そんなことだと思ったよ。いいか、読んでやるから、よく聞けよ。『いつも優しいアンドレへ、愛を込めて。 ジレット』」
・・・え?今なんて言った?
「こっちは・・と『親切なアンドレへ。 エンマ』『いつもありがとう、また手伝っておくれ。 マティルド』『この間はありがとう、感謝をこめて。 ジョゼット』まだあるぞ。」
アンドレは次から次へとカードを読み上げていく。
私はすっかり力が抜けてしまった。毒気を抜かれたというべきだろうか。
アンドレへのプレゼントの送り主は、みんな50歳をとうに過ぎたと思われる、つまり、アンドレの母親ともいえる年頃の使用人たちばかりだったのだ。
「『これからもよろしく。 オルガ』以上!」
どうだといわんばかりのアンドレの自慢げな顔が憎らしいものの、私は返す言葉が見つからなかった。
「俺がここに来たときから知っている人たちばかりだよ。いい年をして恋人のいない
俺を、かわいそうに思うらしくて、毎年こうしてプレゼントしてくれるんだ。」
「でっ、でも、朝からおまえが侍女達に追っかけられてるって、コレットが・・・」
「俺が?はは、おまえ、コレットにからかわれたんだよ。追っかけられてるのは、ジェラールだな。いい男なのに、ひどく内気なもんだから、みんなから逃げ回ってるんだ。自分のかわりに渡してほしいって、俺のところに来た侍女はいたけど・・・。」

そうだったのか・・・。くそ〜っ、コレットめ!
私が心の中で、コレットへの復讐を誓っている横で、アンドレはまだ、クスクス笑っている。そんなにいつまでも笑わなくたっていいじゃないか。
「おまえがやきもちを焼いてくれるなんて、思いもしなかっ・・・・・ックシュン!!」
「アンドレ?」
「ごめん、ちょっと着替えさせてくれ。雪ですっかりぬれてしまった。」
そういえば、さっき、手が冷たかったっけ。窓の外をみると、いつの間にか雪が降り始めていた。
「大丈夫か?」
「ああ、リュシエンヌの荷物持ちを手伝っていたらこれだよ。」
そうだ、リュシエンヌだった!
「アンドレ、リュシエンヌからはプレゼントをもらっただろう?」
「いいや。」
さぐるように尋ねる私に、アンドレはあっさりと答えた。
「だって、さっき部屋の前で、もらってたじゃないか!」
「断った。」
「どうして?」

着替え終わったアンドレは、私の手を取り寝台に腰掛けさせた。あいかわらず、瞳に
は笑いが宿っている。
「もらった方がよかったのか?」 
「そうじゃないけど・・・」
アンドレは、まだ不服そうな私をのぞき込むようにして
「リュシエンヌには悪いことをしたと思うよ。だけど、気持ちを返せないのがわかっているのに、受け取れないだろう?」
そう言うと、私の手をポンポンとたたいた。
冷たかった手は、いつものように温かい。
まるで、手のひらに降る雪のように、私の心に生まれたばかりの「嫉妬」が溶かされていく。
やはり、アンドレは私だけを思っていてくれる・・・・・。
その喜びはゆっくりと体中を満たし、私は、今度は幸せのために言葉を無くしてしまった。

「だからリュシエンヌには断ったんだ。そういうのは全部・・・」
言いかけて、アンドレがしまったという顔をした。なんだ、やっぱりいるんじゃないか、そういうのが。
「全部、どうしたって?」
軽く睨んで尋ねると、小さく肩をすくめて
「全部お返しいたしました。それでよろしいでしょうか?我が姫君」
アンドレは、そう言ってふふっと笑った。私も笑って彼に答える。
「よろしい。では、誠実だった私の王子様に、ご褒美をあげることにしよう。」
私は、寝台にころがっていた小箱を取り上げ、彼の首に十字架をかけてあげた。
アンドレは驚いたようだったが、すぐに極上の微笑みを浮かべ、私を抱きしめた。そして、私の耳元でこう囁いたのだ。
「ありがとう、オスカル。
では、俺からも、聖バレンティヌスの贈り物を・・・。おまえの休暇は、まだ5日残っていて、明日からは、ロワール川のほとりの小さな館で過ごすんだよ。」
「アンドレ!?」
「内緒で借りておいたんだ、驚かそうと思って・・・。明日からしばらくは、一日中、一緒に過ごせるぞ。」
「アンドレ!!」
こうして、私達の聖ヴァレンティヌスの祝日は、めでたしめでたしと幕を閉じたのだった。

次の日、ロワールの小館で甘い時間を過ごすはずだった私たちは、屋敷のアンドレの部屋にいた。
夜中から、アンドレがひどい熱をだしたため、旅行には行けなかったのだ。
連日の激務で疲れているところに、雪にぬれたまま、着替えずにいたのが悪かったらしい。
自分の所為でロワール行きが中止になったことで、アンドレは、ひどく落ち込んでしまった。
私は彼を慰めるべく、朝からずっと、アンドレの部屋で過ごしていた。(彼の部屋にいるために、さまざまな理由を並べ立てた私は、コレットにまた、からかいのタネをあげてしまったのだけれど・・・)
「すまない、オスカル。」
今日何度目かわからない詫びの言葉を、アンドレは繰り返した。
「うつるといけないから、自分の部屋に戻った方がいい。俺なら、大丈夫だから」
自分がつらいのに、私を気遣ってくれるアンドレがとても愛しい。
私は彼の髪をなで、熱で熱くなった唇にくちづけた。
「私なら平気だ。それに、私には、おまえからの贈り物をもらう権利があるからな。」
そう、彼のそばで過ごすという、最高の贈り物を・・・・・。
アンドレは、弱々しく微笑むと、目を閉じ、やがて眠ってしまった。
ふと窓の外に目をやると、昨日の雪はすっかりやんで、外は一面の銀世界だった。
陽のさしたところが、キラキラとまぶしく輝いている。
恋に弄ばれたうぶな私を、聖ヴァレンティヌスが空の高みから、笑いながら祝福してくれているような気がした。
私は微笑んで、静かにカーテンを閉めたのだった。