「追憶」


1794年
イタリア北部

馬車が田舎道をいく。農民たちは思わず作業を止めその馬車を見入っ
てしまう。
「ほれ、あの馬車」
「ああ、ジェローデル様の」>「あのフランスの亡命貴族のジェローデル様
と奥方様の馬車じゃ」
「ああ、お姿が見えないかねぇ。」
「一度でいいから、見てみたいもんじゃ」
「マルコが見たって。この前収穫した苺をお見せしようとして、そしたら伯
爵様、
馬車をお止め下さったそうじゃ」
「ああ、リカルドも見たって、なぁリカルド」
「ああ、おら、鳥肌たっちまっただ。あんまりおきれいでよ。今も目ぇつぶ
ればはっきり思い出せる。あんなきれぇな人間がこの世におるなんて信
じられねえだ。 
ジェローデル様もてぇしたいい男だが、奥方様は...ああ、もったいねぇ
だ。おらなんかがお目にかかれるなんて。」
「しかし、あの奥方様うわさじゃなんでもこれだって」
百姓女が人差し指で自分の頭をつついてみせた。
「ああ、一言もしゃべらんそうじゃなぁ。お気の毒に」
「革命でおつらい事でもあったんだろうよ」
「ジェローデル様もご立派じゃぁ。一時も奥方様の側をはなれんて。」
「ああ、ご自身で全て面倒みてらっしゃるそうじゃ...」

「ジェローデル様、百姓供がこちらを見ておりまする。きっとお美しいお二
人のうわさ話でもしておるのでしょう。」
陽気な御者が主人に話し掛ける。長い事主人が不在だった城に突然美
しい城主を迎え注目の的となっているのが自慢のようだ。
「モンタナーロ侯爵様もさぞご自慢でしょうなぁ。こんなにもご立派な甥ご
さんを迎えられて、明後日またこのビアンカに来られるそうですよ。ジェ
ローデル様がいらっしゃる前はすっかりお見かぎりの城でございました
のに。」
「そうか、伯父上が」
ジェローデルは独り言のようにつぶやいた。
この前モンタナーロ侯爵が来たのはほんの1週間前のことだった。彼に
は息子がいない。御者の言うように、よほどこの甥が自慢のようだった。
ジェローデルは1週間前の伯父の来訪を思い出していた。
  「一体お前は手が早いのか遅いのか」
  モンタナーロは、がはがはと大口をあけて笑う。
  「お前がちっとも結婚をしないとお前の両親がよく嘆いておったぞ。ジ
  ェローデル家の次男は、やれ、女嫌いの、変わり者の、と噂ばかりさ
  れる、とな。」
  また、笑う。
   「それがどうだ、亡命してきた時は奥方連れときたもんだ。一体
  いつの間に見つけたのだ、あんなに美しい姫を。ええ?」
  ふざけた視線をジェローデルにむけ片肘でこづいてみる。
  「伯父上」
  困ったように、咎めるように伯父をにらむ。
  そんなジェローデルの視線を無視してモンタナーロは聞いた、
  「ところで奥方は?」
  「フランソワですか?あれは気分がすぐれませんので」
  ジェローデルのことばを遮ってモンタナーロがつづけた。
  「ああ、ああ、わかっておる。わかっておるわい。気分がすぐれぬ
  ので部屋でやすんでいる、というのだろう。まったく、つまらんのう。」
  「申し訳ございません」
  ジェローデルは頭を下げた。
  「しかしなぁ、あれでは社交界にも顔をだせんじゃないかお前は。」
  「私はそのような」
  「ああ、わかっとるわい、社交界なんぞ興味がないというんだろ」
  再びジェローデルのことばを遮る。
  「いや、なにもな、あの奥方を誹謗するつもりはないんだが...。
  お前の気持ちはわかるさ。あれだけの美貌だ。他の女なんぞ目も
  くれられんだろ。それにあの気品、フランソワがそこら辺の平民や
  貧乏貴族の娘でない事はわかる。
  しかしなぁ、それだけに解せんのだよ。あれだけの美貌の姫がな
  んのうわさにも上った事がないというのがな...。やはり、あれか、
  ちょっとおかしいんで親が隠しとったんか?まさか、お前革命の混
  乱に乗じて修道院からさらってきたのではあるまいな。」
  モンタナーロは、またがはがはと笑って見せた。

――革命の混乱に乗じてさらって来た..か。
                   当たらずとも遠からずだな...。――

ジェローデルは自嘲した。
「ジェローデルご夫妻様が半年前にいらしてから、きゅうにこのビアン
カが華やかになりました。まるで、このイタリアの田舎町にフランスの
ベルサイユが切り取られて引っ越してきたようでございますなぁ。」
御者のおしゃべりはつづいていた。
「思い出しますなぁ。半年前を」
ジェローデルはギクリとした。半年前...。はじめてロザ・ビアンカ城
に入った日それは彼にとってつらい思い出となっていた。
目の前の物言わぬ妻をみつめた。

  ジェローデルにとって何日ぶりかで安らげる安全な場所に入ること
  ができた。やっとの思いでフランスをあとにした。この人形のような
  女性をともない、フランスを脱出するのはけっして簡単な事ではな
  かった。しかし、彼にとってその危険な旅はある種の高揚感さえも
  たらしていた。今こそ自分がこの憧れの女性を命と引き換えにして
  も守るのだ、という。
  「ジェローデル様、ようこそロザ・ビアンカへ。私はこの城の留守を
  守っておりましたベロニアでございます。伯父上のモンタナーロ侯
  爵様より、全て整えてジェローデル様をお迎えするよう仰せつかっ
  ております。モンタナーロ侯爵様は明後日こちらにみえるそうでご
  ざいます。」
  召使一同に二人は迎えられた。
  「ああ、よろしく。何分私達はイタリアは不慣れで...」
  「あの、失礼ですがそちらの方は...?」
  「紹介が遅れました.。亡命のため男のなりをしていますが、これは
  私の妻です。」
  コレハワタシノツマデス....ジェローデルは自分自身にもそう語
  りかけていた。喜びとそして奇妙ななにか恐れにも似た感情ととも
  に...。それはなにかしらの責任感のようなものなのだろうか...。
  自分でもこの奇妙な感じがわからずにいた。
  「奥方様....し、失礼致しました。ジェローデル様は独身でいらっ
  しゃるとお聞きしていましたもので..。」
  ベロニア夫人は深々と頭を下げた。そしてジェローデルの妻という
  女性の美しさにあらためて圧倒された。
  「はじめまして、奥様ベロニアでございます。」
  その女性は微動だにしなかった。表情さえ、いや、視線さえ、どこ
  か遠くをみつめたまま動く事はなかった。
  「すまないね。妻には色々つらい事が重なってね..。少しこの城で
  静養させたいと思っている。ベロニア夫人、よろしくお願いします。」
  ベロニアは察した。そしてもう一度深く頭を下げた。
  「奥様のもののご用意がございませんで申し訳ございません。来客
  用のものを今晩はお使い下さいませ。明日、早速用意させて頂き
  ます。あの..失礼ですが奥様のお名前は...お名前を刺繍させ
  ますが...」
  ああ、と気づき慌ててジェローデルが答えた。
  「オス..、いや、フランソワ....。フランソワ・ド・ジェローデル」
  ジェローデルは咄嗟に妻のミドル・ネームを告げた。誰が聞いても
  男名とわかる名を彼は言いよどんだ。人々の好奇の目を少しでも
  避けたかったのだ。
  
「フランソワ...いえ、オスカル嬢...」
ジェローデルは妻に呼びかけてみる。二人の時は今もオスカルと呼ん
でいる。マドモワゼル・オスカルと...。
「マドモワゼル・オスカル...」
口にしてみてどこかしら、苦さを確かめる。
――ワタシノツマデス、、そういいながら私はまだ彼女をマドモワゼル・
オスカルと呼んでいる..――
彼はオスカルを見つめた。なんの反応もない。
一度だけ、彼女はたった一度だけ正気を取り戻したことがあった。
何故、あの時彼女をつかまえておけなかったのだろうか?彼は自責
の念にかられる。
あの時彼女の瞳に光がかえった。
――......しかし再び飛び去ってしまった...
                         私の天使.....――

――覚えているのだろうか....? 彼女は..?あの晩のことを...?――
「私達の初夜...。」
口にしてみてまた苦さがこみあげる。
――初夜..そう、あれが初夜と呼べるものなら.....――

  「奥様のお支度が整いましてございます。」
  ベロニア夫人が居間に来てそう告げた。
  「寝所でご主人様をお待ちでいらっしゃいます。」
  ジェローデルはブランデーのグラスをくゆらせ、それをみつめなが
  ら答えた。
  「そうか、ありがとう、もう、寝んでくれ。」
  「はい、ありがとうございます。おやすみなさいませ」
  ベロニア夫人は出て行った。
  ジェローデルが寝室に入っていくと、そこには白く輝くものがあった。
  広く暗い寝室....。  天使だ..。ジェローデルはそう思った。
  暗い闇にさえ負けず光り輝く姿、まさに天使が舞い降りたとしか思
  えない美しさだった。
  しかしまたその姿はこの上なくはかなくもあった。まるで陽炎のよう
  に、ゆらめき、いまにも消えてしまいそうな光りであった。
  オスカルはベッドの端に座っていた。いつものように遠くをみつめた
  まま。侍女達が仕度をさせた白い女物の夜着をまとったオスカルは
  ジェローデルでさえもまだ知らぬ彼女の美しさをたたえていた。  
  「オスカル嬢..」
  ジェローデルはオスカルの隣りに腰をおろした。
  美しい横顔をみつめる。
  ふと、彼は指先を彼女のあごにあてる。そっと力をいれてみる。
  彼女の顔が正面を向く。吸い寄せられるように唇が近づいていく。
  そしてそっと重なる。彼の心臓は少年のように波打つ。まるで初め
  て女性に触れた時のように緊張で胸の奥がこわばる。
  しかしオスカルはあいかわらず人形のようであった。
  「オスカル嬢」
  そっと、そおっと、肩を押してみる。柔らかなバラの花びらが少しも
  傷つかぬよう、細心の注意を払ってそおっと彼女をベットの上に横
  たえる。
  氷のように美しいオスカル、、その繊細な白い顔をジェローデルは
  みつめた。
  コレハワタシノツマデス  自分にもう一度そう告げる。
  もう一度唇をあわせる。しかし今度は激しく、強く彼女の頭を抱き、
  力をこめて整えられた美しいブロンドに指をもぐらせる。切ない片恋
  の少年のように声をあげる。
  「オスカル嬢」
  もう、止められない。彼は身体を重ね激しく唇を求め、そして力をこ
  めて彼女の細い身体を抱いた.片一方の手は柔らかい彼女の胸を
  求め、唇を徐々に首筋、胸元へと這わせていった。
  彼女の夜着の胸元を開き、さらに下へと唇を這わせた時。
  はじめて。パリで再開して以来はじめて、彼女が反応した。
  びくん、とオスカルの身体がこわばった。
  彼女の目に正気が戻った瞬間だった。
  しかしそのジェローデルに向けられた目は驚き、怒り、そして悲しい
  までの怯えをうつし、彼を責めていた。
  コレハワタシノツマデス。
  誰かがジェローデルの頭の中できっぱりと告げた。

ガタッと馬車が大きく揺れた。
「おおっと失礼いたしました。ジェローデル様、奥様、大丈夫でしたか?」
ジェローデルは、はっと我にかえった。
「なにぶん、田舎道ですのでね、お許し下さい。」
馬車は城にむけて更にすすんでいく。
――思ったよりずっとつらい役回りだったな..オスカル・フランソワの
夫というのは――
御者は皆がいかに二人に心を奪われているか、フランソワ様の美しさ
に皆が憧れ、そしてジェローデルの献身的な愛を皆がいかに褒め称え
ているかをしゃべりつづけていた。
「まったく、誰もジェローデル様の代わりにはなれません。」
再びジェローデルは御者のことばにはっとした。
――代わりになれない――、
――誰の?この私の?――
なんと皮肉な褒め言葉だろう。彼は自らを哀れむようにくすりと笑った。