「 追憶」
―――第3部―――

「ヴィクトル、奥方は元気か?」
伯父のモンタンーロ侯爵はなにかとオスカルのことを引き合いに出す。忙しい合間を
ぬって、ここ、ロザ・ビアンカ城へ足を運ぶのは自慢の甥、ジェローデルに会いにく
るだけが目的ではなく、オスカルの姿をみたいのであろう。それをジェローデルは承
知してはいたが、なにやかやと理由をつけてはなかなか彼女を自室から出したがらな
かった。伯父にはなんの悪い気持ちはないのだろうが、それでもやはり、物言わぬ彼
女を他人の前に出すのはまるで、最愛の人が見世物にされているかのように感じるの
だ。
「それより、おまえ、この前の話、考えておいてくれただろうな?」
モンタナーロ侯爵は真面目な顔をし、ジェローデルの返事を待った。
「はい、なによりのありがたいお言葉ではありますが......。」
すまなそうにジェローデルが言いよどんだ。
「何をためらう事があるか!わしの養子になり、モンタナーロの家督を継ぐというの
は決して悪い話ではない筈だ。」
「もちろんでございます。悪いなどと.....。」
ジェローデルのことばはとぎれた。
「ええい!それではなんだというのだ?!何故、ただ、良い返事をくれぬのだ?!」
モンタナーロが詰め寄る。
「はぁ....、その、伯父上には嫁がれたとはいえ、お嬢様がおられます。シル
ヴィア、カトリカ、クリスチーナ....。私の従兄弟たち...。」
「なに、誰も反対するものはおらん!皆、喜んでおるぞ、よい話だとな。娘達は全
員、申し分ない家に嫁いでおるわ。今更実家の相続など、誰も興味などないわい!」
事実であろう。モンタナーロは嫁いだ娘達のクールさにやや憮然としているようだ。
「しかし、伯父上、私が家督を継いだところで、フランソワがあれでは私達に子ども
はのぞめません。ですから.....。」
モンタナーロは甥の顔をまじまじとみた。
「なんだ、そんなことか。お前達に子ができなければ、それこそ、シルヴィアか、カ
トリカ、それともクリスチーナのところあたりから養子を貰えばすむ話だ。皆、子沢
山の上、男子に恵まれておるでな。問題なかろう。」
「はぁ....。」
とジェローデルは伯父の押しの強さにまた言葉を失った。
「しかし、ヴィクトル、なんだ、お前、フランソワとはあっちの方もご無沙汰なのか
?!あれほど、美しい奥方と寝所をともにしてそれではお前の身が持つまい。それと
も、なにか、やはり、たまには...」
「伯父上!」
ジェローデルは伯父を睨みつけた。口元は冗談ぽく笑ってはいたが、目には ―――
たとえ伯父上でも下世話なジョークは許しませんぞ――― という厳しさが映ってい
た。
「ああ、そうだ。今日はお前に伝えなければならないことがあるのだ。」
そんなジェローデルを意にも介さぬ様子で、急に真面目な面持ちとなり話し掛けら
れ、ジェローデルはやや拍子抜けした気持ちになった。
「あまりよくない話なのだがな、最近フランス革命の飛び火とでも言おうか。パリで
は一応兵士として戦っていた、よからぬ連中がパリを追われ、夜盗とかして、あちこ
ちの村々を襲っているというのだ。」
「農民を...襲うのでございますか..?」
驚いた表情でジェローデルが聞く。
「うむ、もともとは貴族の館を襲うのが目的だろうが、あんな連中に理屈はない。や
れ、貴族に迎合してるの、自分達の邪魔立てをしたのと、貧しいもの達を襲うのも平
気でやってのける。こうなってはただの夜盗だが、厄介なことに軍隊で得た戦略を駆
使しよる。なかなか、手ごわいようじゃ。来週中にでも少し、そういったことに慣れ
た手錬を送るがお前も充分きをつけろよ。」
「わかりました。」
―――こんなところにまで革命の余波が......。―――
暗い気持ちでジェローデルは返事をした。なんとはなしの不安がよぎる...。
「おお、もうこんな時間か。明日は早くにここを出るでな。もう寝るとしよう。挨拶
はいらぬ。どうせ、また来週には来る。お前達はゆっくり寝んでおれよ。」
モンタナーロは立ち上がった。
「たまには奥方に相手をして貰えよ。奥方も案外それを望んでいるやもしれん
ぞ。」
「伯父上!!」
ふいにまたからかわれ思わずジェローデルはつい、のせられ、伯父を責めた。
モンタナーロはがはがはと笑いながらそれをかわし、部屋を出ていった。

ジェローデルはモンタナーロ侯爵とのやりとりを改めて、寝室で思い起こし、美しい
妻に視線を移した。
―――あれほど、美しい奥方と寝所をともにしてそれではお前の身が持つまい。
―――伯父のたわいないジョークを思いおこしつつ、苦しいような、切ないような、
気持ちで目の前の妻をみつめた。
「オスカル嬢」
つぶやいてみる。
―――あの晩、あの私達の初夜、あの時私は誓ったのだ。決して、この人に再び無理
強いするまいと.....。―――
 ふと彼はオスカルの顎にそっと自分の指をあてがってみる。そっと優しく力をい
れ、自分の顔に向かせる。白いオスカルの顔をみつめる。そしてそのまま静かに唇を
重ねてみる。オスカルの甘い香りがジェローデルの鼻孔をくすぐる。己自身を憐れ、
と意識しつつ彼はそっと、オスカルを横たえた。
 人形のように動かぬオスカル。優しく毛布を掛け、そしていつものように彼女の横
に自分も入る。いつものように暫く彼女の横顔をみつめ、それからいつものように彼
女に背をむける。
 一体、幾夜、このような夜を過ごしただろうか。どうしようもなく苦しく、どうし
ようもなく切なく、そして甘い夜を。
―――奥方も案外それを望んでいるやもしれんぞ―――
モンタナーロの子どもをからかうかのような言葉が思い起こされる。
―――そんなことはありえない。―――
よくわかっている。それでも、その言葉を信じてみたくなる。自分に信じ込ませたく
なる。
―――できるわけがない!―――
 自分自身に腹が立つ。
 ジェローデルは半身を起こし最愛のひとをみつめた。
 たまらない気持ちがこみ上げてくる。
 彼はゆっくり震える指先をオスカルの喉もとにのばし、彼女の夜着をひらいた。
 彼女の美しい首筋がみえる。そして優雅な鎖骨があらわになる。ジェローデルは
ハッとして手をとめた。そこには美しい神の彫像には似つかわしくない、痛々しい銃
痕がみえた。
―――自分が代わりに撃たれたかった...。―――
 そっと肩の銃痕にくちづけをする。傷跡は夜着をひらく度にあらわれる。
 二の腕に、脇に、腹に、腰に、腿に、そしてつま先に、彼は彼女の痛々しい戦いの
後にその唇をおしあてていった。
「オスカル嬢....」
 愛しいひとの名を呼び、彼は彼女を力をこめて抱きしめた。
 彼の脳裏に初めての夜のできごとがかすめた。それは次第に膨れ上がり、あざ笑う
かのように彼を翻弄し始めた。

     コレハワタシノツマデス。
      誰かがジェローデルの頭の中できっぱりと告げた。

      ド・ジェローデル家はフランスでも指折りの名家であった。
      「貴族であるということは、己の誇りを常に守らねばならぬ、ということ
   だ。人の上にたつ人間は常に己のなべ きことを考えろ。そして遂行せよ。」
     彼は常日頃から父にこのように教育されていた。感情より、人間であること
   より、まず、貴族であることを優先させる、そして、それを守ることはジェ
   ローデル、彼自身の誇りともなっていた。

      ........これは彼にとって儀式だった。
      結婚式もない、神への誓いもない、それでもオスカル・フランソワを妻と
   し、夫として、彼女の命を預かるものとなる......。彼にとって彼女と
   交わるのはその誓いをたてる唯一の証しとなるものだった.....。
    ジェローデルはきっぱりとした面持ちで...、そう、まるで任務を遂行す
   るかのような機械的な表情でオスカルの衣類をとっていった。
    オスカルはいよいよ激しく抗った。いや、抗おうとした。
    しかし、彼女の腕も足も、声帯までが、まるで他人の肉体を扱っているかの
   ように、思うように動かせぬようだった。
    「.....やめ.........お.....ねが...ぃ....」
    やっとの思いで声をだす。必死に男の下から逃れようとする。
    そんなオスカルの四肢をこともなげに押さえつけ、動けぬ彼女の膝を割っ
   た。
    オスカルがその時何を思ったのかはわからない。自分の上にいる男が、かつ
   ての自分の部下であり、自分を初めてマドモアゼルと呼び、うやうやしくプロ
   ポーズをした、その男性だと、わかっていたのだろうか? 
    オスカルの瞳がジェローデルの瞳を捉えた。
    どの湖よりも深く、どの宝石よりも透明で、どんな氷よりも冷たい蒼。
    その蒼い瞳には深い絶望と悲しみの涙が、今にも溢れんばかりにゆれてい
   た。
    オスカルの腕は剣を携える力もなかった。しかし、彼女の物言わぬ瞳はジェ
   ローデルの心臓をつらぬいた。

    ―――俺、自分で自分が許せなかった! 皆で夜勤中に、アンドレが隊長の
   側を離れたすきに無理矢理ひきずって兵舎にひっぱりこんだことがあっただろ
   う?隊長をしばりつけてさ、強姦するぞって脅した......。
   俺、あの下衆野郎と同じことしてたのかな..って。そいつらと自分自身が重
   ねあわされて.......。―――

    フランソワのことばがフラッシュ・バックし、彼を襲った。
    .........オスカルの涙はジェローデルの動きを制止し
   た........。
    彼はゆっくり体を起こし、オスカルから離れた。ベッドの端に腰をおろし首
   をうなだれた。肘を膝につき、両手  で額をささえた。
    ―――できるわけがない...―――
    「できるわけがない..........。」
    誰にも聞こえぬような小さな声で言った。
    「できるわけがない....。」
    もう一度同じことば.....。
    「できるわけがない.....!彼女を傷つけることなど....。たと
   え、どんな理由でも!!」
    ジェローデルの頬に涙が伝わった。
    くすり、と力なく笑ってみる。
    「私にも泣くことができたのか.....。」
    その夜、彼は生まれて初めて、貴族としての義務を放棄した......。
 

 ジェローデルは体をそっと起こし、苦い思い出の夜のようにベッドの端に腰をおろ
した。
―――こんなにも苦しい夜を、こんなにも狂おしい夜を、私は後、幾晩過ごさなけれ
ばならないのだろうか......。―――
「オスカル嬢....。」
そっと呼びかけてみる....。
「教えて下さい、マドモアゼル・オスカル。一体、私は幾つの夜、耐えねばならない
のです?オスカル嬢!お願いだ。どうか、どうか、答えて!..........答
えて.....下さい.......。」
決して答えの得られぬ問いであった。空しさがジェローデルを襲う。しかし、それで
も彼はその空しい問いかけせずにはいられなかった。

    ―――今、一番気遣うべき相手は自分自身ではない.....。―――
    ジェローデルは呼吸ひとつ、深くし、激しい己の感情を理性の扉の向こうへ
   おしやった。
    「オスカル嬢....。」
    オスカルに視線を戻した。
    「...........!!?」
    オスカルの瞳は再び遠くをみつめたまま動くことはなかった。
    「オスカル嬢!オスカル嬢ッ!!」
    オスカルを抱き起こし、その肩を揺り動かす。
    「オスカル嬢!ああ、どうか、どうか......。
    ...........ああッ!私は!私はなんて事を!!」
    激しい後悔と動揺がジェローデルを襲う。
    「何故....、何故、つなぎとめておけなかったのだ?!!」
    ジェローデルはオスカルを抱きしめた。
    「オスカル嬢........!」
    どんなに悔やんでも、再び、オスカルの瞳が彼を捉えることはなかっ
   た...。

―――あの時、何故、私は一瞬でも彼女から目をそらしてしまったのだ?―――
何度、この自問を繰り返し、自分を責めてきたことだろう。
―――いかなる理由でも彼女を傷つけられないなどと....、私はただ彼女に嫌わ
れるのが怖かっただけなのではないのか?もし、もし、あのまま彼女と交わっていた
なら、或いは彼女の魂は戻ってきてくれたのかもしれないのに...!たとえそれが
私への憎しみという形であったとしても.....。―――
もう一度オスカルをベッドに押し倒してみたりもした。わざと乱暴に彼女の衣服を裂
いてみたこともあった。しかし、二度とオスカルが反応することはなかった。
―――私は.....私は......、本当に彼女の回復を望んでいるのだろう
か......?―――
ふとそんな疑問が頭をよぎる。オスカルが回復したなら、その時は.....。その
時、オスカルは一体......?ガラスの箱に入れられた人形は再び命の息吹を吹
き込まれた時、それでもその箱に入っていることを望むのだろうか?

    ―――いつかまた、パリが彼女を必要とし、彼女もまたパリを必要とする時
    がきたなら、どうか、どうかその時は隊長を帰して下さい。―――

アランのことばが思い起こされる。
―――彼女がまたパリを必要とする.....?―――
ちりり、と胸が痛むのを感じる。
それを振り払うかのように被りをふる。
―――違う!違う!勿論!勿論だ!!勿論のぞんでいる!彼女の回復を!―――

    ―――ジェローデル様の奥方様、あの美しい事!―――
    ―――あの美しさ!人間とはおもえないわ!―――
    ―――フランソワ様、ガラス細工のお人形のよう!―――   

皆の噂話が駆け巡る。
「違う!違う!!」
思いのほかでてしまった大きな声で否定する。
「皆......知らぬのだ........。」
誰に言うともなく口にする。
「知らぬのだ、皆.....。彼女がいかに美しかったか......。」
―――馬上の彼女が、あの高潮した頬が、あの、日に透けるブロンドが揺れて、快活
な美しい声、魅惑的なブルーの瞳、指揮をとる指先、........! 彼女がど
んなに美しかったか!皆、知らぬのだ!!―――
出口のない苦悩のラビリンスにジェローデルは捕らわれていった......。