「 追憶」
―――3―4―――
オスカルがハンカチをとりに部屋へ戻ろうとした時、主人不在を信じるメイド達のおしゃべりが聞こえてきた。
「ほんと!お二人ともお美しくて、お優しくて!この城にお仕えすることができて私、幸せだわ!」
「私もよ!皆に羨ましがられるわ。」
「フランソワ様がお元気になられたのも、ジェローデル様の愛の力よねぇ。あんな仲
の良い幸せそうなご夫婦って他にいるかしら?」
きゃっきゃと笑う。
「でも......、ちょっとおかしくない?」
一人のメイドが声をひそめる。
「フランソワ様がお元気になられてからというもの、ジェローデル様、ずっと、この
次の間で寝まれていらっしゃるじゃない.....?あんなに仲の良いご夫婦なのに.....。」
皆の声のトーンがさがる。何を話しているのか聞き取れなくなる。
オスカルはそっと部屋を出た。
夜、ジェローデルは一人、自分の私室でブランデーのグラスをくゆらせた。
フランソワさま、フランソワさま、皆のオスカルを慕い、呼ぶ声がロザ・ビアンカにこだまする。
―――危険だな....。―――
ブランデーの芳香を鼻孔に、火のような液体を喉へ流し込む。
―――皆が彼女を離せなくなって来ている......。―――
―――彼女がこれ以上ここにいては......、失うものが大きすぎ
る......。―――
そんな時、ノックの音がし、オスカルがそっと入ってきた。
ジェローデルは振り返らなかった。
オスカルに背を向けていた。しかし、オスカルがどんな面持ちで、何のためにここへ来たのか、何を話そうとしているのか、不思議と全てがわかった。確信していた.......。
「........行くのですか.........。」
静かに問うた。
背中でオスカルの少し悲しげに驚く顔が見える。
「ジェローデル.....。」
愛しい人の自分を呼ぶ声.......。
「ジェローデル....わ.....私は......。」
オスカルが困っている。
ジェローデルはゆっくり立ち上がりオスカルを見た。
オスカルの顔はこころなしか青ざめて見えた。
「ジェローデル、わ......私は.....、どんな感謝のことばも充分ではな
いと感じている......」
ジェローデルは黙ってオスカルをみつめた。
「本当に....、どんなことばも........」
オスカルは目をふせた。そしてゆっくり視線をジェローデルにもどし意を決したようにことばをつづけた。
「き.....君が......パリから私を連れ出してくれた時のことも憶えてい
る。君は自分の命と引き換えにしても私を守ろうとしてくれた。」
真剣にジェローデルをみつめる。
「それに....そして......ビアンカに来てからのことも......。」
「ジェローデル、妻という名を持った私の存在がどんなに君を苦しめ、追詰め、傷つけていたか.....。 ......わかっているつもりだ......。」
「オスカル嬢、そんなことを.....」
オスカルはつづける。
「ジェローデル、君の心はいつも、いつも、血を流していた。私の苦しみを救うために、私の心を救うために、君は自分の心を差し出し、私のかわりにそれを傷つけ、救ってくれたのだ.....。私はそれを...知りながら......。」
オスカルはことばを詰まらせた。
「ジェローデル、君の私にしてくれたことに、私は何一つ、報いる術を持たな
い......。
だ.......だが......。」
再びことばを止める。
「もしも.....もしも.....、き.....君が...、君の心が、それ
で..少しでも救われるのなら....。」
ジェローデルの瞳をみつめて言った。
「今晩、君は、次の間へ、行く必要はない....。」
オスカルはやっと話し終え、下をうつむいた。何故か涙が溢れてきた。
ジェローデルは呆けたようにオスカルを見つめた。そしてみるみる険しい顔になった。
「どういう意味です?オスカル嬢。憐れみですか?私を憐れんでいるのですか?」
オスカルに詰め寄る。
「ええ?自分の心はアンドレのものだが、自分の真の夫はアンドレだが、身体だけはくれてやろう、とでも言いたいのですか?」
想像すらしたことのないジェローデルの激昂。
「そ、そんなつもりでは......。」
やっとの思いで声を出す。
「同情心で抱かれようとする女なんて!まっぴらだ!!」
はきすてるように言い、顔をそむける。
そしてゆっくりオスカルに視線を戻す。
顔の険しさは消えてはいない。
オスカルの二の腕をつかみ、力ずくで引っ張る。寝室へつづくドアを乱暴に開け、投
げ捨てるようにオスカルをベッドへほうった。
振り返るオスカルの顔から血の気は引いていた。
「オスカル嬢.....あなたは、私を一体なんだと思っているのです?ものわかりのいい貴公子ですか?」
ジェローデルはドアを閉め、ドアの前に立ち、オスカルを見下ろすように言った。
「違う!私は....私はただの男だ....。」
ジェローデルの目が妖しく光る。
「私があなたを素直に行かせる、とでも思ったのですか?愛するあなたを戦いのさなかへ。みすみす、死んでくださいと言わんばかりに?え?どうです?そう思ったのですか?」
オスカルは後ずさるがベッドの上へと登るしかない。
「行かせません。あなたをどこへも...。」
かちり、と後ろ手で鍵をかける。
その音にオスカルの恐怖心は更にあおられる。怯えた目をして、かたかたと小刻みに震えているのがジェローデルにもはっきり見える。それでも愛する人を追詰めてゆけ
る残酷な自分を感じる。
「あなたが私に身体だけ与えるというのなら、それでもいいでしょう。あなたは今日からここで、この部屋でのみで生きるのです。私のために....。どこへも、どこへも行かせません。決して!」
ゆっくりジェローデルが近づいてくる。
オスカルは震えながらきつく目を閉じ、それからゆっくり目を開け、ジェローデルを見据えた。再び目を開いたオスカルは違っていた。まっすぐ見据える瞳にはかつての馬上のオスカルのような、強く固い意志の光が宿っていた。
そして言った。
「....き、君が.....、そう望む....なら......。」
と。
―――キミガ...ソウ...ノゾム...ナラ.....。―――
ジェローデルの歩みが止まった。唇が震えた。
「何故.....?何故です.....?私はここへ、この部屋へあなたを閉じこめると言っているのですよ?永遠に!!私が本気なのがわかるでしょう?!私のことば
が冗談ではないことがわかっている筈だ!!」
彼女の瞳が彼からそらされることはなかった。
オスカルは黙って頷いた。
ああ、と声を漏らしジェローデルは膝を折った。
「オスカル嬢....オスカル....愛しています。......愛していま
す......。どうしようもないくらい.......。」
ドレスの裾に繰り返し、繰り返し接吻をする。
裾は彼の涙で濡れてく。
「ならば!ならばオスカル.....!!」
行くな....!と言えばとどまってくれるのですか.....?
声にならない......。
―――そして、そして、見つめるのですね......。アルプスを越えてフランスを!あなたの、私達の祖国フランスを、悲しい瞳をして.....、永遠の憧憬をこめて......、見つめる.....のです....ね......。―――
―――.....美しかったのです........。もっと.....輝く
ように.....―――
彼の脳裏に、イタリアの空に消えた紅の近衛服を着て白馬にまたがるオスカルが鮮やかに蘇る。
ジェローデルは静かに立ち上がった。壁側に歩み寄り、頭をその壁にあずけた。
「オスカル嬢.....。どうか....どうか......許して下さ
い......。
私はこんな人間なのです。自分でも吐き気がするような!!くだらない男
だ......。
わかっていたことなのに....、あなたをパリへ帰すということは、とうに自分自身で決めていたことなのに.......。こうしてあなたを失うとなれば、それが
できずに平気であなたを傷つけてしまえる.......。
何故......何故、いつもあなたのことになると、こうも自分を失ってしまうのか...。
あなたを救うなどと.....。違う!!あなたを傷つけてまでも自分の欲を満たそうとする最低の男だ.......。」
オスカルは立ち上がり、そっとジェローデルのもとへ歩みよった。彼を抱きしめようと手を彼の背中へのばしそっと触れた。
「やめて下さいッッ!!!」
ジェローデルはオスカルの手から逃れようと、歩を進める。
「.......やめて下さい......オスカル.......。私に触れない
で!!この...!この激情を押さえられなくなる....!!
.......私は....私は.....弱い人間なのです......。」
しぼりだすような声で言った。
オスカルはただ立ち尽くした。
どうすることもできない。どうしてあげることもできない無力さに立ち尽くした。
「ジェローデル.........。どうか...どうか....そんなに自分を責
めないで......。
ジェローデル.....!この私に!この私に一体人間の弱さの何を糾弾することができると思うのだ?!!
全ては、全ては私の弱さ故に始まったことなのだ......。私が....君をここまで追詰めた.....。」
オスカルの頬に涙がつたう。
ジェローデルは懸命に戦った。愛する人を慰めようと...。愛する人をこれ以上傷つけまいと.....。
「オスカル......どうか....どうか....誤解しないで聞いて頂きた
い。
私がいかにあなたを欲しているか...どんなにあなたが欲しいか.....恐らく
あなたには永遠にわからないでしょう......。
こうしていても...!気が狂いそうな程だ....!!あなたを自分のものにした
くて...あなたの全てがほしくて.....自分が押さえられなくなりそうにな
る.....。
けれど.....オスカル......!!私はあなたに触れません!」
ジェローデルは振り返った。
「.....何故なら....これが、私の生き方だから......です!」
ジェローデルの頬は涙で濡れ、唇はわなわなと震えていた。
こんなジェローデルを見たことがない...、こんな男性をオスカルは見たことがなかった。強く、気高い彼の意志が宝石のように、その激情の中で輝いているのがみえた。
「私は誓ったのです。あなたに対して、自分自身に対して。あなたを抱くのはあなたが私の真の妻となった時だけだと....!
あなたが、パリへ、戦いの中へ帰ろうとするように....、そこでこそ、あなたの命がほとばしり輝くように.....!
私の命は、このようにして輝くのです.....。
これが......私の、生き方、だからです。」
ジェローデルは涙もぬぐわずにオスカルを見つめた。
こんなにも誇り高く、真摯な瞳をオスカルは知らなかった.....。
「ジェローデル........」
やっとオスカルがつぶやいた。
「ジェローデル......君も...どうか....誤解しないでほし
い......。」
静かに語った。
「君が私に結婚を申し込んだ時、私が何の迷いもなく断ったのではない、ということを....。」
オスカルは悲しげな顔をしていた。しかし、瞳は優しかった...。それは女性特有
の母性という普遍的な優しい光だったのかもしれない...。
「君は私に聞いた....。何故、優しいまどいや暖かい暖炉に背を向けるのか...と。そんな自分に涙を流したこともあった筈だ...と。」
蒼い瞳は澄んでいた。
「その通りだ。ジェローデル....。」
ジェローデルをみつめた。
「平凡な女性としての幸せ.......。ほしいと思ったこと......もちろ
ん..、もちろんある。
君と結婚して、平和な妻としての幸せを手にする......そんな情景が一度も浮かばなかったなどと、ほしくなかったなどと....!どうか思わないでほしい....。」
ジェローデルの目に別の種類の涙が溢れる。
「君との結婚を断った時、私は涙を流した.......。優しい、穏やかな幸せに背を向ける自分に....涙を流した....。そうだ、君の言う通りに、だ。ジェローデル....。
そして、それは、そういったことを望み、迷う、私との決別でもあった。私は私の意志で自ら選びとったのだ....。炎の中で生きようと。
なぜなら、それが私の生き方だから.......。そうなんだな?ジェローデ
ル.....。」
オスカルは北の薔薇園を、その彼方遠くのフランスを真っ直ぐに指差した。
「あの中でこそ、私の命は生きるのだ....。」
その姿はいつかジェローデルが夢でみたその通りの姿であった....。
ゆっくり腕をおろし、もう一度ジェローデルを見た.....。
「ジェローデル...正気を取り戻し、きみと過ごしたこの数週間......、私がどんなに幸せであったか.....どうか.....わかってほしい.....。」
夫婦という絆ではない、恋人同士のそれでもない、けれど、二人の間に流れるの空気は風に揺れる透き通った水面のようにさざめいた。魂と魂が触れ合う特別な時にだけ
生まれる神聖なさざめきであった。
オスカルはつづけた.....。
「ジェローデル....どうか、誤解しないで......。わかってほし
い...。
私は弱い....人間なのだ....。いつも誰かにすがりたい、支えられたいと、そんな心の甘えをいつも自分に許している......。
ジェローデル....私こそ、私こそ、だ!君の心を救いたいなどと、私はもしかしたら、君に甘えようとしていただけなのかもしれない....。
もしも、もしも再びフランスに平和が戻ったなら、そしてその時、もし、君がまだ一人でいたなら、私はここへ、ビアンカへ帰りたい.....。そう思ったのだと思う....。
そう思うことによって、.....わ.....私は.....君に支えられ、あの
戦いの中へ帰ってゆける....。そんな気持ちがあったことを.....否めない.....。」
オスカルは悲痛な目をしていた....。
「ジェローデル......私を.....軽蔑するか....?」
ジェローデルはひざまづいた。
「......オスカル.....オスカル嬢......あなたは、私に生きる希
望を下さいました。
オスカル嬢....一体、私が他の誰を妻と呼べると思うのです?このロザ・ビアンカ城とて同じこと....。あなた以外の女主人を迎えられよう筈がありません。」
ジェローデルはオスカルの手に口付けをし、その手を涙で濡らした。
二人はみつめあった。
それでも何故....?何故....二人の瞳は悲しげなのだろうか.....?
―――平和な時...―――
はたしてそんな時が来るのだろうか....?
オスカルが再びビアンカへ生還する....そんなことが本当に叶うのだろう
か....?
「あ...あ..そうだ...ジェローデル」
涙をふき、オスカルがつとめて明るく言った。
「それでも、もし、よければ今晩はここで....。一緒に.....。召使達が不
信に思うと....」
いけないから、そうつづけるつもりがジェローデルのあっけにとられた顔をみてことばがとまる。
ジェローデルは始め、意味がわからなかった。次に、ジョークなのかと勘ぐった。最後にオスカルがいたって真面目にそう提案してくることを理解した。
「は...は....」
ジェローデルから力なく笑いが漏れてくる。
「はは....ははは....」
次第に大きくなる。
「はっはははははは!はっはっはっ!!」
ついには可笑しくて堪らないといったようすで笑い出した。
「いや、まったく、あなたという人は......いや、本当に、あなたという人は
!」
オスカルは何故笑われているのか、わからずにいぶかしげに彼を見る。
「信じられない。あなたの言う事だから、いや、腹もたちはしないが...。」
オスカルの表情は、なんだ、なんだ?私は何か、謝らなければならないようなことを言ったのか、と言いたげに困惑していく。そんなオスカルの顔をみて、ジェローデルの笑い声はいよいよ高くなる。
「オスカル嬢、あなたという人は、あなたという人は、全く男というものがわかっていないのですね?信じられない!その人生のほとんどを軍隊の中におき、男の中で生きながら.....。いや、だからこそ、そんなあなただからこそやってこられたのでしょうね。」
ジェローデルはおもわずオスカルを抱きしめた。
「ああ、かわいい.....。あなたはなんてかわいい人なんだ.....。」
子どもをあやすように顔をのぞきこむ。そしてこらえ切れず、また笑う。
「いや、まったく!実際、私はいつもアンドレ・グランディエに嫉妬していた。いつもあなたといられる彼が羨ましくてたまらなかった。しかし、今日ばかりは彼に同情せずにはいられませんよ。無垢な、大いなる鈍感さをもったあなたと常に供にいるということは時として拷問のようであったに違いない!あはははは!!彼の忍耐に敬意を表して!」
わけがわからず笑われつづけるオスカルの顔が憮然としてくる。
そんな彼女をかわいく思いながら、くっくっくっと笑いを必死にこらえる。
天使のような純真さの前で、ジェローデルは自分の中の苦しみ、耐え切れないような、どろどろした醜さが洗い流されていくような気がした。
幾つも過ごした苦しい夜も、己では扱いきれぬと思っていた激しい葛藤も、全てが微笑んでみつめられるようなことに変えられていくのを感じた。
「innocence....」(無罪、純白、純潔、無邪気、単純;の意)
ジェローデルが口にする。
「あなたにもっともふさわしい言葉です。innocence.....。」
「あなたを称えることば、あなたを語ることばは多くある。“正義”“強さ”“アフ
ロディテ”“氷の華”“白薔薇の人”“マルスの子”......けれど、
“innocence”...この言葉ほどあなたを表現するに相応しいものはないでしょうね......。」
ジェローデルはそっとオスカルの頬に触れ、愛おしそうにいった。
「私は本当に思うのですよ...。あなたが、オスカル・フランソワが実はベルサイユ一の美姫であるということ、このことに気付いていた男は決して少なくはない筈だ......。
しかし.....、あなたが、あなたこそが、実はベルサイユ一、無垢で純真で、かわいらしい本当の意味での女性らしい女性である、ということに、一体何人の男が気付いていたでしょうね....。
もし、女性らしい、ということばがそぐわないなら、あえて少女ということばを使ってもいいかもしれない......。あなたには永遠の少女のような無邪気さがある...。」
語るジェローデルにオスカルは子どものような単純な瞳を向けるのみであった。
優しく微笑し、ジェローデルはつづけた。
「私はこの頃、思います.....。自分が最近アンドレ・グランディエに似てきたのではないか..とね......。彼もきっとこんな風に苦悩し、こんな風にあなたの邪気の無さに救われたのでしょうね......。
考えてみればそれはあたりまえのことなのかもしれない。オスカル・フランソワ、あなたという人を理解し、真剣に愛し、もっと、もっとあなたが輝くのを見たいと願うなら、アンドレのような生き方をせざるを得ないのでしょう.....。
彼は、アンドレ・グランディエはあなたの影となり、あなたに寄り添い、あなたをよりよく生かすことにより、その命を輝かせることができた.....。それが彼のこの世における使命だったのでしょう....。」
アンドレの使命.....?オスカルはくいいるようにジェローデルをみつめた。
「オスカル嬢......、私は思うのですよ。生を受けた人間は皆、神からこの世に送られた花なのだ....と...。ある者は穏やかな日差しを好み、ある者は冷たい日陰を望む。たくさんの水を必要とするものもあれば、多くの水で枯れてしまうものもある.....。皆、それぞれが違う環境を必要とする...。
花は咲くためにあるのです。私達は皆その花をよりよく咲かせるという使命を受けている。
アンドレはあなたの影として徹することに、その生きる意味があった。彼の花はそのようにして美しく咲いたのです。
そんな彼が私には羨ましい....。できることなら私も彼のように、アンドレ・グランディエの代わりとなり、あなたに添って生きていきたい.....。あなたについて、業火のパリへこの身をおきたい....。」
モンタナーロの顔がかすめる。
「しかし、それはできない......。いえ、すべきではないのです。何故なら、誰も...、誰もアンドレ・グランディエの代わりにはなれないから....です。
誰かに成り代わろうとする時、その人生に真実はない...。そこに真の幸せは訪れない.....。薔薇は薔薇であり、百合にもリラにもなることはできないのですから...。
もし、私があなたに相応しい人間でありたいと願うのなら、私は私に与えられた命の花を精一杯、咲かせるしかないのでしょう...ね。」
ジェローデルのことばがオスカルの胸に響く。何かが自分の心の奥底に流れ込んでくるのを感じる。
「あなたは、オスカルという名の白薔薇は炎の中でその情熱を燃やすことにより、より美しく咲き誇ることができる....。そうではありませんか......?」
「そう.....そうなのだろうか.....?ジェローデル......。しか
し、それが、その道が正しいと、どうしたら知ることができるのだ?私の生き方は多くの大切な人を傷つけた。」
救いを求めるオスカルの瞳。
「オスカル嬢.....、心配しないで.....。全ての答えはあなたの心の中にすでに用意されている....。あなたはあなたの心の命じるままに進めばよいのです。」
オスカルは涙をため、助けを求める子どものように必死に問うた。
「しかし!しかし、それ故に......、それ故に...!!」
アントワネットさまは....!
唇だけが動く。涙で声にならない...。
「オスカル嬢、聞いて下さい。
幸せは決して自己の内のみで完結することはありえない。自分だけの幸せ、自分の家族だけの幸せ、これのみを追求する時、悲劇はおこるのです。例えばさっきの私のように...。
もし、もしも、私が自己の欲を満たすことのみを追い求めてあなたをここへ閉じ込めたなら....、そこに幸せは訪れたでしょうか...?この暗い部屋であなたを責め苛むことで、私は幸せを得られると思いますか...?その行為はあなたを傷つけるのみでなく、なにより私自身を傷つける行為なのです。あなたはたった今、ひたすら黄泉路へと向かおうとする私を、救ってくれた.....。
私があなたをここへ閉じ込めたところで、あなたのその崇高な精神があれば、決してその白薔薇が枯れることはない.....。花を枯らすことができるのはその花自身のみ、なのですから...。しかし、私の花は枯れ、根まで腐り果てたこと....でしょうね....。
そしてオスカル、あなたにもわかっている筈だ。なに人もアントワネットさまの紅薔薇を枯らすことなどできはしなかった....。断頭台においてさえ、いえ、そんな嵐の中であったが故に王妃様の紅薔薇はより気高く鮮やかに咲き誇ったのです。」
在りし日のマリー・アントワネットの誇り高い姿がありありと蘇る。オスカルの心が悲鳴をあげるかのように震え、揺れ動く。
「国王陛下には国王陛下の、アントワネットさまにはアントワネットさまの、その唯一無二の人生、使命、意味があったのです。ご自分達の花を最後の一瞬まで、枯らすことなく、誇り高く咲かせた、お二人は立派にその使命を果たされたのです。今はそのことに深く満足なさっている.....。そう思いませんか.....?
何故、あなたがこの世に女性としての生を受け、そのような人生を歩み、アンドレと出会い、結ばれ、そして何故あなた一人だけがこうしてここに生きているのか....、何故、アントワネットさまは皇女として生まれ、あなたと出会い、友情をはぐくみ、そして別ち、断頭台へとのぼられたのか....、その意味は時として生きていく中で見出すことができるかもしれない...し、また、できないのかもしれない....。
それでもオスカル、そこには意味があるのです。私達人智の超えたところでその意味はあるのです。いつか、私達が神とまみえた時にその意味を知らされるのかも...
しれませんね.....。
ジェローデルの顔を見たいのに....見つめていたいのに...涙で見えない。
「真の幸福は自己の内のみで完結することはありえない.....。私達人間の使命は与えられた花の命をより輝かせ、そしてそれをこの世に放つことにあるのでしょう......。私達の受けた命がこの世に向かって輝いた時、その人生は意味を持つのです...。
オスカル、心の命じるままにお行きなさい。それが、あなたに与えられた薔薇の命であり、あなたの使命なのです。」
「わ....私の生きてきた道は正しかったのだと.....?国王陛下は、アント
ワネットさまは...私をお許し下さっている....と....そ.....そ
う.....」
「許す...?こんなにも、こんなにも苦しんでいるあなたをご存知なのですよ?国王陛下もアントワネットさまも、あなたを心配して見つめておられるのが私にははっきり感じられます。あなたの薔薇を咲かせなさい、と。」
ジェローデルのことばは彼女にとって長い、長い苦しみから救い出される福音だった.....。
「オスカル、あなたがパリへ行き、私がビアンカに残ったとしても、私があなたを想い、支え、あなたがその薔薇の命を祖国のために燃やす時、私はあなたにつながっていられる...。そう、思えるのですよ.....。私達人間のつながりは決して肉体や物質的な距離のみによって左右されるものではない。私達がそれぞれの花を精一杯咲かせようとする時、真に私達はつながることができる....そう信じています.....。」
ジェローデルの瞳は海よりも深く、優しく、澄んでいた。
「そしてオスカル、そのつながりは死しても切れることはない。」
ジェローデルはオスカルの後ろから彼女の目をそっと両手で包むようにふさいだ。
「ほら、オスカル、こうして目を閉じてごらんなさい。そして静かに、静かに感じ取ってみて下さい.....。アンドレがあなたとつながっているのが....。わかりませんか.....?」
ジェローデルの心にオスカルへの果てしない愛情とやるせない淋しさが広がる。それでも彼は語った。愛する人の魂を救おうと全身全霊をかたむけて....語った....。
オスカルは静寂に身を浸した。
経験したことのない透明な時間が流れた。
ジェローデルの手のひらがオスカルの暖かい涙で濡れた。
アンドレが見守っている、アンドレが助けてくれた命なのだから、アンドレ
が....。
今まで幾度となく聞いた慰めのことばだった....。
苦しくなる慰めのことばだった....。
それが今、迫り狂う真実として彼女の心を揺さぶった。
オスカルは泣いた.....。息もつけぬほどしゃくりあげて、泣いた。
次の日オスカルは黙って旅支度を整えた。
ロザ・ビアンカへ初めて入った時のように男のなりをした。
ベロニア夫人は何も聞かず、黙ってその仕度を手伝った。
「出発の準備は整いましたか?」
入ってきたジェローデルをみてオスカルは目をみはった。
「ジェローデル、何のつもりだ?」
彼もまた、旅支度を整えていた。
「あなたをパリまで送り届けるのです。」
何故、そのようなことを聞くのか、とばかりに答える。
「じ、冗談ではないぞ!おまえがパリにだと?!それこそ、みすみす死にに行くようなものだ!」
オスカルが必死に言う。
「あなたこそ、冗談ではありません。ここから、パリまで一人で行かせるなど、そんなことを私が許すと思うのですか?」
ジェローデルの語調も強い。
お互い一歩も譲らぬ様子の二人のもとへ突然の報せがきた。
「失礼いたします。ジェローデル様、フランソワ様、あの、お二人の知人だという者が参っておりますが....。アラン・ド・ソワソンとか申す者で...。」
二人は顔を見合わせた。
アランはすぐに通された。無精ひげをはやしたその姿から、苦労してここまでたどり着いた様子が見て取れた。
二人をみてアランは直立し敬礼した。
「隊長のお迎えにあがりました。」
そう言った。
二人は驚きを隠せずにいた。
「な、何故わかったのだ....。私が、私がパリへ戻ろうとしていること
が...。」
粗野な風貌のアランだった。しかしその瞳はやはり深い暖かさをたたえていた。
「隊長、ロベスピエールらは断頭台のつゆと消えました。恐怖政治は終わったのです。フランスは今危機にさらされています。革命への干渉戦争があちこちで火をふこうとしています。
夢を....夢をみました。隊長の...。隊長がパリへ帰ろうとしている夢を。アンドレが言いました。迎えにいってやってくれないか....と。自分にはそれがどうしても本当のことに思えたのです。」
オスカルに震えが走った。
「そして、アンドレはこうも言っていました。『ショコラの件、悪かった。』とジェ
ローデル少佐に伝えてほしいと。自分には何のことやらわかりませんが。」
ジェローデルもことばを失った。
3人はロザ・ビアンカ城の入り口の前にたっていた。
「ジェローデル少佐、あなたに心からの敬意を表します。本当に...本当に、感謝に堪えません。」
アランはジェローデルの瞳をみつめた。同じオスカルへの想いを抱くものとして、わかりあえる何かが流れた。
二人はそれぞれ馬にまたがった。
「ジェローデル.......、ありがとう。」
それ以上のことばがみつからない。
「隊長、お元気で...。」
手を差し伸べオスカルの手を握る。しっかりと....。
そして彼女のぬくもりを惜しむかのようにゆっくり離した。
オスカルの顔をじっと見つめた。
「あなたの背中を見送りたくない....。ここでお別れです。さぁ、どうかもう
行って下さい。」
オスカルはジェローデルの瞳をみつめ、そしてゆっくりと前を向いた。ジェローデルはその背を見るまいと後ろを向く。
オスカルの馬の腹を蹴る音が聞こえ、ゆっくり馬が歩を進める音がした。
だんだんひずめの音が遠ざかっていくジェローデルはたまらずに階段を駆け上がり、二人の、そして今は自分一人の寝室へ飛びこんだ。
ここにはオスカルの残り香がある。
ここで、彼は多くの涙を流した。けれど、その傍らにはオスカルがいた。彼女の体温を感じることができた。
今はからっぽのその部屋で彼は膝をつき床に崩れおちた。
追ってはいけない!
今、彼女を追ってはいけない!!
大理石の床をかきむしるように泣いた。
今、今追えば!
今、馬を走らせ、彼女を追い、行かないで欲しいと懇願すれば.....!!
がちがち、と歯の根があわぬほど震えつづける。
その手に血が滲むまで床をたたき、必死にこらえた。
―――白薔薇は炎の中でこそ美しく咲き誇ることができる....。―――
自分自身のことばがこだまする。
―――これが、.私の生き方だからです....!―――
たえきれずに走り出す。別れた入り口に駆け込む。
―――私があなたを想い、支え、あなたがその命を祖国のために燃やす時、私はあなたにつながっていられる....。そう、思えるのですよ....。―――
.....オスカルの姿はもう見えない。
「.....つ...つながって...いられる....。そう..思える...の
です...よ..。」
ずるずるとその場に崩れ落ちる。泣きながら繰り返し、繰り返し、その言葉をつぶやいた.....。
「そう...思える...のです.......よ...。」
........と。
ジェローデルは今日も北の薔薇園にたたずんでいる。
静かにアルプスを見つめるため.....。
彼の瞳に映るものは紅の近衛服を着て鮮やかに笑うかつてのベルサイユでのオスカルなのだろうか、それとも、ここではにかみながら、自分たちの部屋に飾るのだと言い、薔薇を摘んだ彼女の姿なのだろうか...。
切なく、なつかしい瞳をして、遠くをみつめる....。そしてつぶやいた。
「.....遥かなる..私の.....追憶..............。」
―――.....私の.....追憶.......。―――
――― 完 ―――
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