永遠のはじまり 1



腕の古傷がわずかな鼓動を送ってくる。
ズキッ……。ズキッ……。
痛むわけではないが、湿気を含んだ空気に触れると、どうしても反応してしまう。
顔を上げ、遠い空を眺めると、どんよりと今にも泣き出しそうである。
近くに視線を移すと、白い雲の塊が、いくつか勢いよく流れて行く。ふと、その中の一つが亀に見えた。初めて見た時は、のんびり動く石のようなそいつに、不思議な生き物が居るもんだと驚いたが、頭上での矛盾した速さに可笑しさを感じてしまう。
そんな他愛も無い事を思いながら眺めていると、不意に懐かしい香りが鼻先をかすめた。
無防備な頭の中へそいつはストレートに入り込み、瞬く間に俺をあの懐かしい時代へと運んで行った。

あの頃は、行き場のない怒りを抱え、暗闇で答えを求め叫んでいる、そんな日々だった。
どんなに寝る間を惜しんで働いても、生活が楽になる兆しなど一向に見えてこない。
今日のパンを手に入れ一日を無事生き抜いても、明日、明後日、そしてその後は?
病気したって医者にもかかれねえ、弱いもの、力のないものは黙って受け入れるしかないのか、死んじまってもいいのかよ。
特権階級の金持ち、大貴族、あいつらは金や権力の上で踏ん反り返り、身分ってわけの分からないもんを盾に、俺たちの小さなプライドを土足で踏みにじる。
飼い犬が牙を向けるのは、ある日突然なんかじゃねえ、我慢も限度を越えたからこそ反撃に出るんだ。
人間なら尚更だ、虐げられた感情がどれほど恐ろしいものを生み出すかを、まるで分かっちゃいない。

もともと貧乏貴族だったが、大黒柱を失い母親だけに頼る生活が、こんなにも心細く、不安定ものなのだと、日が経つにつれ身に詰まされてきた。
母親は「何も心配するな」と言うが、見てりゃ分かるだろ、俺だっていつまでも子供じゃない、泣いてなんかいられない。
卒業して働けばなんとか生活が出来る、三人肩寄せ合い寒さに震えながら、冬の次には必ず春が来るもんだ、そう信じて惨めな生活にも耐えていた。
ところが、一体どうなってんだ! 
後ろ盾の無い貴族の若造に世の中はこれほどまでに冷たいものなのか、世の中にはびこるこの不条理は一体なんなんだ!
実力よりもコネや金がまかり通る世界をまざまざと見せつけられ、厳しい現実の中、俺自身が強くなるしかなかった。

ディアンヌ、かわいい妹。
いつも俺の後をついて来たがる、たまに面倒になると、必ず「妹も連れて行きなさい」って釘を刺される、母親ってのはどこも口うるさいもんなのかねぇ、それでいて妙な威圧感があるもんだからおっかねえんだよな。
無視して歩き出すと小さな手足をパタパタさせて真っ赤な顔で追いかけてくる。
頃合いをみて振り向くと、満面の笑みで俺を見上げるディアンヌがいる、そして俺の手を小さい手でしっかり握り「つかまえた」ってたどたどしい言葉で言う。
たまんないぞー。俺はシスコンか!?
いつだったか「お花のかんむり作って」ってせがまれた事があった、どこかの器用な奴がディアンヌに作ってやったらしい。
全く、余計な事をしやがる。と言うか、いつ? どこで? 誰と? どうして? そうなったのかが気になるが、本人に聞いても、さっぱりだ、今となっては永久になぞだな。
俺には無理だって何度言っても聞きやしない、あんまりしつこいから一度だけ挑戦してみたが、どうにもならない代物だった。
草だか花だか見分けがつかない輪を、頭の上に乗せてやったら、「みて〜、きれい、きれい」って、その姿がいじらしくて、かわいくて、俗に言う目の中に入れても痛くない、ってのは、こういう事だな。
大人になるにつれ、あいつはどんどん綺麗になっていった、まあ兄さんとしては複雑な心境でもあるが、同時にとても誇らしい気分になれた。
正直に白状すると、面会に来る度みんなに見せびらかしたい、自慢したい気持ちが山ほどあった、もちろん、悪い虫がつかないよう、いつでも目は光らせていた。

でも、まさか!!
まさかあのヤロー! あのスケベヤロー! 汚そうとしやがった!
なにが上官だよ、なにが貴族だよ、ふざけやがって、怒りで体が震えたぜ。
顎だけですんでよかったと思いやがれ、止めに入った奴らがいなけりゃ、間違いなくあの世行だ。
ディアンヌを守る為ならなんだってする、官位がなんだってんだ兵卒になるぐらい屁でもない、あいつが受けた傷に比べりゃなんでもない。
世の中は不公平に出来ている、そんなのは経験上、痛いほど身にしみて知っていたが、まだ甘かった。
この事件が怒りを一層膨れ上がらせ、今にも爆発しそうだった。
そんな一番くすぶってる俺の前に、あの人は現れた。

「なにー! 貴族の女が今度の隊長だって?」
フランソワがすごい勢いで走ってきた、と思ったら、いきなりおかしな事を言いやがった。
「一個小隊の隊長か?」
息も切れ切れに細い肩が上下に動く、あの様子じゃ相当探し回ったな。
「ちがうよ、部隊長! これが慌てなくてどうすんだよ」
「おい、何かの間違えだろ?」
「間違えじゃないよ、おいらたった今この耳で聞いたんだ」
「どの耳だ? これか?」
あいつの耳をちょいとつまんでひっぱってやった。
「何すんだよ、痛てえよ〜」
「おまえ、耳の穴ちゃんと掃除してるのか?」
「ひどいよ〜アラン、ちゃんとそうじして、あれっ? してないけどよ」
そんなに痛いのか? 耳を押えながら
「ダグーんとこにお偉いさんが来たんで、しっかり盗み聞きしたんだ、この耳でな!」
痛がるあいつを横目でみながら、俺は整理してみた。
確かに新しい隊長が来るって噂はあった、いつまでも空席って訳にもいかないだろうし
だが、おんな? だいたい女の士官なんていたか?
いや、まてよ、一人いたな、おいおい士官学校で有名なあの女か。
女ならディアンヌを連れ込むような事は、ないな〜、だからか?
いや、そんな理由のはずがねえ、こんな兵隊の事なんか上が考えるもんか。
「おいアランさっきから何一人でぶつぶつ言ってんだ? 俺のこと無視すんなよな」
フランソワが不安げな表情で俺の顔を覗き込んできた。
「悪い、悪い、いいから詳しく話せ、で、どんな女だ?」
「なんでも将軍の娘で、今まで近衛の連隊長やってたんだが、すげー恵まれた環境を自分から辞めて、今度はこの衛兵隊に配属変えだってさ、お偉方も困っててさ、面白かったぜ、会話聞かせたかったな」
ちょっと聞いてみたかった気もするが、将軍の娘なら間違えねえ、あの有名な女だ。
見目麗しい飾りもんの近衛隊とここでは、雲泥の差だぜ、それを知らないはずがねえ、こちとらフランス衛兵隊だぜ、衛兵隊! 勘違いされちゃこっちがいい迷惑だ。
「全く、上も困るような女に、遊び半分でこられちゃたまったもんじゃねえなあ」
「おれ、やだよー女の隊長なんて、なんとかしてくれよ」
「なんとかって言ったって、もう決まったんだろ」
「あーもう決定だよ、来月からって話さ」
「あと何日もないじゃねえか、そりゃどうにもなんねえな、まっいいさ、親の七光りで威張り腐ったような貴族のお嬢様なんだろうよ、すぐに『お父様こんなむさ苦しい所なんて思いませんでしたわ、私一日だって耐えられませんわ』って父親に泣きついて辞めちまうだろうよ」
あれ? なんだ? あいつのあの顔。
「ビックリだなー、女の仕草まねすんのうまいなぁ〜」
フランソワ、あのヤロー、笑いを必死で堪えてるのかよ。
俺は内心あわてたが、それを悟られない様に落ち着いた声で痛がる耳元でささやいた。
「今何かみたのか? 何もみなかったよな〜、えっ? どうなんだ!」
   やっべー、アラン怒っちまったよ、ここはひとまず背筋をのばして、シャキーン
「何もみていません、はい、班長本当です」敬礼。
   しょうがねえなぁ、見なかった事にしてやるか、後が恐えからな。
「そういう事だフランソワ、どうせ来たって長くは続かねえ」
   はい? そういう事って、どういう事だよ〜、どうせすぐ辞めちまうからって何にも
   しないでほっとくのかよ。
「おいみんなを集めな、今夜は作戦会議だ」
   やったー、追い出し作戦会議だな。
「そうこなくっちゃ、てっとり早く追い出そうぜ、女の命令なんか聞けねえよなぁ」
そう言うとあいつはみんなの居る兵営にすっ飛んで行った。
全くすばしっこい奴だ、長生きするよ

さてと、どうやってそのお嬢様を追い出すか、ひとつその顔をじっくり拝んでやるとするか。
まるで戦闘開始のように熱くなった俺は、今まで行き場の無かった怒りの矛先を、まだ見ぬ女隊長に向けていた。
それにしても、同じ空気を吸うのかと想像しただけで、ゾッとする。

俺たちの作戦は実に単純だった。
閲兵式のボイコット、権力を笠に文句を言ってきたら、すかさず俺が一発かます! これで遊び半分のお嬢様は古巣へお帰りになるだろう、誰もがこの意見で一致した。
予想通りあの女、兵営に乗り込んできた、そこで逃げ出すはずだったんだが。
しょっぱなから喧嘩だぜ、喧嘩! 貴族のお嬢様が喧嘩するかよ。
軍人は、上官の命令に絶対だ、ところがそんなもんは表向きだけ、うらなり貴族達のために働く奴なんて、ここには一人もいやしねえ、金さ、金を稼いで家族を、生活を守る為、生きる為だけに働いているんだ。
だが、心の奥底では古の騎士や銃士に憧れていた、そんな人に出会いたい、命を預けられる、尊敬にあたいする上官の元で働きたいと。

一本筋の通った潔さ、鍛えられた武術、的確な指令、行動力、統率力、そして何よりも人を惹きつける魅力、どこをどう取ってもそこら辺の男よりも見事だったぜ。
それなのに俺はどうしてもあの女を認められなかった、何かが耳元で囁いている、受け入れたら最後だと、その声を打ち消すように全力で追い詰めていった、そのつもりだったが……。
逆に袋小路に迷い込んで、追い詰められていたのは、俺だ。

風が止んだ。
風が運んできた懐かしい香りも止んだ。そしてあの人も、もう、いない。

急がないと雨に降られるな、ベルナールとの約束にも遅れちまう。
今日は無事帰還したお祝いだとロザリーが手料理を振舞ってくれる、坊主も大きくなっただろう、俺のこと覚えてくれているだろうか、自慢じゃないが意外と子供にだけは受けがいい。
『グー、ググー』腹の虫がなった。
笑えるな、今も俺は色気より食い気だな。
「さあ思いっきり食うぞ!」

つづく