☆ 「邂逅(かいこう)」 ☆

1.
『ひとつ年下のきれいなお嬢様か・・・』 

アンドレはまだ見ぬその少女をあれこれ想像していた。
先日母が急な病で亡くなり、アンドレはたった一人の身内である祖母の働くジャルジェ家に引き取られることになった。
そして、つい今しがた屋敷に到着したのだった。
今まで住んでいた家とは比べものにならない、王様が住んでいるんじゃないかと思うくらいの大きなお屋敷。
見たこともないきれいな花が咲き乱れる、どこまでも続く広い庭。
これから先、自分もここで暮らすという期待と、“末のお嬢様の遊び相手件護衛”ということへの不安。
『かあさん、僕このお屋敷でうまくやっていけるかな?きれいなお嬢様と遊べるのはうれしいけど・・・。
でも、僕なんかでちゃんと相手がつとまるのかな。もし嫌われちゃったりしたらどうしよう・・・』

あれこれ考えていると、階段の上から足音が響いてきた。ふと見上げてみると、そこには自分と同じくらいの少年が立っていた。
一目見てアンドレはその少年に心を奪われていた。輝く黄金の髪、深い湖を思わせるような蒼い瞳・・・。
『うわぁ、なんてきれいな子なんだろう。さっきおばあちゃんと行った、あの教会にあった絵の中の天使みたいだ!』
アンドレは少年を見つめたまま、立ちすくんでいた。
そんなアンドレに凛とした声で少年が話しかけた。
「君、名前は?」
「ア、アンドレ。アンドレ・グランディエ」
アンドレは、少しうわずった声で答えた。
「ああ、君か、今度僕の遊び相手に引き取られたっていう子は」
『え、えっ?遊び相手・・・?だって、僕の遊び相手はお嬢様って・・・』

驚いて目を白黒させるアンドレに構わず、少年はアンドレに向かって一振りの剣を投げてきた。
何がなんだかわからないまま、アンドレは落とさないように慌てて受け止めた。
「はじめに言っておく。僕が欲しいのは遊び相手じゃなくて剣の相手だ。
さあ、表に出るよ。早く!」
そういって少年はアンドレの手を取って、有無を言わさず表へ行こうとする。
そのとき、祖母であるマロン・グラッセがアンドレを主の部屋に挨拶に連れて行こうと呼びに来た。
アンドレは天の助けとばかりに祖母にしがみついた。
「おばあちゃんの嘘つき!僕が相手をするのはお嬢様って言ってたじゃないか!!」
するとマロン・グラッセは
「末のお嬢様のオスカル様だよ。おきれいなお顔に傷なんか付けたら承知しないからね!
さっさとお相手をしておいで!!」
とアンドレの頭をポンと叩き、アンドレの体を押し出した。
「ほら、ばあやのお許しも出たし、さあ!」
オスカルは満面の笑顔でアンドレを振り返った。その笑顔にドキドキしながらもアンドレは
「ちょ、ちょっと待ってよ!剣の相手なんて・・・いきなり言われても、無理だよ!
僕やったことないし、相手になんかなれないよ!!」
と必死に抗議をすると、間髪を入れずにマロン・グラッセが再びアンドレの頭を叩いた。
「アンドレ!お嬢様に向かってなんて口の利き方をするんだい!
オスカル様と呼びなさい!!」
ここに来るまでに“行儀と言葉遣い”についてさんざん注意を受けていたアンドレは慌てて言い直した。
「オ、オスカル様、僕は、剣なんて使ったことがないから・・・じゃない、ないので、とてもオスカル様のお相手はできません
そう言ってオスカルを見ると、さっきの笑顔は消え、明らかに怒っている風だった。
『どうしよう・・・もう怒らせちゃった・・・きっと剣の相手が欲しかったのに、僕みたいのが来ちゃったから・・・』
アンドレは泣きそうな気分になって、祖母の方を振り返った。するとオスカルが二人の間に入って
「ばあや、アンドレは僕の遊び相手なんでしょ、だったら友達じゃないか。なのに、
どうして【様】をつけさせるんだよ!」
とマロン・グラッセに食ってかかった。
「いいですかお嬢様、お嬢様と、このアンドレとは身分が違います。召使いがご主人にそんな口の利き方なんていけません」
「アンドレは僕の遊び相手としてきたんだから召使いなんかじゃない!」
「いいえお嬢様、アンドレはこのジャルジェ家の使用人です。ですから・・・」
「そんなのおかしいよ、ばあや!」
アンドレはどうしていいかわからないまま、その場に立っていた。

二人の言い争いは暫く続き、それを聞きつけて奥から主であるジャルジェ将軍と夫人が現れた。
「どうしたんだ、ばあや。なかなかアンドレを連れてこないと思ってたら」
「オスカルの大きな声が聞こえてきたのですけど、どうしたのかしら?」
「ああ、申し訳ございません、旦那様。ちょっといろいろありまして・・・ほらっアンドレ、旦那様と奥様にご挨拶をしなさい!」
「ア、アンドレ・グランディエです。今日からこちらにお世話になります。えっと・・・よ、宜しくお願いします」
アンドレはぺこっと頭を下げ、主夫妻を見た。
『旦那様って、確か王様の軍隊で働いているって言ってたけど、ホント強そうだな。
それに、奥様はすごく優しそう・・・』
そんなことを考えていると、夫人が側に来て、アンドレの顔を覗き込んだ。
「まあ、なんて美しい黒髪なのかしら。それにとても神秘的な黒曜石の瞳・・・。
アンドレ、こちらこそ宜しくお願いしますね」
「うむ、確かにきれいな、澄んだ目をしておる。それに意志も強そうな・・・」
そんな会話を遮るように、再びオスカルの声が響いた。
「父上、アンドレは僕の遊び相手としてわがジャルジェ家に引き取ったんですよね?」
「うん?、ああ、そうだ。お前の遊び相手兼護衛として・・・」
「だったら召使いなんかじゃないですよね?」
「オスカルお嬢様、ですからそれは・・・」
「もう、ばあやは黙ってて!」
「ばあや、一体どういうことですの?」
マロン・グラッセは先ほどまでのやりとりを二人に説明していた。

アンドレは、その間オスカルを見つめていた。
『近くで見ると、本当にきれいな子だな。でもよかった、ツンとすましたお嬢様だったらどうしようかと思った』
そんなことを思っていたら、視線を感じたのか、オスカルがアンドレの方を振り返り、そばにきた。
「ね、アンドレ。アンドレは今まで友達に【様】をつけて呼んだことはある?」
「ううん、ない」
「そうだよね、おかしいよね。遊び相手っていうのは友達ってことなんだから。僕たちは今日から友達なんだから」
そう言ってオスカルはうんうん、とひとりで納得している。
『あれ、さっき遊び相手より剣の相手が欲しいって言ってたのに?・・・変なの。
でも、何でだろう?会ったばっかりだけど、この子とならうまくやっていける・・・ような気がする・・・』

「で、お前はどうしたいんだ?」
そんな二人を見つめながら、ジャルジェ将軍がオスカルに声をかけた。
「ですから、友達同士でかしこまった言葉遣いはおかしいと言ってるんです。アンドレは僕の友達なんだから。
なのにばあやが、いろいろ言うから・・・」
「でもオスカル、アンドレが使用人であることは事実なのよ」
「母上までそのような・・・それはそうだけど、僕は・・・だって、はじめての友達なのに・・・」
そう言ったままオスカルは唇をかんで下を向いてしまった。

確かに、今までオスカルには友達と呼べる相手がいなかった。
王家に仕える名門ジャルジェ家の跡取りにふさわしい、同じ年頃の貴族の子弟は今まで何人も出入りしていた。
しかし、たいていは「家のために懇意にしておくと将来のため」と親に言い含められていたので、オスカルのご機嫌を取るのに終始するような少年達ばかりだったのだ。
例えば剣の稽古にしても、オスカルはただ一緒に稽古をする相手が欲しかったのだが、“怪我をさせては一大事”と、残念ながら真剣に手合わせをしてくれる相手はいなかった。
また、幼いながらもそういった思惑を敏感に感じ取ったオスカルは、次第に少年達を遠ざ
けるようになっていた。
そんなオスカルの姿に、両親はずっと胸を痛めていた。
だから今回マロン・グラッセからアンドレの話を聞いた時、是非にと引き取ることにしたのだ。
会ったことはなかったが、何といってもマロン・グラッセの孫である。オスカルと仲良くなれるに違いないと確信を抱いたのだった。

「あなた・・・」
「わかった、アンドレはお前の護衛でもあるから、アンドレの主人はお前だ。お前の好きなようにしなさい」
「いいんですか、父上!?」
オスカルの顔がパァーッと輝いた。
オスカルもこの黒髪の少年とだったら仲良くなれると感じていた。
先ほど剣の相手を強要したとき、彼は「できない」としっかりとオスカルの目を見据えて言った。
これまで知り合った少年達はたいていオドオドしていて、しっかりと目を見て話をした者はいなかったのだ。
だから、アンドレの真っ直ぐに自分を見つめる瞳に、漠然と何かを感じたのだった。

「アンドレ、父上の許可が出た。今日から僕達は友達だ。だから僕のことはオスカルって呼ぶこと。
それから、僕と話す時は敬語とかは使わないこと。あ、これは主人としての命令」
そういってオスカルはペロッと舌を出して笑った。
「うん、わかったよ、オスカル」
オスカルの笑顔の意味を理解して、アンドレもクスッと笑う。
「さあ、表へ出て剣の稽古をしよう、アンドレ」
「でもオスカル、僕さっきも言ったけど、剣なんてちゃんと使ったことないよ。
だからオスカルの相手が勤まるかどうか・・・」
「大丈夫だよ、僕がはじめから教えてあげるから。きっとすぐに上手になるよ」
「そうかなあ?早くそうなれるといいなあ」
「言っとくけど、僕はビシビシしごくからね!」
「え〜、そんなあ。優しく教えてよ、オスカル先生!」
「う〜ん、それはお前次第だな、アンドレ君」
つい先ほどはじめて会ったとは思えない位打ち解けた二人は、笑いながら手を取り
合って庭に向って駆け出していった。

「宜しいんですか、だんな様。あれでは・・・あとでアンドレには私から言い聞かせておきますので・・・」
「ほほほ・・・よいではありませんか、ばあや。二人ともまだ子供ですし」
「でも奥様・・・」
「まあまあ、しばらく様子を見ようではないか。それに、あんなに楽しそうに笑うオスカル
をわしははじめて見るような気がする」
「ええ、本当に・・・」
そう言って微笑みながら見つめる視線の先には、柔らかな日差しを浴びて融けるように輝く二つの笑顔があった。



2.

「少し休もうか、アンドレ」
小一時間ほどして、二人は庭にある大きな木の下に座った。時折吹く風が、汗をかいた体に心地いい。
「ねえオスカル、僕上手になれるかなあ?」
「うん、初めは僕もどうなのか不安だったけど、結構筋がいいと思うよ」
「そうか、良かったぁ。早く覚えて、ちゃんと相手ができるようにならないとね」
「でも僕に追いつくのはまだまだ先だと思うけど?」
そう言ってオスカルはいたずらっぽく笑う。
「わからないよ、もしかしたら何年か先には僕の方が上達しているかもしれないし。先生の教え方次第かな?」
「言ったなぁ!」
二人はじゃれあうようにして、そのまま倒れこんだ。
見上げると、枝や葉の間から青い空が覗いている。
「ね、アンドレ、この木に登れる?僕何回か挑戦したんだけど上手く登れなくて」
「木登りならまかせてよ。コツさえ覚えちゃえば意外と簡単なんだよ」
「じゃあ、今度教えて、アンドレ」
「任せて。でも、言っとくけど、僕はビシビシしごくからね!」
「それ、さっき僕が言った言葉じゃないか〜」
「あ、バレちゃったか・・・」

しばらく笑いあった後、オスカルがアンドレに尋ねた。
「ねえアンドレ、アンドレは今まで友達とどんなことして遊んだの?」
「そうだなあ・・・木登りしたり、川で遊んだり、あとはかくれんぼとか、かけっことか・・・」
「ふーん、そうなんだ・・・」
アンドレには、心なしかオスカルの声が寂しげに聞こえた。
『あ、そうだ、オスカルはきっとそんな風に友達と遊んだことないんだ・・・まずいこと言っちゃったかなあ?』
アンドレが何と声をかけていいか考えていると、突然オスカルが立ち上がった。
「もうすぐお茶の時間だから戻ろう。そのあとで木登りの練習だ、アンドレ」
「う、うん、いいよ」
不安な気持ちでアンドレが答える。
「よーし、そうと決まったら部屋までかけっこ!」
言うなりオスカルは全速力で走り出した。
「ずるいよ、オスカル!待ってよ!!」
突然のオスカルの行動に戸惑いながらも慌ててアンドレも後を追う。
「早く早く、遅いよアンドレ!」
そう言って振り向くオスカルの笑顔を見て、アンドレは安心すると共に、大切にしたいという気持ちが知らずに芽生え始めていた。
はじめて通されたオスカルの部屋は、とても広かった。
『この部屋だけでかあさんと暮らしてた家と変わらないかもしれない・・・。
あの辺が台所で、あそこら辺にテーブルがあって・・・。
夜中に起きるとよくかあさんが縫い物をしていたっけ・・・』
貧しかったけど幸せだった日々・・・アンドレが涙ぐみそうになったとき、オスカルがアンドレを呼んだ。
「ね、アンドレ、この本すごく面白いんだよ」
その声に救われ、そして吸い寄せられるように、アンドレは長椅子に座っているオスカルの隣に腰掛けた。
テーブルの上には厚めの本が何冊か置いてある。その中からオスカルが薦める本を手にとってパラパラとページをめくった。
「オスカル、こんな難しい本を読んでるの?すごいね」
「そんなに難しくないよ。とにかく面白い本だから読んでみてよ」
「うん、でも、僕きちんと教わったことないから、ちゃんと読めるかどうか・・・」
「そうなの?じゃあ、明日からアンドレも僕と一緒に先生に教わるといい」
オスカルが瞳を輝かせて楽しそうに言った。
「えっ、だめだよそんな事!」
「どうして?何がだめなの?」
「どうしてって・・・」
『いくら何でもそこまで甘えるわけには。でも、何て説明すればいいんだろう?』
オスカルの気持ちは嬉しいが、さすがにまずいと思ったアンドレが必死に言葉を探して
いると、
「じゃあ、これは命令」
しれっとオスカルが言う。
「命令って・・・オスカル・・・」
「だってアンドレは僕の護衛でもあるんだよ。大きくなって僕が宮廷の仕事した時、護衛のお前がそんなじゃ困る
じゃないか」
「宮廷って、王様のいるところ?」
「そうだよ、決まってるじゃないか。それに、我がジャルジェ家は王家をお守りする軍隊を勤める家なんだから。
だから、僕だって士官学校を出たら宮廷の軍隊に入るんだよ」
「それで僕も宮廷に出入りするの?そんな・・・だって、僕みたいな・・・」

アンドレが返答に困っていると、ノックの音がした。
「オスカル、アンドレ、そろそろお茶にしましょう」
そういってジャルジェ夫人が侍女を連れてやってきた。
「母上、お願いがあります。明日からアンドレも僕と一緒に勉強させたいのですが」
オスカルが駆け寄っていって手を引っ張りながら話し掛けている。
「あらあら、オスカルったら。ええ、構わないわよ。そうね、私からお父様に話をしておくわ」
「そんな、奥様、そこまでしてもらっちゃったら・・・」
「アンドレ、さっき命令だって言ったでしょ!」
「だけどオスカル・・・」
「いいのよアンドレ、遠慮しなくても。一人より二人のほうがお勉強もはかどるだろうし。
それに、オスカルは命令なんて言ってるけど、
本当はきっとあなたと一緒にいたいだけなのよ。ね、オスカル?」
そう言ってオスカルの顔を覗き込む。
アンドレも視線を向けると真っ赤になっているオスカルの顔があった。
「もう、母上は・・・。さぁ、アンドレ、お茶の時間にしよう!」
照れ隠しをするようにオスカルはテーブルの方に走っていった。

そこには既に侍女によってお菓子と紅茶が置かれていた。
アンドレはそれを見て驚きの声をあげた。
「うわぁ、すごい!こんなにたくさんのお菓子・・・今日はオスカルの誕生日なの?」
「まさか、違うよ。それに、誕生日ならこんなものではないし」
オスカルは不思議そうにアンドレを見つめる。
「あ、ごめんなさい。僕、こんなたくさんのお菓子、誕生日の時以外見たことないから・・・」
アンドレは恥ずかしそうに下を向きながらつぶやき、そのまま黙ってしまった。
オスカルは突然黙ってしまったアンドレにどうしていいかわからず、不安げな目で見つめていた。

「あなたが謝ることはないのよ、アンドレ」
ジャルジェ夫人はアンドレの前に行くと、そっと両手でアンドレの頬を包み、優しく語りかけた。
「お、奥様・・・?」
アンドレは予想外の夫人の行動に驚いてしどろもどろになってしまった。
「アンドレ、もしよかったらあなたの誕生日のことを聞かせてくれるかしら?」
「だけど、奥様に話すような・・・」
「僕も聞きたい、アンドレ、話してよ!」
オスカルも目を輝かせてアンドレが話すのを待っている。
アンドレは、その吸い込まれそうな蒼い瞳に見つめられると、何故か逆らえないような気持ちになっていた。

「でも、話すって言っても・・・」
「じゃあさ、アンドレの誕生日っていつなの?」
「8月26日」
「ふーん、夏なんだ。でも、夏生まれって感じだね」
「そうかなあ」
「うん、何ていうのかなあ、アンドレって、お日様が似合う感じがするんだ。
それで?誕生日はどうやって過ごすの?」
「そんな特別じゃないよ。まずかあさんと近くの教会へ行って、それからうちに帰って、
かあさんが特別にお菓子を作ってくれて・・・。それから、その日だけは友達が泊まってもいいことになってるから、夜遅くまで寝台の中でいろんな話をして・・・」
「ね、その特別なお菓子って?」
「かあさんの話だと、おばあちゃん直伝らしい。ほんのり甘くってとっても美味しいんだ。
焼きあがるとかあさんが呼びに来て・・・。
かあさんもその日はおめかししてるから、ちょっとおしろいの匂いがするんだ。
それでね、アンドレ、お誕生日おめでとうって、僕の年の数だけ、かあさんがキスしてくれるの。それから、かあさんが・・・か、かあ・・・さんが・・・」
アンドレはいつの間にか涙を流していた。そんなアンドレをジャルジェ夫人はそっと抱きしめた。
「お、奥様・・・」
「いいのよ、アンドレ。泣きたい時は我慢しないで泣きなさい」
最初は躊躇っていたアンドレだったが、やがて悲しみが堰を切ったように溢れ出した。
「・・かあさん、かあさん、かあさん・・・」
アンドレはジャルジェ夫人の胸でこらえきれずに泣き出した。
オスカルもまた夫人の袖をぎゅっと握り締め、蒼い瞳からポロポロと涙を流していた。

気がつくと、アンドレはジャルジェ夫人の胸の中で泣き疲れて眠ってしまっていた。
ジャルジェ夫人は侍女にマロン・グラッセを呼びに行かせ、やがて息を切らせてマロン・グラッセが部屋に入ってきた。
「お、奥様、申し訳ございません、こんな・・・」
「いいのよ、母親を無くしてまだ日が浅いのですもの。それに、今日はこの子にとっては驚くことばかりっだたでしょうしね。
今日はもうこのままゆっくり寝かせてあげましょう」
「お気遣いありがとうございます、奥様」
マロン・グラッセがいとおしそうにアンドレの頬を撫でた。

そして、召使に抱きかかえられたアンドレと共にマロン・グラッセが部屋を出て行こうとすると、オスカルが追いかけてきて袖を引っ張った。
「待って、ねえ、お願いがあるんだ、ばあや」
「何でございますか、オスカルお嬢様」
「今度のアンドレの誕生日に、お菓子を作ってほしいんだ」
「お菓子・・・ですか?」
「うん、アンドレの母上が、ばあやから教わったって・・・」
「私が教えた・・・?・・・ああ、あれですか。ええ、別に構いませんが・・・」
「ホント?絶対だよ、約束だからね!!あと、このことはアンドレには内緒だからね!!」
オスカルの蒼い瞳が楽しそうに輝いていた。



3.
8月26日がやってきた。この日は、天も祝福するかのように、雲ひとつないきれいな青空が広がっていた。
この頃には、アンドレもジャルジェ家での暮らしに慣れてきていた。
たいていは、午前中に歴史、語学等の勉強、そして午後は剣や乗馬の稽古。
勉強も剣も乗馬も、アンドレは思った以上に飲み込みが早かった。
元々の素質もあるが、アンドレは彼なりに影で努力をしていたのである。
知らないことを覚えていく楽しみはももちろん、早くオスカルに追いつくように。
ただし、対抗意識としてではなく、【自分がちゃんと覚えないと、主人であるオスカルに恥をかかせてしまう】という思いからであった。

この日も、いつものように午前中の勉強が終わった。
部屋を出て行こうとするアンドレにオスカルが声をかけた。
「アンドレ、今日のお昼は一緒に庭で食べないか?」
「庭で?いいけど、まだ日差しが強いよ、オスカル」
「木陰に行けば大丈夫だよ。気持ちいい風が吹いてるし。それに、もう支度してもらって
いるんだ」
そういってオスカルは大きなバスケットを指差した。
「なんかピクニックみたいだね。うん、わかった。じゃあ、おばあちゃんに言ってくる・・・
あ、そうだオスカル、おばあちゃん知らない?
朝から見ないんだけど・・・」
「えっ、ばあや?・・・あ、えっと、ちょっと用事をお願いして、それで・・・」
「ふーん、そうなんだ」
アンドレはどこかにお使いに行ったのだろうと、素直に頷いた。
実は、マロン・グラッセは朝から台所にこもって、例のお菓子作りをしていたのだ。
もちろん、アンドレには内緒で。
庭でお昼を食べるというのも、作っている途中でアンドレが台所に近づかないようにと、オスカルが考えてのことだった。

「ふーっ、お腹がいっぱいで苦しい!」
オスカルはそういってゴロッと横になった。
アンドレがはじめてジャルジェ家に来た時、剣の稽古の後に休んだ木の下に二人はいた。
「こんな風に外で食べるのって美味しいね」
「うん、そうだね、オスカル。でも、今日に限ってどうしたの?」
不思議そうにアンドレはオスカルに尋ねた。
暮らしに慣れてきたとはいえ、まだ覚えることも知らないことも多かった。
毎日が驚きと発見の連続のようなもので、アンドレは、今日が自分の誕生日ということをすっかり忘れていた。
「え、えーっと・・・朝起きたら、天気が良かったから・・・ほら、こんなにきれいな青空だし」
答えに詰まりながらオスカルが空を指差しながら言った。
アンドレが見上げると、あの日と同じように、枝や葉の間から青い空が覗いていた。

「ね、オスカル、木登りしようか?きっと木の上の方が気持ちいいよ」
アンドレはそう言うなり立ち上がり、登り始めた。
3メートルほど登ったところにある太い枝のところで、後から登ってくるオスカルのために手を差し出す。
程なくしてオスカルも登ってきて、二人並んで腰掛けた。
「本当に、今日は気持ちのいい日だね」
大きく伸びをしながらアンドレがつぶやく。
そんなアンドレを真剣な眼差しで見つめながらオスカルが言った。
「アンドレ、僕ね、アンドレが家に来てくれて良かったってすごく思うんだ」
「な、何?オスカル、いきなり・・・」
「だって、勉強も剣の稽古も一人のときより楽しいし、一人じゃこの木にも登れなかった
し・・・」
「そ、そんな事・・・」
突然のオスカルの言葉に、アンドレは嬉しいようなくすぐったいような気持ちになっていた。
「そうだ、アンドレ?今日の夜、部屋に行ってもいい?」
「僕の部屋に?用があるなら僕がオスカルの部屋に行くよ。
それに、おばあちゃんに見つかったら・・・」
「ばあやなら、大丈夫。僕が上手く言っておくから。わかった?約束だよ!」
そう言ってアンドレを見つめてニコッと笑った。
アンドレはそんなオスカルの笑顔に吸い込まれるように頷いていた。

そして、夜。
コンコン、とアンドレの部屋の扉を叩く音がした。
「アンドレ、僕だよ。入ってもいい?」
『え、オスカル、本当に来たんだ・・・。でもいったい何の用なんだろう?』
アンドレはあれこれ考えながら、急いで扉を開けた。すると、忍び込むようにオスカルが昼間のバスケットを持って部屋に入ってきた。

オスカルを見るなりアンドレはびっくりしてしまった。
「ど、どうしたのオスカル、その顔?」
アンドレが驚くのも無理はない。オスカルは口紅をさしていたのである。
「いいから、いいから。アンドレ、まずそこに座って」
そう言ってオスカルは驚いたままのアンドレを椅子に座らせた。
「オスカル、いったい何なの?」
アンドレはオスカルを見上げながら尋ねた。
「本当に忘れてるの?今日はアンドレの誕生日じゃないか。さ、目を瞑って」
「あ、そうだ、今日は8月26日だ!でも、僕の誕生日とその顔は何の関係があるの?」
「いいから、とにかく目を瞑って!」
オスカルに言われるままに、とりあえずアンドレはそっとまぶたを閉じた。
そっと肩に手が置かれ、次に柔らかいオスカルの唇がアンドレの頬に触れた。
驚いてアンドレは目を開けた。
するとそこには、はにかんだようなオスカルの笑顔があった。
「お誕生日おめでとう、アンドレ。アンドレの母上が、おめかしして年の数だけキスしてくれたって言ってたから・・・。
だから、今日は僕がアンドレの母上のかわりにキスしてあげる」

そうして、オスカルは「お誕生日おめでとう、アンドレ」を繰り返しながらアンドレにキスをした。
頬に、おでこに、鼻の頭に・・・そして、最後の9つめは唇に。
アンドレは、何も言えずにオスカルを見つめた。
そんなアンドレをオスカルは微笑んで見つめ、そして、持ってきたバスケットを渡した。
「はい、アンドレ、開けてみて?」
アンドレは、宝箱を開けるようにそうっとバスケットの蓋を開けた。
「オスカル、これ・・・!」
「それは、ばあやと僕からのプレゼント。気に入ってくれるといいんだけど・・・」
バスケットの中には、アンドレの【特別なお菓子】が山のように入っていた。
「もしかして、今日おばあちゃんを見なかったのは・・・」
「うん、僕が頼んで、アンドレに見つからないように作ってもらったの」
「ありがとう、オスカル!!」
「よかった、ずっとドキドキしてたんだ。僕の大事な友達のアンドレが、どうしたら喜んでくれるかなあって」
ほんのり頬を染めて、オスカルが言った。
「こんなに嬉しい誕生日ははじめてだよ、オスカル!」
そんなオスカルを見て、アンドレは思わず抱きしめてしまった。
「本当?ね、アンドレ、これからも友達でいてくれる?」
「あたりまえだよ、オスカル!」
『オスカルがもういいって言っても、僕はずっとオスカルのそばにいるよ!』
アンドレはそう胸の中でつぶやいていた。

それから、二人はお菓子を食べながらいろんなことをしゃべっていたが、そのうち、だんだんと眠くなり、やがてあくびが出てきた。
「オスカル、そろそろ部屋に戻った方がいいんじゃない?」
「え、何言ってるのアンドレ。今日は僕ここで寝るんだよ」
「そ、そんな、ダメだよオスカル!」
「どうして?だって誕生日の日は友達とそうして過ごしてたんでしょ?」
「うん、そうだけど・・・」
「じゃあ、決まり!」
オスカルはさっさとアンドレの寝台にもぐりこんだ。
「アンドレ、さあ、一緒に寝よう!!」
『オスカル・・・一緒に寝るって・・・僕が言ってた友達って、みんな男で・・・オスカルは女の子で・・・』
突っ立ったままのアンドレに業を煮やし、オスカルが寝台から降りてきてアンドレの手を引っ張ってゆく。
「ほら、アンドレ、早く〜」
「う、うん・・・」
逆らえないまま、結局二人で寝台に転がる。
『おばあちゃんに知れたらどうしよう・・・でも、誕生日だし・・・いい・・かなあ・・・』
 そこには、手をつないで幸せそうに眠る二人の姿があった。

                       F I N