蒼い薔薇の天使 「荷物が届いたぞ…オスカル、いるか?」 晩秋の早朝。アンドレはオスカルの姿を求めて、庭園の奥までやってきた。 視界が利かないほどではないが、辺り一面に白い靄がかかっている。足元はまるでひんやりとしたヴェールを敷いたようだ。 「ここだ、アンドレ」 オスカルは母ジャルジェ夫人が丹精込めて手入れをしている薔薇庭園にいた。 すでに薔薇の季節は過ぎ去り、華やかな花の競演は夢のあと… 「荷物だって?誰から、アンドレ」 恋人になって間もない愛しい黒髪の男に、オスカルは白磁のような肌をうっすらとさくら色に染めて笑顔を向けた。 アンドレは一瞬息を呑んだ。 恋人の見事という賛辞がこれほど似つかわしいことはないだろう黄金の髪が立ち上がった拍子にわずかだが、白い靄が流れる空間に金粉を振りまいたような気がした。 「どうした?」 オスカルがいぶかしがると 「いや、おまえの髪、すごいなと思って」 「なんだ藪から棒に。すごいって、わたしの髪そんなにぼさぼさか? これでも自分できちんとブラッシングしたのだけど…やっぱりコゼットにちゃんと梳かしてもらえばよかったか」 おきぬけの髪を丁寧に整えなかったのを恋人に見られたことをオスカルはほんの少し後悔した。 そして、好き勝手な方向に向いている部分を無理やり押さえつけようとする。 一方のアンドレはぽかんと口を開けたが、すぐに吹き出してしまった。 「違うよ。ほめているんだ、金の粉が空中に飛び散ったみたいだ。ちょっと驚くほど綺麗だな」 今度はオスカルがぽかんと口をあける番だ。 が、程なく自分でも驚くほど口ごもってしまい、 「ば、ばか!照れるじゃないか。それより何が届いたって?」 われ知らず、早口になってアンドレが自分を探しに来た本来の意図の説明を求め、火照った頬をそっと長い指で抑えた。 アンドレは満足気に恋人のしぐさを見つめていたが、促され、オスカルにそれを手渡した。 オスカルは、間もなく怪訝そうな表情を浮かべ、 「…差出人の名前がないぞ、おい」 「そうなんだ」 「そうなんだって、アンドレ」 「変だろう」 「おまえ、おかしいと思ってそのまま渡すのか」 「…そうだな。じゃあ、返してくれ」 「そういう問題か、まったく!」 軽口を叩きながらいつのまにか恋人同士は寄り添い、早朝ジャルジェ家に届いたばかりの小さな小包を2人仲良く凝視する羽目になっていた。 通常、ジャルジェ家に届けられる荷物は当然配達人が、どこの誰から、ご当家の誰それ様宛にと名乗って初めて受け取りが成立する。 軍人の家であるジャルジェ家は交友関係は決して派手ではないが、ときとして過激とも思える手紙、物騒な荷物が持ち込まれることがあった。 今でいうテロリストたちは日常品と偽って手製の爆弾などを軍人の家に届けることもあり、 うっかり召使が中身を確かめもせず主人にそれを渡してあわや大惨事となった例もある。 そうした悲しい事故を防ぐために届けられる荷物は大きさのいかんを問わず、 配達人の身元がよほど確かで信頼のおける場合でなければ、未開封のまま主人に届けられることはない。 オスカルが未開封で差出人の明記すらないことに眉をひそめたのはしごく自然なことだった。 長いまつげで縁取られた青い瞳が真剣味を帯びていく。 「で、アンドレ、配達人はなんと言ったのだ」 うん、と頷いたアンドレはゆっくりと、この得体の知れない荷物がどうやって届けられたかを話し始めた。 オスカルの瞳がまたしても大きく見開かれて行った。 今朝届けられたこの荷物はその配達そのものからして奇妙であった。 一言一言、アンドレはできるだけ自分の先入観をにじませないように言葉を選ぶ。 「子供だったんだ、配達人が。綺麗なまるで天使のような可愛い美少年」 「届けられたって今さっき?ずいぶん早起きだな、その子ども…使いに来たのならどこかの屋敷で働いているのだろうが…」 「うん。ちょうどコゼットが起きだして、正面玄関を横切ろうとしたら、その配達人がやってきたらしい」 「天使のような子供」 「まるで朝の光と一緒に天使が舞い降りたようだってさ」 「ふーん」 アンドレは朝露にぬれたベンチにオスカルが腰を降ろすのを避けたかったが、話に聞き入ってしまったオスカルはお構いなく腰掛けてしまった。 ふう〜っとため息をついてアンドレも隣に腰を降ろして話を続けた。 「お使い」に来た少年はにっこりと 「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ嬢に」 小さな拳を差し出したという。いきなり子供がグーを出したのでコゼットは面食らってしまった。 「あのね、あんたどこの子?ここはご当家の皆様がお使いになる玄関なのよ」 主人たちが使う玄関にどこかの子供が遊んでいるうちにやってきてしまったと思ったが、少年は動じる気配も見せず、「天使の微笑み」を浮かべて続けた。 「これ、オスカル様に」 広げられた小さな手のひらには小さな種が数粒、輝いていた。 それからあとのことをコゼットはまったく覚えておらず、気がついたらアンドレの目の前に立っており、いつの間にか小さな小包を彼に差し出していたという。 場所は同じ玄関前ホール、もちろんあの少年の姿はなかった。やがて朝の支度をするために降りてきたアンドレが彼女を見つけるまで、コゼットは茫然自失といった具合で立ち尽くしていた。 彼女から話を聞いたアンドレも、もちろん仰天した。 オスカルに届けられた「小さな種」はいつのまにか小さな箱に入って古ぼけた茶色紙に包まれ「小包」と化していたのだから。 動揺を抑えきれないものの、途方に暮れた表情で縋る目を向ける侍女コゼットにアンドレは持ち前の優しさと包容力を取り戻して 「小包」を受け取ると用心深くその重さを手のひらに感じた。 なるほど中身が入っていないと思われるほど、軽い。 そおっと耳に近づけて降ってみると中からさらさら…どうやらあの「種」がいるらしい。 あまりに奇妙な早朝の出来事に当のコゼットは 「わたし、お化けでも見たのかしら!」 華奢な体をぶるぶると震わせてしまっている。 コゼットを落ち着かせるためにアンドレはわざと陽気に言った。 「大丈夫さ。まさかこの重さじゃ爆弾は作れないだろ。俺にまかせて、コゼット」 ちょうどそこへ通りかかった口の堅いことで女中たちの信頼を集めている年配のミレーヌにコゼットを任せてアンドレは庭園に駆け出した。 もちろん早朝のオスカルがここにいることは、昨夜遅く恋人同士の語らいで知っていたから…。 「不思議な話だ」 話し終わったアンドレに、オスカルも動揺を隠せない。 しかしながら、受け取った当事者ではないから恐怖に身を震わせるまでは至らない。 慎重にあちこちを調べてみたが、どこといって手がかりになるような箇所も見当たらない。眉をひそめてアンドレに 「種が入っている…のかな、やっぱり」 途方に暮れても仕方がないのだが、それしか言いようがなかった。 アンドレは頷くとオスカルの手の中にある小包をとんとんと長い指で小突いた。 さーっ… さーっ… 「10粒ぐらいかな」 「だろうな。小さな、植物の種のようだ」 オスカルは頷いた。 「そう思うだろう」 アンドレはどうしてもコゼットの話が作りごととは思えなかった。 なぜならコゼットの紺色のブラウスの袖に金髪の小さな巻き毛が一筋ついていたのだ。 コゼットは見事なブルネット。お屋敷には金髪の侍女も数人いたが、この巻き毛はよく見ると子供のそれらしい。 こんな柔らかな髪の毛、まるで赤ちゃんじゃないか…いや、少年だ、少年だ。 お屋敷は金髪の赤ちゃんはおろか少年だっていやしない。 召使いたちの子供は召使棟で親たちと仲良く暮らしているが、これだけ見事な金髪の子は現在どこを見渡してもいない。 ちなみにコゼットは独身で子持ちでもない。同室のジェルメーヌも同じくだ。 アンドレはゆっくりと自分の推論をオスカルに話して聞かせた。 恋人の落ち着いたはなし方はオスカルの心を落ち着かせてくれる。 と同時にオスカルはこの「種」が自分にとってなにかとても大切なものに違いないという気がしてきた。 わけはわからないのだが。 アンドレはアンドレで、常識で考えれば「不審」以外の何ものでもない「小包」の真偽を確かめもせず、オスカルに持ってきたことに実はものすごく驚きを感じていた。 しかし、コゼットから受け取った瞬間から、オスカルにこれを渡さなくてはいけないという衝動に駆られていたのだ。 わけはわからないのだが。 恋人同士はお互いに不思議な感覚を内に感じていたが、さすがにそれを口にするのはためらわれ、互いにしごく真剣な表情を保ち続けた。 そして、オスカルは少し考えてからわざと真面目な表情を作り、ゆっくりとつぶやいてみた。 「天使が舞い降りて神様からのプレゼントをわたしに届けてくれたのかな」 アンドレが笑うと思った。だが彼は 「おまえもそう思うのか」 自分をやや眩しそうな表情で見つめているだけだ。意外な反応にオスカルは少しだけ勇気を得た気がして思い切って続ける。 「アンドレ、おまえも?」 「ああ」 恋人同士はお互いの瞳を初めて見るかのように凝視して、次に笑い出した。 「気があったな」 「まったくだ」 「…あけてみようか」 「…そうしようか」 オスカルは頷く。それを確認して、アンドレは用心深く、茶色紙を開いた。 古ぼけた紙箱が顔を出す。 とくに封印もしていないようだ。 「行くぞ」 「ああ」 オスカルはアンドレの指先をじっと見つめる…。 中からはやはり数粒の小さな種が出てきた。 「見せて…」 オスカルは吸い込まれるように白い両手を差し出した。 アンドレは慎重に長い指先で幾粒かをつまみあげ、オスカルの手のひらに乗せてやった。 「何の種だろう、おまえわかるか?」 「いや、残念ながら」 「庭師に聞いてみよう、いや、その前に母上だ」 「奥様は明日までジョゼフィーヌ様のところにおでかけだよオスカル」 「あ…そうだった」 庭いじりが大好きで植物への造詣も深い母ジャルジェ夫人にすぐに尋ねられないなんて、とオスカルはため息をつく。 ひさしぶりの休日、母の顔を見られないのはやはり寂しい。 オスカルの寂しさを感じ取ったアンドレは気を引き立たせるように優しく言った。 「お帰りになる前に調べておくのはどうだ?庭師におれが聞いておくよ」 アンドレはいたすらっぽい笑いで恋人の顔を覗き込む。 「母上がお帰りになったらコゼットの不思議な体験と一緒にご報告できるかな」 自分のこどもっぽい寂寥感をアンドレに見抜かれたことに気がついたオスカルは、照れ隠しのため早口で言った。 アンドレは大きく頷くと、オスカルの手のひらにあった数粒を慎重にあの箱に戻し、やさしく促して立ち上がらせた。 丁寧にふたを閉め、茶色紙で包みなおすと 「あ、どうするのだ」 アンドレが小包をベンチに置いてしまったのでオスカルはきょとんとした。 数粒しかない種が入っている今にも壊れそうな箱を秋風が運んで行ってしまわないか、にわかに不安になって手を伸ばそうとした。 しかし、アンドレはしっかりとオスカルの前に立ちふさがり、その華奢なからだを抱き寄せていた。 「こうするんだと言ったら?」 「ばか…」 アンドレの黒曜石の瞳がオスカルの蒼の湖の瞳を見下ろしていた。ゆっくりと黒い瞳に吸い込まれ… くちづけを交し合う恋人たちを初秋の朝靄がやさしく取り巻いていた。 ……ぷつん…。 アンドレの胸に顔をうずめていたオスカルは自分の手のひらにひとつだけ張り付いたまま、 箱に移動できなかった「種」が地面に落下したのにもちろん気がつかなかった。 午後。 オスカルは図書室で、アンドレがやってくるのを待っていた。 仲良く休みを取れたとはいえ、アンドレは屋敷に戻れば、隊とは別の仕事が待っている。 朝からオスカルは、恋人同士になって間もない彼とのはじめての休日に、屋敷での仕事ができるだけ彼を遠ざけないことを祈っていた。が、現実は甘くはなかった。 朝食を終えたあと、アンドレはオスカルがほかの召使いが行き来する廊下で、無言の抗議のまなざしをむけるのに苦笑いを浮かべて応えていた。 「ロベールの奴が腰をいためているらしい。そろそろ薪を蓄えておかないといけないからやってくるよ」 「…」 侍女たちが意味ありげな視線を2人に送っているのに彼はとっくに気が付いている。 長年同じ屋敷にいて2人の変化に気がつかない奴はよほどの新参者か鈍感である。 残念なことに鈍感で気がつかない奴は主人棟では仕事は与えられない。 というわけでアンドレはオスカルと侍女たちの視線からなるべく早く逃げたかった。 「午前中には終わりそうだから。旦那様がおまえも読むだろうって武器史をつづった本を置いていってくださってるぞ」 「じゃあ図書室にいる」 「うん、そうしろ」 くるりと踵を返して去っていく恋人を恨めしそうににらみつけるオスカルは、その背中に侍女たちの同情と慈しみがいっぱいこもった視線が向けられているのにまったく気がつかなかった。 しかし父が置いていってくれた本は面白かった。 図書室の一番奥、やわらかい日差しがゆっくりと降りてくるあたりに、ジャルジェ将軍とオスカル愛用の長椅子がある。 そこに腰掛けて好きな蔵書の世界に飛ぶのがこの親子共通の楽しみの一つであった。 オスカルは侍女に頼んで昼食も図書室に運んでもらい、アンドレが来るまで引き続き読書を楽しむことにしたが、食器を侍女が下げた頃、やっとアンドレが顔を出した。 オスカルの頬にぱっと紅がさした瞬間を目ざとく見てとった侍女は、 <やさしくしておあげなさいよ!> アンドレに命令を含んだ笑顔を向けるとウィンクをして出て行った。 またしても…アンドレは苦笑いをして見送ると、自分を待ちかねて今にも椅子から飛び出してきそうな恋人を振り返った。 「遅いぞ…」 我慢できずにオスカルはアンドレの胸に飛び込んで行った。 アンドレはときめきと感動を胸いっぱいに感じながら、黄金の髪が自分に向かってくるのを大きく両手を広げて受け止めた。 「オスカルはどうしていますか」 ジャルジェ夫人はその日の夕方、出迎えた執事ラズロに休日をすごしているはずの末娘の様子を尋ねた。 午前中、夫人は長女ジョゼフィーヌの嫁ぎ先の伯爵家にいた。 急にオスカルが休みを取れたらしい、それもアンドレと一緒にとジャルジェ将軍からの使いで耳にした夫人に、ジョゼフィーヌはそばを走り回る息子たちを叱りながら 「おかあさま、おうちに帰りたいのじゃなくって?」 笑顔で帰宅を促してくれた。ジャルジェ将軍は国王陛下の御前会議でヴェルサイユ宮殿に詰めきりであるが、妻が激務に追われる末娘とろくに顔を合わせられず心配を募らせていることを知っていた。 孫たちに会いに長女の嫁ぎ先に泊っているところへ使いを出すのは気が引けないでもなかったが、すでに滞在は数日を数えている。オスカルの休日はたったの二日間だった。 「おとうさまもねえ、本当ならおうちにいたいでしょうにね」 「そうでしょうね、それはもう…」 長女の思いやりを嬉しく感じながら、夫人は娘に負けず劣らず忙しい夫の顔を思い浮かべて微笑んだ。 「おとうさまにきちんとオスカルの様子を伝えないといけないのじゃなくて」 なおも帰宅を勧める娘に夫人は頷いた。 「ありがとうジョゼフィーヌ、じゃあ一日早いけれど帰らせていただくわ」 「そうなさいませ」 ジョゼフィーヌは侍女に夫人の荷造りを頼むと、母の支度を手伝った。 「アンドレも一緒にお休みをいただけたなんて素敵だわ」 「そうね、最高のお休みじゃないかしら」 夫人は最近とみに美しさをました末娘の面影を思い出して思わず微笑んだ。ジョゼフィーヌも一緒に頷いていた。 「オスカルさまは図書室にこもっておられましたが、今は薔薇庭園の方にアンドレと一緒に」 ラズロは柔和な表情で礼儀正しく女主人に奏上する。 「そうアンドレも一緒に。じゃあ、お邪魔するのは悪いわね」 夫人がいたずらっぽく返したのでラズロは面食った顔をどう繕うべきか、少々窮地に立たされてしまう。 真面目律儀な執事をあまり困らせては気の毒というものだ。さも自然な風を装って、こう付け加えるのを忘れない。 「でもそろそろお茶の時間ね、ふたりを呼びに行くぐらい、いいかしら」 やはり末娘の顔が見たくてたまらないのだろう。 夫人の言葉にラズロはほっと一安心するのだった。 アンドレとともに薔薇庭園のあの場所にいたオスカルは母の姿を見つけて驚きの声をあげた。 「母上!」 「ただいま。オスカル、アンドレもご苦労さま」 ジャルジェ夫人はまずアンドレをねぎらう。地面にひざをついていたアンドレは慌てて立ち上がると、従僕服についた土をパンパンと払い、頭を下げた。 「お帰りなさいませ」 「明日お戻りかと思っていました」 夫人は末娘が連日の激務でやつれていないか心配でもあったのだが、思ったより血行もよく、何より屈託のない穏やかな表情に胸を撫で下ろしながら、 「あなたが急にお休みを取ったと、おとうさまが知らせてくださったのですよ」 「それで早くおもどりになられたのですね…」 「ところで2人して何をしていたの?お邪魔じゃなかったわよね?」 突然の母の突っ込みにオスカルは言葉を失った。実は先ほどから胸のうちはかなり動揺していたのだ。 もちろんアンドレと、抱き合いこそしていなかったが2人して額を付き合わせんばかりに地面を覗き込んでいたのである。 誤解されてはたまらない、と思いながら動揺はなかなか収まらない。 夫人は娘の表情、しぐさのひとつひとつにこれまでになかった匂いたつようなみずみずしい女性らしさが溢れているのを感じた。 後ろに控えたアンドレの方にほんの少し体を向けているオスカル。 2人の間に横たわる甘い切なくなるような空間の暖かさに夫人は紛れもなく娘とその従僕がまぎれもなく愛し合っているのだと感じた。 だが、それを口にしては不器用な娘がかわいそうである。 「アンドレ、あなたも今日はゆっくり休んでいますか」 「おそれいります。オスカルさまとこちらのお花の様子を見に来ておりました」 「お花の?」 夫人がいぶかしがるのをオスカルとアンドレは共に頷きながら受け止めて、 「母上、ちょっと見ていただきたいものがあります。よろしいですか?この薔薇…狂い咲きではないかって今アンドレと心配をしていたのです」 「何ですって」 娘のただならぬ発言に夫人は仰天し、娘の指差す方向に投げなく目を遣り、次の瞬間言葉を失ってしまった。 そこには季節外れの狂い咲きとしかいいようのない光景がでんといすわっていた。 周りの薔薇たちはそのシーズンを終えて眠りに入っているというのに、一つだけ蕾を灯している枝がある。 「白い、いえ、蒼い、薔薇の花?」 夫人の声がわずかだがひっくりかえってしまっても無理はない。その蕾は薄ぼんやりとではあるが蒼に染まっていたのである。 「蒼い薔薇の花は薔薇作りたちの永遠の課題、憧れなのですよ」 気を取り直した夫人はゆっくりとその蒼い蕾に近づきそおっと覗き込んでいた。 「こんな季節外れに…よく見つけましたね、あなたたち」 末娘とその従僕を振り返って夫人は素直に感心の表情を見せた。 オスカルは自分より頭一つ高いところにあるアンドレの黒曜石の瞳を見上げ、彼が頷くのを確認したあと、ゆっくりとことの顛末を話し始めた。 午後のひと時、図書館の中は思ったより日差しが強くなったため、やや暑く感じた。それで風を入れようとガラス扉を開け放った。 オスカルはアンドレを伴い、涼を得ようとバルコンに出た。そして何とはなしに薔薇庭園のほうを見やったのだ。 春の終わりから初夏にかけて競うように咲き誇っていた薔薇たちはすっかり枯れてしまっている、はずだった。 ところが、オスカルは見たのだ。ずっとずっと遠くの方に白い小さな薔薇が咲いているのを。それも一輪だけ。 「アンドレ、今朝の場所じゃないか、あれ」 「え?何が」 「白い薔薇が咲いているぞ」 「まさか。今頃薔薇が咲くものか。え?」 「わたしは嘘は言っていない」 「謝る…ああ、でも本当にあれは薔薇の花なのか?」 黙りこくること数秒、次の瞬間2人は脱兎のごとく図書館を飛び出していた。 「そして見つけたのがこれなんです」 オスカルの説明に夫人はほうっとため息をついてまたあの蕾を見つめている。 アンドレがそれを受けて続けた。 「あの遠い距離からわたしもオスカルさまもなぜかこの一輪を見つけることができた。 遠めでは白い薔薇に見えたのですが、実際来て見ると、このように小さな蒼い薔薇の蕾でした」 「信じられないことですが、事実ですね…しかしたら蒼い花を咲かせるかも…」 薔薇作りに造詣の深い夫人はこれまでもその道の名人たちが挑戦し幾度も敗れ去った蒼い薔薇を咲かせる試みを知っていた。 限りなく蒼に近い白い薔薇なら夫人にも覚えがある。また青紫に近いそれも…だが、この白い蕾は遠目にはそうでも近くでは薄い蒼そのものだった。 オスカルは母に今朝の不思議な出来事を話すか話すまいか迷っていた。それで後ろに控える恋人を振り返ってみることにした。 <ちょっと待てオスカル> アンドレは目配せを返した。 「奥様、庭師の誰かをここに呼んで参りましょうか」 より専門的な知識のある人間の見解を問うてはどうか提案した。夫人もそれをもっともなことだと思ったが、 「それがみんな今日は出かけているのですよ。領地の屋敷の手入れの手伝いに行ってもらっているの。戻るのは早くて明日のはずです」 専門家の登場を期待できないと知ってアンドレは落胆した。 「ごめんなさいね、アンドレ」 「いえ、滅相もございません。わたしこそみなの都合を把握もせず、申し訳ありません」 「いいのよ、あなたも毎日忙しかったでしょう」 母が自分と同様、親身になってアンドレの身を気遣ってくれることに、オスカルは若干の照れと感謝を感じた。 <母上、ありがとうございます…> その夜のオスカルの部屋。 「ね、アンドレ…」 恋人同士の夜は早い。あのあと不思議な蒼い薔薇の蕾に後ろ髪を引かれながらも 「明日もう一度様子を見に参りましょう。ほころんでいるかもしれないから」 母の提案に従い、アンドレとともに屋敷に戻ったオスカルは、晩餐にかけては母と一緒にすごした。 これまでの休暇ならなら夕食を採ったあと、母の居間でヴァイオリンを披露したりしていたが、今日は夫人の 「お出かけで疲れたみたい。先に休ませていただくわねオスカル」 の一言で自室に戻って来た。 もちろんアンドレがころあいを見計らってショコラ持参で顔を出したのは言うまでもない。 2人のお気に入りのラブ・チェアに腰掛けすごし、恋人と過ごす久しぶりの休日にオスカルは幸せをかみ締めていた。 なんとはなしに、母には今朝のできごとを話すことはできなかった。とはいえ、夫人もあの不思議な蕾にはいたく心を惹かれるらしく、お休みの抱擁を娘に与えながら 「明日の朝は様子を見に行かないとね」 いたずらっぽく笑った。 夜更けのオスカルの部屋。長椅子に越しかけて、オスカルはアンドレの胸に頬を預けたまま不思議な出来事に思いを巡らしていた。 「不思議なことがふたつ。面白い休日になったな」 「……」 「その子供、何だったんだろう」 オスカルのといかけにアンドレは目を閉じたまま答えなかった。 「アンドレ?」 疲れて寝てしまったかと自分を支えている彼を見上げたが、そうではなかった。まぶたは閉じているが、かすかに眉間に皺が寄っている。 <どこでだったか…> アンドレはオスカルに問われる前から、コゼットが目撃したという少年のことを考えていたのだ。 コゼットの紺色のブラウスについていたやわらかい金の巻き毛。どこかで見た気がするのだ。遠い昔などではなく、たしかつい先日…それも日常のどこかで。 「アンドレ、天使みたいな子だって、わたしも見たかったな。おまえも会っていないのだろう?」 アンドレが寝てしまったのではないことに安心して、オスカルは少し興奮気味に話し続けている。 恋人の肩を抱き、そのぬくもりを心地よく肌に感じながらアンドレは忙しく思考をめぐらし続けていた。 <天使?はっ、そうだ!> アンドレの脳裏に閃くものがあった。 「オスカル。図書室だ!」 「え?」 オスカルがいぶかしがる隙もなかった。アンドレはオスカルの肩を抱いたままあわただしくたちがあがると、優しくではあるがやや強引にその細い手首を引っ張って廊下に出ていた。 図書室に飛び込んだアンドレはジャルジェ将軍愛用の机の端に積まれた何冊かの書物の中から古びた一冊を取り出した。 「これだよオスカル」 数日前、アンドレはジャルジェ将軍に届けられた数冊の書物をこの机に運んでいた。 愛読書の世界にふけっていたジャルジェ将軍は 「すまんなアンドレ」 嬉しそうに新しい本たちを受け取った。それらは将軍が懇意にしている旧友の一人が面白いからとジャルジェ家に送ってくれたものだった。 その中の一冊がオスカルも没頭した武器史をつづったものである。次の日からヴェルサイユ宮に詰めきりになることがわかっていた将軍はアンドレに 「本棚に納めなくてもいい。このまま置いておこう。オスカルに新しいのはここにあると伝えておいてくれ」 と、伝言を頼んだのだ。読書好きな親子の交流にアンドレは心温まるものを感じて一礼して下がろうとした。そのとき、そのうちの一冊の表紙絵が目に留まった。 それは見たこともない宗教画であった。アンドレは美術品には造詣が深いほうではないが、絵を見ることじたいは好きである。 その絵にはひとりの天使が描かれていた。お日様の光をそのまま集めたような金の巻き毛に薔薇色の頬をした可愛い天使が何かを手に持ってこちらに差し出している。 天使が持っていたもの。それは一輪の蒼い薔薇の花であった。 「蒼い薔薇、珍しい構図ですね」 アンドレは軽い驚きを抑えきれなかった。ジャルジェ将軍は、ん?という顔で覗き込んだが同様に驚いた表情を浮かべた。 「はて、これは何の本だろう」 困惑の語調にアンドレは言葉にこそ出さないがさらに驚いていた。 「だんな様あてのご本ではなかったのでしょうか」 別のものが荷物に紛れ込んでしまったのか。送り主が誤って自分の本を発送していたとしたら急いでお届けしなくてはならない。 アンドレの心配をよそに将軍はぱらぱらと頁を送って、 「ふむ、わが友が誤って送ってしまったらしいな。ラテン語でなにやら昔話がつづってある」 「昔話、ですか」 「オスカルなら簡単に読破しそうだが…まあいい。近いうちに彼に会うからわたしから直接返しておこう」 誤発送されたその本はそのまま将軍の机に置かれることになったのだ。 「昔話か…なるほど」 アンドレの話を聞きながらオスカルは表紙をじっと見つめていたた。彼のいうとおり、ひとりの天使がまっすぐこちらにむかって蒼い薔薇の花を差し出していた。 アンドレのいうとおりだ。コゼットが体験した不思議な出来事、母も一緒に確認した同じく不思議な出来事とあまりにも合致するような表紙絵ではないか。 しかし驚くのはまだ早かった。 「ん…?アンドレ、おまえタイトルを読んでみたか?」 「いや。ラテン語の勉強、俺は逃げまわっていたからね」 未来の従僕として育てられていた少年時代のアンドレはオスカルが師から学んだばかりのラテン語を教えてやろうとおいかけてくるのをいつもかわしていたのだ。 英語、ドイツ語などの教育は受けさせてもらったラテン語までは従僕教育にはなかったし、ほかに山ほど覚えなければいけない事柄が彼を待っていた。 むくれるオスカルに、母ジャルジェ夫人はアンドレはほかの勉強が忙しいのだからと窘められてあきらめた経緯がある。 そのことを思い出してオスカルはぷっと吹き出してしまった。 「笑うな!おまえは怖い先生だったんだぞ」 アンドレは抗議する。 「あっはっは…すまない、そうだったな」 「笑っていないでこのタイトルの意味を教えてくれ」 アンドレが本格的に機嫌を害しては困る。オスカルは慌てて 「蒼い薔薇を手にするもの 神に愛でられた恋人たち」 ラテン語の意味は昔話には似つかわしくないものだった。 アンドレをひっぱって長椅子に腰掛けさせ、自分も隣に座るとオスカルは本文に目を通した。 「…昔話だな。蒼い薔薇は神の園にしか咲きませんでした…神様はこよなくこの花を愛でられておられました…」 「って語り口調で書いてあるのか」 「ああ」 拾い読みを進めて行った結果、第一章として書かれていた内容は、天の園で蒼い薔薇を愛でていた神様の眼を盗んで天使のひとりがいたずら心を起こして薔薇の種を地上に落としてしまった顛末が書かれていた。 「薔薇って苗で植えるのではないか?」 アンドレが素朴な疑問を口にする。 「原種は、どうなんだろう」 より専門的な疑問を口にする恋人の言葉をさえぎってオスカルは大まかな内容を話して聞かせた。 地上では育ててはならない蒼い薔薇を持っていってしまった神様は激怒して天使におしおきをした。 蒼い薔薇を人間の眼に触れぬうちに天に戻しなさい。誰かに見られたらおまえはもう二度と天の園には帰ることはできないぞ。 薔薇に負けないぐらい青くなった天使は地上に直行、蒼い薔薇の種の行方を必死になって探した。 だが、そのとき地上は夜の闇。朝の光が指すまで待って待って待ち続け、日の光が射すと同時に捜索を開始。あった、見つけた! …が時すでに遅し。種の落ちたところには地上ではありえない凄まじい成長力を発揮して蒼い花びらを開いた蒼い薔薇が。 そしてあっけに取られてそれを見つめる村娘の姿があった。 オーマイゴッド、と言ったかどうかは知らないが、天使は焦った。 神様との約束その2として「決して人間に姿を見られてはならぬ」という条項が含まれていたが彼はただ、蒼い薔薇奪還だけに集中していた。 すでにひとりに目撃されていたのだから神様との約束は確実に破っていたのだが、幼い天使はただただ、 「早くどこかへ行って!僕、神様のところに帰りたいんだよ!」 自分勝手な思いでじたばたしていたのである。執念が伝わったのかやがて娘は走り去った。やれやれ…と喜んだのもつかの間、 「こっちよ!こっちよ!」 娘は自分の恋人を連れて戻って来てしまった。 娘が連れてきたのは花づくりを志す婚約者の青年だった。見たこともない蒼い薔薇に青年は狂喜した。 なぜなら2人は結婚を近いながらも、修行見習いの彼との結婚に娘の父親は頑として首を立てに振らなかったのだ。 一人前の仕事を見つけなければ娘はほかの男に嫁がされてしまう。心から娘を愛していた彼はなんとか花づくりで成功して許しをもらいたかった。 ちょうどそのとき、領主様のお屋敷で花づくりが好きな奥方主催による花づくりコンテストが催されることになった。 名前を挙げる千載一遇のチャンスかもしれないと彼は準備に奔走していた。 だがどうしても思ったようにことは運ばず、自分で納得のできる品種を開発するには至っていなかった。 彼の苦悩を知っていた娘は偶然見つけた蒼い薔薇を見せ、コンテストに出してはどうかと薦めたのであった。 「やめてよそれ僕のだよ!」 木の陰から成り行きを見守っていた天使は娘に負けず劣らず自分勝手な反論をしていた(くどいようだがあくまで神様のものである=蒼い薔薇)。 しかし天使の念は通じず、若者と娘は慎重に蒼い薔薇を根ごと持ち去ってしまった。 コンテストの当日、娘は反対を続ける父親を若者の家に連れて行った。 父親もまだ誰も作ったことのない蒼い薔薇を若者が開発した(という展開にされたのは成り行き上仕方のないことだろう)と聞いて驚いた。 これはもしかして大発明ではないのか! 「お父さん見て!」 蹴破らんばかりに若者の家のドアを開け、娘は父親を中に押し込んだ。そこには蒼い薔薇が…なかった。 粗末なテーブルの上にあったのは平凡なただの白い薔薇の花だった。その前には呆然と立ち尽くす青年。 実は天使はこのときとばかり超強烈な念を送って蒼い薔薇を白薔薇に変えてしまったのだ。 「いくら子供だって勝手すぎるなあ」 オスカルの肩を抱きながらアンドレは憤慨していた。 「蒼い薔薇を結婚祝いにプレゼントしてやればいいのに」 彼は自分とオスカルが引き離されたかのように怒っている。オスカルはすぐそばでプンプン腹を立てている恋人を見上げて笑いを禁じえない。 「まあ待て。続きがあるから。聞け、アンドレ!」 「はいはい…悲劇で終わったのか?」 「いや」 白い薔薇を見せ付けられて激怒した父親は同じく呆然としている娘の手を引っ張り若者に向かっては娘に会うことは二度とまかりならん!捨て台詞とともに帰っていった。 こうして恋人同士は完全に仲を引き裂かれてしまった。 最愛の人を失って若者がどうしたか。やけ酒をくらってコンテスト欠場を決め込むのも一つの手であったかもしれないが、彼はそれを潔しとはしなかった。 <もとから僕が作ったものじゃなかったんだ。人様が作った薔薇を自分の作品として出場しようなんてそれこそ恥ずかしい所業だった> 彼は自分が丹精して育てていた中から、あの蒼い薔薇によく似た形の白薔薇を選んでコンテストに出場した。 決して目を引く傑作ではなかったが、心を込めて慈しみ育てた薔薇は見る人の心を癒す不思議な魅力を放っていた。 それが領主夫人の目にとまり、優勝こそ逃したが領主館の庭師の仕事を与えられ、新しい品種の改良にも着手するチャンスを与えられた。 風の便りに娘がどこぞの羽振りのいい男と婚約したと聞いたが、彼は仕事に没頭することで苦しみを和らげた。 一年、また一年と時がすぎ、若者は腕のいい庭師として確実に名声を得ていた。他の領主から引き抜きの声がかかるほどの腕前だった。 若者は決して妻を娶らず、ひたすら仕事に没頭した。そして領主夫妻のためだけではなく、領民が誰でも美しい花花を愛でることができないか考えた末、 自分のたくわえを叩いて領内のあちこちの広場に美しい花壇を作って行った。領主夫人が深い理解のある人だったことが幸いしていた。 さらに時がすぎ、老年に達した彼は病の床についた。家族を持たなかった彼を見舞うものは少ない。理解ある慈悲深い領主夫人の生前は彼女に阿る人々が彼をもてはやしたものだが、夫人の逝去とともに去っていった。いよいよ神様の元に旅立つときが近づいてきたとき、粗末な彼の家を訪ねたものがあった。 「あんたは…」 「やっと会えました」 それはあの娘だった。娘は結婚していなかったのだ。心なくも婚約寸前までまで行った相手から逃れるために、彼女は修道院に行くことで拒絶した。 さしもの父親も自分以上に頑固な娘にあきらめざるをえなかった。 修道院生活の中で彼女は下働きの仕事をしながら風の便りに若者の活躍を聞いていた。 もう二度と会うこともかなわない恋人を忘れることができずに。 ある日院長様の頼みで町に出た彼女を待っていたのは若者が病の床に付しているという噂だった。たまらず彼の家を訪ねてしまった。 月日がお互いの姿を残酷なほど変えてはいたが、お互いの思いが変わらぬことを知った2人だがもう時間は残されていなかった。 死の床で彼は一番愛した白薔薇の鉢を娘に贈った。 忌まわしい思い出のある白い薔薇をこれまで彼女は避けがちになっていたが、 「見てごらん。神様はなんて素晴らしいものを地上にお遣わしになったのだろう」 若者の言葉には神に対する心からの感謝で溢れていた。娘も涙を流しながら頷いて神に感謝の気持ちをささげた。 そのとき。 「あ…」 「まあ…」 2人は異口同音に声を上げた。なぜなら。たった今まで白い光を放っていた美しい白薔薇が見るも鮮やかな薄い蒼い色に姿を変えたのである! 蒼い薔薇。遠い昔たった一度だけ2人で見つめたあの蒼い薔薇がそこにいた。 「天使のしわざか…」 アンドレに見つめられてオスカルはゆっくりと首を振った。 「いいや。神様からのプレゼントだ」 「なんだって。じゃあ神様は蒼い薔薇を地上にお遣わしになったのか」 「ああ。たった一瞬だけ…彼は」 「そのまま、天の園に旅立って行ったのだな」 オスカルは静かに頷いた。 あのいたずらな天使は若者と娘が年老いて行く間、ずっと地上で見守っていたのだ。 さしもの天使も自分のいたずらで愛し合う2人が引き裂かれたことで心をゆすぶられた。 天の園から神様が 「十分反省をしたのだったら戻ってくるがよい」 何度もお声をかけたのだが、2人を見守り続けた。自分には何もできない。ただ見守ることしか…。長い年月、天使はいつも彼の、彼女のそばにいた。 そしてそれは2人の真実の愛を知る時間でもあった。若者が死の床についたとき、天上から2人と天使を見守っていた神様は天使にこう問われた。 「おまえは2人から何を学んだ」 天使は答えた。 「神様の愛は地上で花を咲かせたのです。神様の愛を2人はわたしに確信させてくれました」 いよいよ若者を自分のもとに呼び寄せるときが来たとき。神様は蒼い薔薇をもう一度2人の前に遣わされたのだ。 「真実の愛はおまえたちのもの。蒼い薔薇が教えてくれた真実の愛よ、今こそわたしのもとに戻ってきなさい…」 「真実の愛、か…」 アンドレは深いため息とともにつぶやいた。オスカルは彼の肩に頭を預けながら、 <真実の愛> と繰り返していた。 深夜の寝室。 図書室から戻ったオスカルはアンドレが自分の部屋へ引き取るのを許せなかった。 それは彼自身も望むことではあったが、屋敷の者に悟られずに朝まで過ごすのは気がとがめないでもない。 しかし、自分だけした見えないといった様子で甘えるオスカルに、アンドレの決心は鈍ってしまった。 そして…。 オスカルはアンドレの胸に頬を寄せて目を閉じていた。 愛の嵐が過ぎ去ったとき、いつも彼女は自分がとても小さく心細い存在のような不安に駆られる。 それは慣れていない愛の世界への戸惑いなのかそれとも… 人間はひとりで生まれひとりで神のもとに戻っていくものである。 いつか読んだ本に記された一文が時折彼女を襲う。アンドレと一緒にいるときはでさえふっと頭をよぎる。 <なぜ?こんなにもわたしは満たされ、愛を感じているのに> アンドレを恋し、焦がれる自分は日増しに暴走して行くようで怖いと思うこともある。 愛におぼれるという言葉があるが、オスカルは素直にそれに浸ることができないでいた。 どこまで彼を愛して行くのか、自分はどうなってしまうのか…コントロールできない感情に足元をすくわれそうで怖い。 アンドレ、わたしをつかまえていて。どこへも行かないで。 その思いでさらに彼を愛して行ってしまう… アンドレは時折恋人が不安に刈られていることを知っていた。 オスカル以外の女性を愛したことがなかったが、恋愛関係を結んだ女性が不安定になることは屋敷の召使仲間たちを見ていてなんとなくわかっていた。 <女ってやつは難しい生き物さね。さっきまで縋っていたくせに急に黙りこくってよ> <どうしたんだって聞いたら俺を愛してる自分に不安になるんだと。手がつけられないさね、まったく> <ま、そこが可愛いんだけどな、俺も…> 同僚たちののろけとも取れる告白に、 <不安になる…愛し愛される自分に?オスカルもいつか誰かを愛して、そして愛されたときそんな風に戸惑うことがあるのだろうか> 思わずはっとしたことがある。そのときのオスカルは北欧の貴公子に仄かな憧れを感じ始めた時期だった。 オスカルが<愛して、そして愛される>ことはなかった。しかしいつ他の誰かにオスカルが再び心惹かれないとも限らない。 なぜならオスカルの瞳には自分は異性として映ってはいないから…自分はオスカルにとっては同性の親友と同じ、心を許してくれてはいても、愛の対象としては見てくれない。愛すれば愛するほどその確信が強くなる日々に狂いそうになることもあった。 一度は激情に駆られ、強引に気持ちをぶつけてしまった。戸惑い、怯え、泣き叫んだオスカル。 <おまえはおれを愛してはくれない。やはりそうか…> 残酷な現実だが、受け止めるしかなかった。 しかしオスカルを忘れることなどできはしない。一度破った掟は二度と破らぬ。アンドレは自らに誓った。 守ってやるんだ、命の尽きるまで…。 かつての部下との結婚話が持ち上がりオスカルが揺れ動いている間、決して走ってはならない衝動に負けそうになったこともあるが、 <生きているその姿こそ愛しい。俺は生きて、死ぬまでオスカルを守る> 悪魔の誘惑を退け、踏みとどまった。 結婚話に決着をつけ、自分との日々を取り戻してくれたオスカルをアンドレはそれまで以上に大切にそして優しく支えて行った。決して自分を振り返ってくれることなどなくても。 長い時がすぎ、今オスカルは自分を愛しているという。 オスカルの告白を驚愕とともに受け止め、 「愛している。生まれてきてよかった」 生涯ただひとりおまえだけだ、の言葉とともに抱きしめたあの日から、2人は恋人同士として新しい世界を築き始めた。 オスカルの戸惑い。それに気がついたとき、アンドレ自身、それが何に起因することなのかわからず、戸惑ったことはたしかだ。 男と女の心の世界の違いなのか。それとも自分の愛し方が足りないのか。いったいどうすればオスカルの戸惑いをぬぐってやれる? 抱きしめて口付けて、 「ずっとそばにいる。安心しろ」 囁き続けて…なおも縋るオスカルによりいっそう愛しさが募るが、自分を愛していることに戸惑っている姿に、自分はただ黙って受け止めてやることしかできない…。 今夜も嵐が過ぎ去ったあと自分の胸に縋りつくオスカルをアンドレは力強く何度も抱きしめた。 「おまえが、戸惑わなくなるまでここで待っている。オスカル、おれを信じてくれ…」 自分の愛を疑っているわけでもないのに、<信じてくれ>という言葉を使わざるを得ないアンドレであった。 お互いを抱きしめたまま2人は眠りの世界へと落ちて行く。 明け方の光がほんの少し射してきた。アンドレとオスカルは同時に目を覚ました。 <カーテンがしまっていなかったか…?> アンドレはオスカルを起こさないように背中に回した腕をそっと引こうとして 「起きていたのか」 オスカルの蒼い瞳が自分を見つめているのに気がついた。 「おはよう、アンドレ」 自分たちが生まれたばかりの姿のままでいることにオスカルは頬を赤く染めて恥ずかしそうにしている。 愛しさがこみ上げてきてもう一度抱きしめなおすと 「苦しい、アンドレ」 笑いながらオスカルが抗議する。 「すまない」 アンドレも笑いながら腕を緩めてやり、さくらんぼのような唇にそっと口付けを落とした。 幸せに満たされながら、オスカルの脳裏にはあの薔薇の蕾のことがよみがえってきた。 「あの薔薇のところへ行きたい」 「そろそろみんなが起きるぞ…」 「アンドレ、見つかったら困るか?」 「…いや。俺も見に行きたい」 「ふっふ…気があったな」 オスカルの声が明るさと強さを取り戻しているのに、アンドレはほっとひと安心である。 だが、そろそろ早起きの召使が活動を始める時間であり、早朝2人が並んで出てきたら……どうぞご想像くださいというようなものだ。 しかし彼自身も、あの不思議な白薔薇がどうなったか、知りたかった。 考えた挙句、いったんアンドレが自室に戻り、前後して薔薇庭園で落ち合うことにした。 厩のある方ではすでに男たちの会話が賑やかに始まっていたようだが、薔薇庭園は館をはさんで反対にある。 人目がまったくないわけではなかったが、一応誰かに出くわすことなく、2人は合流した。 オスカルは薄いブルーグレーの上着を纏って足取りも軽くアンドレの腕に縋って歩いていく。 アンドレは背後に人の気配がないのを確認してオスカルを後ろからぎゅうっと抱きしめ、背中ごしに口付けを交わす。 「おはよう…」 ややかすれたアルトの声がアンドレの耳をくすぐる。恋人の朝の挨拶はアンドレの体中を充実感で満たして行った。 やがて、 「このあたり、だったか」 オスカルは立ち止まり、あの薔薇の蕾を探した。 「今朝は肌寒いからな…蕾のままかもしれない」 「かもな」 同意しながらオスカルはちょっぴり落胆している。もしかしたら!蒼い薔薇の開花を見ることができたかもしれないのに、この寒さでは難しいそうだ。 ところが、開花どころか蕾さえどこにも見当たらない。 ジャルジェ家が裕福な貴族の家だとはいえ、薔薇庭園が迷子になるほどの広さを持っているわけではない。 余談だが、夫人の庭道楽、もといガーデニングの趣味範囲は玄人はだしで、四季折々の花々があちこちに植えられていた。 薔薇だけでもかなりの種類を育てているが、いきおい、それだけに費やせるほどの面積では、さすがに、ない。 ましてや庭園の中の小道など数が知れている。2人が場所を間違うはずもないのだ。 「おかしいな、たしかにここだぞ」 「ああ、昨日おまえがひざをついたのがこの辺りだろう?」 少しだけくぼんだところをオスカルが指差す。アンドレもこくんと頷き、きょろきょろと辺りを見回す。 辺りに茂っているのは薔薇の枝ばかり。花などどこにも見当たらない… 「まさか、誰かが摘んでしまったのではないだろうな…」 オスカルは泣きたくなるような想像をするしかなかった。 たった一輪の蕾だ、遠目に自分たちが見つけたぐらいだもの、他の誰かの目に留まらぬはずはない。 「オスカル、オスカル…」 アンドレは今にも泣き出しそうなオスカルを抱きしめてやった。 自分も同じことを想像して落胆していたのだが、それ以上に落ち込んでしまったオスカルを抱きしめてやらなくては。 「アンドレ、いいんだ、あんなに目立つ蕾だもの」 「ああ」 「この屋敷に人はたくさんいる、わたしたちのあとに誰かが見つけたのかもしれない…」 自分で自分に言い聞かせながら、オスカルは静かに涙を流していた。 昨夜アンドレに愛され、またしても戸惑いの世界に放り出されたオスカルは、不安で狂いだしそうな中であの昔話を思い出していた。 <真実の愛が蒼い薔薇の花を咲かせた…わたしも、いつかわたしとアンドレも蒼い薔薇の花を咲かせるのだろうか?> そして、また自分自身に問いかけていく。 わたしは彼を愛している…どんなに愛しても足りないほど… でも、なぜか不安になる。戸惑いが襲ってくる。 彼の愛にどう応えていいかわからなくなる。 足元に広がる深淵なる世界…このまま彼を愛し続けたら自分はどうなるのか…怖い。 蒼い薔薇の蕾。もしかしたらわたしとアンドレもその開花を見ることができる…? アンドレは腕の中のオスカルの不安と戸惑いを受け止めてやることに全神経を集中させていた。 もう背後に誰かの気配を感じる余裕などはなかった。だから。 「ごめんねオスカル。僕、あなたを悲しませてしまった」 背後に子供の声が聞こえるまで2人は何も気がつかなかった。 「だ、誰だ!」 オスカルより先にアンドレは誰何し、オスカルを背に匿おうと立ちはだかった。 ふいに恋人の胸が離れて戸惑ったオスカルはアンドレの広い背中の向こうに金髪の巻き毛の少年が立っているのに気がついた。 「誰…」 オスカルも恋人と同じ誰何を繰り返す。名を尋ねられた少年は困ったように首をかしげ 「僕、名前がないの。だから言えない。ごめんね」 少年は泣き出しそうな顔をしながらそれでもしっかりと答えている。 自分の倍以上あるたくましいアンドレに見下ろされて、脅威を感じても不思議はない小さな少年。 見ると彼はこの肌寒いのに薄物の寝巻き一枚の姿だ。おまけに裸足である。小さなくるぶしがアンドレに痛ましく映った。 泣きたいのをこらえているような表情をもう一度確認して、アンドレはさっきまでの厳しい表情を和らげて少しだけ身をかがめて尋ねることにした。 「君、どこから来たんだい?」 オスカルはアンドレの口調がぐっと優しくなったのに気がつき、彼の意図を測ると同じく表情を和らげて少年を見つめた。 「どうしてわたしの名前を知っているのだ?」 大人2人が優しく尋ねたのに少年は安心の表情を浮かべ、にっこりと笑顔になった。 「僕、あなたたちのこと知ってるの、ずっと昔から」 「昔から?君はいまいくつなんだい?俺たちはもう30をすぎたんだけど…」 アンドレが現実的な状況説明をすると少年は驚くどころか頷いて、 「僕はもっと長いこと地上にいるよ」 「もっと長い?」 オスカルとアンドレは異口同音に叫んだ。少年は臆するふうもなくうんうんと頷き2人の驚きが静まるのを待っている。 オスカルとアンドレは互いの顔を見詰め合って少年を見つめ、また見詰め合うという動作を繰り返すしかなかった。 やがてオスカルはその反復運動をやめ、 「名前がない上に、わたしたちよりずっと年上だなんて俄かには信じられないのだ。それに君はいつのまにかわたしたちのすぐ近くまで来ていたね。 わたしたちは他のものに姿を見られないようにかなり気をつけてここまで来たのだ。それこそ物音にも耳をそばだてるぐらいに…にも関わらず君はここにいる」 うん、と少年は頷きを返す。オスカルは続けて、 「どう見ても君は…不思議な存在だ」 自分の言葉が具体的な表現のようでいて、その実きわめて抽象的なことしか言っていないことにオスカルはおかしくなった。 ふふふ、と少年は天使の微笑み---オスカルにはそれ以外の何ものにも見えなかった---を返した。 「僕はあなたたちの世界のものさしではちょっと測れないと思う」 「そうなんだ」 情けない笑いをオスカルは返し、傍らのアンドレを見上げた。お手上げなのはアンドレも一緒なのだが、恋人の困惑を受け取り、 「よかったら君がなぜここにいるか話してくれないかな。それからそのう…」 アンドレが言いよどむと、少年は言った。 「蒼い薔薇の蕾がどこに行っちゃったかでしょう。ごめんなさい、僕が天の園に返しに行ったの」 「……」 「無理に信じなくていいよ」 少年はいたわるようにオスカルを見上げていた。 「君は…」 「あなたたちの言葉だと天使っていうのかな。そう思ってくれたらいいよ」 はい、とオスカルは上官の命令に逆らえない下級仕官のように答えた。アンドレも言葉はないながら同意している。 天使は2人の交互に見つめて、話し始めた。 僕はあなたたちがゆうべ読んだ本に書いてあった天使なの。 君は…あれから天に帰らなかったのか? うん。僕は神様との約束を守れなかったから。神様は戻ってきていいよっておっしゃってくださったけれどね。 でも僕、地上の恋人たちを見守ってあげたいってあのとき思ったんだ。 あの時?若者が天に召されたときかい? そうだよ、アンドレ。天使の仕事はいっぱいあるの。 でもその大半が地上のすべての生き物が神様の教えに沿って平和に生きられるよう助けてあげることなんだ。 …神話の世界には時々天使のイタズラでひどい片思いに苦しんだ挙句女性が月桂樹になったりする話もあるんだが。 そういうのはあのときの僕と同じ、未熟な天使のしわざだよ! そういう経験を経て天使も成長するんだ。人間には迷惑かけちゃうけど… それで?なぜ今回はわたしたちのもとに?わざわざ蒼い薔薇の種を贈ってくれたのはなぜだ。 …あなたが…とても苦しんでいたから。 …。 オスカル、気にするな。おれは全部わかっているから。 やさしいねアンドレ。ね、オスカル。あなたはとっても苦しんでいたでしょう? 彼を愛している自分に気がついて、愛されているってわかってもどうしたらいいか苦しんでいたでしょう? うん…。アンドレ、少しだけ彼と話してもいいか? ああ。おれは黙っているよ。 ありがとう。じゃあ、君はわたしを苦しみから救おうとしてくれたんだね。 ちょっと違う…天使は人間が苦しいときに救うことはできないの。 それができるのは神様だけ。神様のお力を僕たちは持つことはないんだ。 僕はあなたに気がついてもらうお手伝いがしたかったの。だからあの種を持ってきたんだ。 何に気がつくために…? 真実の愛に。アンドレとあなたの愛。あなたたちは真実の愛を育んでいるんだよ! 神様が選んだ恋人たちに許される、男と女が結ぶ真実の愛。それがあなたとアンドレの愛なんだ。 わかってオスカル。 あの蒼い薔薇…ずっと地上に置いていくことができないから天の園にお返ししたよ。 ごめんね。花が開いているところはまだあなたたちに見せてあげられない。 でもあなたが真実の愛に気がついてくれれば、それであなたが自分に自信を持ってくれたら僕は嬉しいよ! アンドレを信じて。彼について行けばいいんだよ… 「オスカル、オスカル!しっかりしなさい、わかりますか?」 「う…ん…ははうえ…?えっ?!」 いきなり起き上がった娘にジャルジェ夫人は中腰になっていたバランスを崩して地面に尻持ちをつきそうになった。 「おっと!」 アンドレのたくましい片腕が危ういところで夫人を支えていた。 「ありがとうアンドレ」 「とんでもございません奥様」 目の前で母とアンドレが感謝と返礼を交わしているのをオスカルは信じられない思いで見つめていた。 あれからわたしはどうしたのだろう…天使の言葉にすーっと気が遠くなって。 天使と対峙していた小道にオスカルは気を失って倒れていた。ジャルジェ夫人は娘たちと同様、あの不思議な蒼い薔薇の蕾の様子が知りたくて朝食前のひととき、ひとりこの道を急いできた。 するとその場所でオスカルを抱きしめたまま座り込んで気を失っているアンドレと、彼の懐に頭を預けて同じく気を失っている娘を発見した。 恋人同士になったと感づいていたものの、たった今まで抱擁していましたとばかりの娘の様子に一瞬戸惑ってしまった。しかし、気丈な夫人はすぐ気を取り直した。 まず娘を支えているアンドレを優しく揺り動かしてみた。頭を打っていなければいいが…幸いにもアンドレはすぐに目を覚まし、オスカルを抱きしめたままの自分の体勢に仰天、慌てふためいたのは言うまでもない。 夫人はなるべく彼の面目をつぶさないよう、彼の気持ちをまず落ち着かせるために、少しゆっくりと話しかけた。 「慌てなくていいわアンドレ。まずオスカルをそっと起こしてくださらないこと?」 ほんの少し茶目っ気を含んだ笑顔だった。アンドレは赤面しながらも、まず体勢を整え、片腕でその体を支えながら耳元で数回その名を呼んだ。 かくしてアンドレの腕のなかでオスカルは目を覚まし、一部始終を母に見られていたと知って恋人に負けないぐらい真っ赤になったのである。 「不思議なこともあったものですね」 娘とその恋人兼従僕からことの顛末を聞いたジャルジェ夫人は丁寧に朝のお茶を淹れながら何度もほうっとため息をついている。 アンドレはオスカルが「真実の愛」のくだりをどう説明するのか気が気ではなかったが、案ずるには及ばずオスカルは昨夜の出来事は就寝前にアンドレと一緒に父の書物の中の蒼い薔薇にまつわる不思議な昔話を読んだこと、早朝にアンドレと待ち合わせて蒼い薔薇の蕾を見に行ったところ、不思議な金髪の少年と出会ったこと、その容貌があまりにも挿絵と似ていたことに仰天して気を失ってしまった…とつじつまを合わせながら、内容を変更して報告した。 ジャルジェ夫人は途中、侍女の一人を図書室にやりくだんの本を持って来させようとしたが、驚いたことにあの本は図書室から陰も形もなく消えていた。 オスカルとアンドレは自分たちがそれぞれの部屋に持っていったまま、戻すのを忘れていたのかと思い頭を捻り、オスカルひとりが自室に走り手あたり次第に探しまわったが発見できなかった。 アンドレは…オスカル同様自室に走るべきだったことに気がついたときはあとの祭り、給仕をしながら一部始終を聞いていた侍女たちのからかうような視線に真っ赤になっていた。 「まあ、天使がその本を持って天上に帰ってしまったのかしら」 がっかりしたジャルジェ夫人の一言だったが、オスカルとアンドレはあの天使の言葉を思い出して思わず体を硬くしたのは言うまでもない。 なお、ジャルジェ将軍は後日夫人からことの顛末を聞かされ、本の返却先である旧友に謝罪の手紙を送る羽目になった。ところがかの友からの返事は 「こちらがお送りしたなかに、そのような書物は入れておりません」 といったシンプルなものであった。 アンドレから父とその旧友のやり取りを聞いたとき、オスカルは自分がさほど驚かなかったことに苦笑いした。 「アンドレ、あの天使は天の園に帰ったのかな」 「ははは…蒼い薔薇の花をお返しに行ったら神様にもう下界には降りるなと言われたとか」 「ふっふ…もう会えないのだろうな」 「寂しいか?」 「少し…」 アンドレが黙って背中ごしに抱きしめる。首筋にそっとキスを落とす…。愛の世界へいざなういつもの合図だ。 ほんの少し、まだ自分の中に不安が残る。でもそれは日を追うごとに薄らいで行く。 彼を信じて…彼についていけばいい。あの天使のあどけない声がオスカルの脳裏に優しく焼きついていた。 数週間後の夜、司令官室の窓から外の様子を見ていたダグー大佐がオスカルに告げた。 「馬車の用意ができたようですよ、隊長」 「そうか。ダグー大佐、ご苦労だった。あしたはよろしくお願いします」 「半日しかお休みいただけませんが、隊長、しっかりとお休みになってください」 一礼して去っていく律儀で信頼のおける副官に感謝を込めて笑顔で頷いていると、扉が開いてアンドレが入ってきた。 「アンドレ、君もしっかり休んでください」 「恐れ入ります」 アンドレは丁寧に上官を見送ると、ゆっくりと扉を背中に閉めて言った。 「馬車の用意ができたぞ。オスカル、用意はいいか?」 「ああ、アンドレ」 立ち上がりゆっくりアンドレに近づいて行く。 オスカルの詰襟の間からほんの少し見える白い細いうなじがほんの少し蒸気して見えるのはおれ自身の気が高ぶっているせいか…? 明日の午前中、オスカルとアンドレは半日だけの休暇を貰うことができた。 このところのパリ市内の不穏な情勢からオスカルは満足に休みを取ることができないでいた。 あの不思議な2日間の休日のあと、ずっと休みなしの日々が続いた。 お互い疲労の色が濃くなってきたオスカルとダグー大佐は交代で半日ずつの休みを取ることになっていた。 アンドレが一緒に休みを取れたのは隊員の勤務のローテーションがたまたま一致したに過ぎないが、オスカルが内心狂喜したのはいうまでもない。もちろんそんなことは顔にも出せないが… 「さあ姫君。お屋敷へとお送りしましょうか」 アンドレがおどけて手を差し出す。 「ばか!こんなところで冗談を言うな」 「馬車の中ならいいのか?」 「ばか!もう、先に行くぞ」 「待てよ、オスカル。一緒に行くって。こら待てってば…」 アンドレの声がオスカルを追いかけて遠ざかっていく。司令官机の上にはオスカル愛用の一輪挿しがきらめいている。 事務仕事の邪魔にならないよう、アンドレが茎を短くして活けた白い薔薇がドアから入ってきた風にあおられ笑っているかのように躍っていた。 |