家路へ

     

     

三部会は荒れに荒れていた。まるで押し寄せる激流は神の手でも止められないというように。
会場を警備するわがフランス衛兵隊も、連日遅くまでの勤務が続いている。
勤務を終え、屋敷に戻る頃には日付が変わっている、それが当たり前の日々。

「オスカル、少し眠ったらどうだ」
御者台にいるアンドレが中にいる私に話しかける。
おい、なぜわたしが起きているのがわかるのだ?
おまえこそ、衛兵隊本部から屋敷までの道のり、仮眠をとればいいのに。
わたしは聞こえない振りをきめこんだ。

「聞こえてるだろ?お屋敷まで、まだまだだ。体を休めろ。横になれ」

くそう、その言葉、倍にして返してやる!

思わず口を開きかけたとき、アンドレの隣で馬車を操っている張本人、
「御者」エドアールがのんびりとアンドレに話しかける声が聞こえた。
「とっくにお休みになっていらっしゃるんじゃないか?」

ほらみろ、エドは私を苛立たせるようなことは言わないぞ。お前とは大違いだ、アンドレ。

でも、まあ、実のところしっかり目を開けてるんだけど。
眠れと言われたって腹が立って眠れるわけがない。

わたしより疲れているのはおまえだ。

朝だってわたしより早く起きているではないか。
隊についてからだって、自分に任されたこと以上の仕事を黙々とこなしているではないか。
司令官机に山と持ち込まれる書類の数々をおまえはあきれるほど素早く、そして的確に仕分ける。
この処理がなければわたしとダグー大佐は書類の山と戦ったあげく、討ち死に…
は大げさだが、確実に仕事は深夜までもつれ込むだろう。
おまえのおかげで毎日翌日にもつれ込ませることなく、勤務を終えているのが現実だ。

だからおまえの疲労度はわたしの倍、いや三倍でも足りないぐらいだ。
なのにおまえはその疲れをわたしたちの前で絶対に見せない。
それどころか今日だってすべての仕事が終わると同時に姿を消し、程なくして戻って来て
「馬車の用意ができたぞ」
司令官室に迎えに来たおまえは苦しくなるぐらい優しい微笑みを浮かべた。

恋人の笑顔は最上の癒し薬のはず。だがそのときのわたしは苛立ちを感じ始めていた。
窓際のわたしとドアのところにいるおまえとの間には善良なるわが補佐官、ダグー大佐がいた。
ダグー大佐がいなかったらとっくにその胸に飛び込んでいただろう…
いや、それができなかったから怒り出した、というだけではない、断じて。
しかしだ。

ダグー大佐とおまえはわたしが何も言わず、黙りこくっているので少々おかしいと思ったらしい。
「隊長、どうなさいました」
「オスカル?」
どこか具合でも悪いのかと心配したのだろう、慎重に、でも確実に近寄って覗き込む。
お前の長い指がわたしの前髪をそっと触れようとしたとき、わたしは怒鳴っていた。
「なんでもない!」
「…ホントか?」
「か、か」
「か、か?」
「帰るっ」

おまえの視線が苦しくて逃げるように司令官室を飛び出した。
続けて開け放したドアの向こうのおまえとダグー大佐の会話がわたしを追いかけてきた。

「アンドレ、今日はできるだけ早くお休みになってもらってください」
「はい、そのようにお伝えします」
「だいぶお疲れのようです」
「かなり」
「君も大変でしょうが」
「意地でも眠ってもらいます」

言われなくてもわたしは“早く眠る”つもりだった!
家までの道のり、おまえの肩に寄りかかって…
それなのにわたしを中に押し込むと、おまえは扉を閉めて自分は御者台に行ってしまった。

ちょっと待て、なぜそちらへ行ってしまうのだ?こんなところにわたしをひとりおいて。
行ってしまうのか、わたしをひとり置いて…は大げさかもしれないが、
今日は屋敷からエドが迎えに来てくれているのだぞ。
おまえも一緒に中に座っていればいいではないか。

繰り返すようだが、わたしに負けないぐらいおまえは疲れているんだぞ!

ジャルジェ家に戻ったのはやっぱりもうすぐ日付が変わる頃だった。
執事のラズロが恭しく頭を下げて出迎えるのを
「遅くなってすまないラズロ」
起きて待っていなくともいいと何度繰り返しても、彼は決してわたしの帰宅を待たずに下がることはしない。
わたしとアンドレ、2人の帰宅を確認して初めて彼の一日も終わるのだ。
アンドレはもちろんそのことをわかっているから、老齢の執事に尊敬と感謝をこめて帰宅の挨拶をした。

「執事さん、遅くなりました」
「アンドレ、ご苦労さま。オスカルさまのショコラはすぐ用意するよ」
「お願いします。わたしがお部屋まで持っていきます」
「お願いします」

執事が深々とお辞儀をしているのを背に感じながら、わたしは重い足取りで自分の部屋に上がっていく。
アンドレはいつのまにか姿を消した。

湯浴みを終え、侍女が下がるのと入れ替わりにおまえはやってきた。
「ショコラを持って来たぞ」
わたしは濡れた髪を拭きながら、ほんの少し頷いてテーブルに置かれたショコラに手を伸ばした。
とたん突然お前の鋭い声が飛んできた。
「こら」
思わずびくんとして顔を上げるとさきほどとは打って変わって厳しい表情のおまえがいた。
さらにはわたしの手首はしっかりとおまえにつかまれている。

「何をする…」
「離してほしかったらわけを話せ」
「わけって」
「理由だよ」
「何の」
「おまえの不機嫌のだよ。俺がお前を怒らせるようなことをしたのなら謝る。だから話せ」

わたしの不機嫌…

そうか。アンドレにはわたしがなぜ苛立ちを抑えきれないのかわからないのか…
わけもなく悲しくなってわたしはおまえから目をそらした。
そのしぐさが勘にさわったのか、おまえはもう一度厳しい声で

「オスカル、いいかげんにしろよ」

ああ、おまえは怒ってしまったんだな、それも本格的に。
無理もないかもしれないな、おまえはわたしを思いやって一人馬車の中に押し込んだのであって、
それは「思いやり」としてはしごくまともな段取りで。

<一緒にいてほしい>

なんて思ったわたしは客観的に見ればものすごーく我侭な奴であって。

思い切って言ってしまえばよかったのだ。
司令官室から厩に向かう間に、ひとことでも。
お前も疲れているだろうから、一緒に中に座ろう、と。

その一言が言えなかったのは、2人きりになりたいという気持ちを一緒に告白することになる…
それを素直に言えるほどまだわたしは慣れていないのだ。
おまえの恋人という立場に。
でも、言えばよかった。言わなかったがために、諍いなんかで大切な時間を使ってしまうなんて。

恋人として未熟な自分を改めて発見して、彼がまだ厳しい表情を崩さないことも発見して、不覚にも涙がこみ上げてきた。
さすがにおまえは驚いたようだ。握っていた手を緩めるとうつむいたまま涙をこらえているわたしに言った。

「言い過ぎたな」

黒曜石の瞳が近づいてきた。ついさっき厳しい表情でわたしを問い詰めようとしていた彼はどこかに消え、
わたしの心のすべてを包もうと優しく両手を伸ばそうとしている彼がいた。
我慢できずにわたしは彼の胸に飛び込んだ。

「…オスカル、話してくれなければわからないぞ」
やさしく、その胸にわたしを受け取りながらおまえはさっきと同じことを言っているのだけれど、
今のおまえはやさしく、ひたすらやさしくわたしの涙を包んでいた。
片方の腕でしっかりとわたしの腰を抱き寄せ、もう片方の指が優しく髪を撫で擦る。

ああ、おまえはなんて暖かく、そして愛しいのだ…。

「話してくれないか?」
わたしの嗚咽が静まったとき、おまえはのぞきこむように顔を寄せた。
いつのまにかわたしの両腕はおまえの首にしっかりと巻きついていた。
おまえの胸に片頬を預けて、ようやくわたしは司令官室から屋敷に就くまでの自分の苛立ちを話始める。

「エドがいたから」
「いたから?」
「一緒に…中にいられるって」
「思った?なのに俺は御者台に行ってしまったか」
やはりそうか、とおまえは軽く頷き、やさしく微笑んだ。そして
「俺もそうしたかったと言ったら信じてくれるか?」
「…そうなのか?」
おいおい、と嘆きながらお前は器用にわたしのひざを抱き上げ、そのまま長椅子に座った。
まるで小さな子どもが駄々をこねてあやされているようで恥ずかしいが、もう少し彼のぬくもりを感じていたい。

「俺がどんなにおまえにおぼれているか、見せてやろうか」
「え?」
一瞬彼が何を意図しているかわからなかった。
しかし次の瞬間には、目の前がおまえの黒曜石の瞳と黒葡萄の髪に覆われて…
わたしの唇は彼に強く吸われていた。

ああ、気が遠くなる…
甘くて力強い陶酔感におまえはわたしをいざなっていく。
だめだ、まだわたしは慣れていないのだ、おまえの恋人という立場に…こんなときどうすればよいのだ?
遠のいて行く意識の中でわたしは必死に縋り付いていた。
おまえの背中にしがみつき、決して離れまいと思った。

何度も深いくちづけを交わし、ようやくおまえはわたしを離してその広い懐にすっぽりと覆いながら囁いた。

「わかった?」
「わかった…」
子どものように頷くしかなかいわたしをあやすように、黒曜石の瞳はやっぱり優しく笑っていた。
でも今度のおまえの瞳、ちょっとだけ切なく見える…
おまえは嘆息して天井を見上げて続けた。

「もし馬車の中にいたらおまえをどうしていたかわからない」
「アンドレ…」
「だから、な?エドもいることだし、おまえを休ませたかったし、だから中にいるのはやめたんだよ…わかる?」
切なさを含んだ苦笑い。
それに気がついたとたん安心といういたずらな妖精がわたしの瞳に新しい涙を運んできた。
さっきとは違う涙を…こくりと頷くわたし。

「すまない、泣いたりして…」
「うん」
おまえは笑いながら長い指でわたしの髪をゆっくりと撫で続けてくれる。

おまえのやさしさににいつまでも包まれていたい。おまえの温もりにときめきを感じていたい。
もう少し、このままで…。アンドレ、一緒にいてくれるだろう?いてほしい。
ああまだ自分の気持ちを素直に言葉に出せないのだな、わたしは。心のなかで念じているだけなんて、伝わるはずもないのに。
しかしわたしの耳元でおまえは囁いた。

「大丈夫、まだ一緒にいるよ」

アンドレ…待っててくれるな?おまえの恋人という立場にわたしが戸惑いを感じなくなるまで。
おまえがいなくてはもうわたしはひとりでは、生きてはゆけない…。