「オスカル様の婚約者」
「ジェローデル伯爵様」
「…何でしょう」
「あの…お召し物に何に何か、染みのようなものが。ショコラではございませんか?その色は」
「いえ…たいしたことはない、大丈夫ですよ」
「でも、お胸元のあちこちに。飛び散っております、ショコラが」
「…気がつかなかった。あなたはよく気がつくね」
「恐れ入ります」
「気がついてしまうとどうも気になるね…悪いが、私の従者を呼んでくれますか?」
「お着替えをお持ちいただくよう、お伝えいたしますわ」
「助かります。ではどこか着替えられそうな部屋を用意していただけますか」
「こちらへどうぞ」
「ありがとう」
「お供の方にお伝えいたしました」
「ありがとう。しかし、染みというのは気にならないうちは何でもないのに、いざ気がついてしまうと恐ろしく鬱陶しいものです」
「よろしければ、上着だけでもお脱ぎになられてはいかがでしょう。早いうちに染み抜きをいたしませんと跡が残ってしまいます」
「そうですね…悪いが、あなた、名前はなんと言ったかな」
「コゼットと申します」
「コゼット、ではこの上着を」
「畏まりました」
「本当によく気がつくね、あなたは。ええっとコゼット」
「恐れ入ります」
「あなたはたしかオスカル嬢のすぐ上の姉上付きではなかったかな?」
「はい。ジョゼフィーヌ様にお仕えしておりました」
「そうだったね。たしかあの方のサロンで見かけたことがある」
「元はこちらのお屋敷にお使えしておりましたが、お嬢様のご婚礼に伴いまして、であちらのお屋敷へ参りました」
「ほお…それでまたこちらのお屋敷にいらしたのは、ジョゼフィーヌ様のお使いで?」
「いえ、オスカル様のお近くの御用をするものがお暇乞いいたしましたのを機に、戻ってまいりました」
「そうでしたか…」
「あら!」
「何でしょう?」
「よかった、思ったより取れそうですわ、ショコラの跡」
「…熱くなかったから…」
「…え?あ…ああ、そうでございましたか」
「取れそうですか」
「大丈夫かと。これでとんとんと叩くようにして拭きまして…よかった、だんだん薄くなって参りましたわ」
「ははは…ぬるかったのが幸いしたかな」
「…ご自身ですぐお拭きになったのが、ようございました」
「は?」
「お袖にはあまりついておりません。こぼされたとき、すぐお拭きになられたのでございますね」
「え?あ、ああ、そうです。気がついたところはね、ささっと拭いてしまった」
「ではハンカチーフがずいぶん染みになられたのでは」
「これですか?」
「ま、すっかり汚れてしまわれて」
「いい、これは供の者に片付けさせますから」
「申し訳ございません、気がつきませんで」
「十分…気がついてくれていますよ」
「は?」
「え、い、いや、それより供のものはどうしたのかな」
「遅うございますね。見て参りましょう…あ。大事なことを忘れておりました」
「何でしょう?」
「お足元はどうなさいました?そちらにもかかっておりませんでしたでしょうか、ショコラ」
「とんでもない!その…ぬるかったから」
「……」
「あ、い、いや、その、かかっていませんよ、ほら」
「大丈夫そうでございますね…よろしゅうございました」
「ははは…本当に、あなたはよく気がつくね、コゼット」
「恐れ入ります」
「オスカル嬢も、あなたのようなよく気がつく人がお側にいると心強いでしょう」
「どうでございましょう…」
「何ですか?」
「オスカル様は、私などよりずっと細やかなお方ですから」
「…そうなのですか?」
「あ、いえ、失礼いたしました、僭越なことを申し上げまして」
「いえ、いいのですよ。それより、聞かせてほしいな。オスカル嬢はその…どちらかというと、その、目ざとい?」
「は?」
「い、いえ、その、よくお気がつかれる。そ、そうですね!私も、そういう魂の美しさに惹かれた。よくわかります。ははは…そ、それにしても私の従者は何をしているのかな、遅すぎはしませんか」
「そうでございました、申し訳ございません、無駄なおしゃべりをしまして。見て参ります」
「お願いします」
「失礼いたしま…あ!」
「何でしょう!」
「ゴブレットは…」
「は?あ、ああ、ショコラのね。あれは…そう、誰か通りかかった者に渡してしまった」
「…その者は伯爵様のお世話もせずに下がったのですね…」
「…どう、だったかな…」
「誰だか存じませぬが、申し訳ございません」
「い、いやいい。私が言ったのだ、下がってくださいと。その、そんなについていると思わずにね、そう、たしかそう言った」
「そうでございましたか…」
「いいのです…それより、そのうちの従者だが」
「見て参ります」
「今度こそ、よろしく頼みますよ」
「畏まりました」
侍女コゼットは丁寧に一礼してジェローデル伯爵を残し、部屋を出た。
「いい方なのよねえ。これがオスカル様のご結婚相手っていうんじゃなくて、誰か他の人のお相手っていうんだったらイチオシなんだけど」
そう言いながらふと視線を先ほどのジェローデル伯爵を呼び止めた階段まで戻したとき、よく通るハスキーなアルトが響いて来た。
「誰だ?こんなところに派手にショコラをこぼしたのは!」
「オスカル様」
「コゼット。誰かが派手にゴブレットをひっくり返したようだ。見てくれ、この跡」
「…まあ、本当ですね」
「こぼすのは仕方がないが、すぐに拭いておくものだ。そうだろう?コゼット」
「まったくでございますわ」
「誰だか知らないが、子供じゃあるまいし」
「子供じゃありませんでしょう、絶対」
「だから余計に腹が立つってことだ」
「いじらしいじゃありませんか」
「何だって?」
「いえ、何でもございません」
「コゼット?」
「……オスカル様、晩餐のお支度がそろそろ整いますが」
「出たくない!」
「そうおっしゃらずに」
「何だコゼット。おまえ、私があいつと顔を合わせたくないってこぼしたとき、好きになさったらよろしいのです、なんて応援してくれたじゃないか」
「…しましたけど」
「悪いが、私はまだ正式に婚約したつもりはないぞ。父上が、勝手におっしゃっているだけだ」
「わかりますわ。ただ、今晩ぐらい、お付き合いなさってもよろしいのではないかと」
「ふん。一晩付き合ったらまた明日も顔を出せ、同じことだと父上が言いくるめようとするに決まっている」
「…でございますわね」
「おまえ、どっちの味方なのだ」
「もちろん、オスカル様の味方ですわ」
「心から私の気持ちを思いやり、包んでくれるような暖かい人こそ私にふさわしい。おまえ確かそう言ったぞ、いつだったか忘れたが」
「申し上げました」
「あいつは嫌いじゃない。だがな、私の気持ちを考慮せずどんどん話を進められるのが、死ぬほどいやなのだ!」
「わかりますわ」
「だったら、だ!私は晩餐には出ない。父上が雷を落とすかしらんが、何があっても聞き流してくれ。頼んだぞ」
「畏まりました…」
足音も高く去っていくオスカルの凛々しい後姿を見送ると侍女コゼットは手際よく階段に残ったショコラの跡を片付けた。
そして、
「優しい方ではあるのですよ、オスカル様。珍しいほど優しいお方。これは事実なのですよ」
しかし今それを口にしたところで誰も救われないのもまた事実である。
「アンドレもねえ…今日は切れちゃったってわけね」
ふうっとため息が出る。
「いろんな人の気持ちがわかるのも辛いわ。さてと。ジェローデル様のお付きの方は…と」
誰に聞かせるともなくつぶやくと、部屋の向こうでショコラまみれのブラウスのままため息をついているであろうジェローデルの気の毒な顔を思って足を速めるのであった。
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