月の夜の思い出 一度だけ見たことがある。オスカル様が泣いていらっしゃる姿を。 あれはいつのことだったか。 そう。 晩餐が終わり、オスカル様がお部屋に戻られたあとだった。 食堂の片付けをして、奥様にご就寝前の御用を伺う途中、彼を見かけた。 薄暗い廊下の向こうをゆっくりとオスカル様のお部屋を目指して歩んでいく後姿に奇妙な違和感を感じて目を凝らした。 そして気づいた。 彼、アンドレは正装したのだ。 (こんな時間に、なぜ?) 驚きと同時に、胸騒ぎを感じた。 いつも彼ではない。 私が知っている昔からの弟分のアンドレではない。 歩みを速めて追いつくことは可能だった。 だが、ご主人さま方のお部屋が並ぶ廊下を、根拠のない直感が働いたからと言って使用人が走りすぎるなど許されることではない。 長年のお屋敷勤めでそうした嗜みが身についていた、といえば聞こえはいいが。 もしあのとき、私が追いついていたら? オスカル様の涙を見ることは無かったのだろうか? いや。 私はきっと追いつけなかっただろう。どんなに急いでも走ってもきっと彼は私の先をまっすぐオスカル様のお部屋目指して歩み続けただろう。 確固とした思いに身を任せて。 今でも思う。きっと、あのときの彼は誰も追いつくことなどできはしなかっただろうし、止めることなどできはしなかっただろう。 アンドレの姿がオスカル様のお部屋に消えた。 (アンドレ、お願いだから馬鹿な真似はしないで) 祈るような思いで扉をじっと見つめた。近づくことすら怖くて私はずっとそうしていた。ただ、じっと扉を見つめていた。 中からは何も聞こえなかった。私の祈りが神に届いたのだろうか…いやそんなことはない。 彼はきっとそれをやってのけたのだろう。誰も彼を止めることなどできはしないのだから。 いつのまにか私は使用人もすべてさがった食堂に戻っていた。 あきらめに似た思いだけが漂い、呆然として近くにあった椅子に腰掛けた。 「誰にも止めることなんてできやしないのよ!」 誰に聞かせるともなく口に出てしまった。やるせない苛立ちが私を襲う。 幼い頃からただひとりオスカル様だけを愛してきたアンドレ。 私はふたりが好きだった。オスカル様とアンドレ、ふたりがともに肩を並べて成長していくさまを見ることは少しだけ年上の私の喜びでもあった。 オスカル様とアンドレ、ふたりが好きだった。どちらがかけてもだめだった。 どちらかがひとりでいるとどうしてもうひとりは傍にいないのだろうと無意識にその姿を求めてしまうことすらあった。 オスカル様に持ち上がった結婚話に使用人の中で一番違和感を感じたのは私だったかもしれない。 どちらにどうしてくれとは思っていなかった。 ただおふたりがもとのように、また一緒に肩を並べて歩んでくれはしないか。 使用人の分際でとんでもないことを考えていた。口にはしなかったけれど…。 そんなことを考えていたとき。誰かが泣いている…? どこからともなくすすり泣きが聴こえた気がした。 (まさか?) 椅子を蹴飛ばすように跳ね上がって、そのまま元来た廊下を急いだ。階段を二段飛ばしに駆け上がり、先ほどの廊下を小走りに通り過ぎる。 あの声の聴こえた先に向かって。 オスカル様のお部屋を通り過ぎ、ご主人さまご夫妻のお部屋も通り過ぎ、突き当りの廊下を今度は駆け下りた。 ホールを通り過ぎた先にある中庭。 オスカル様はそこにいた。 中庭の奥にある東屋の小さなベンチに、細い腕で両膝を抱えるようにうずくまって。 「オスカル様…」 私の声にオスカル様は顔を上げられた。月の光の下、照らし出されたお顔には涙が幾筋ものあとを残していた。 「コゼット…」 泣きぬれた瞳がまっすぐ私を見つめていた。 オスカル様は震えていたのだ。 自分でどうしようもない感情に打ちのめされて、震えていたのだ。 「どうしたらいいのかわからないのだ」 私は黙って頷いた。 「彼が…来たのですね」 「ああ」 そのお声があまりに頼りなく儚げだったので思わず私はおそば近くまで駆け寄っていた。 「オスカル様…」 かける言葉がなくてただ、そのお名を呼んでいた。 するとオスカル様はそれを合図に私の膝に顔を埋められた。 愛しくて切なくて、ただ、ただ、私は流れる金の滝のようなお髪を撫でるしかなかった。 オスカル様はしゃくりあげられていた。 どのくらいそうしていただろうか。 オスカル様がふと顔を上げられた。自然と私はそのお目を上から覗き込むようなかたちになった。 目があった瞬間、オスカル様のお目からまた涙が溢れた。 せつなさがこみ上げてきて、私はありったけの思いを掻き集めた。 「いいのですよ。お泣きなさいませ」 アンドレがご自分を手にかけようとした。幼い頃からずっとご自分を守ってきてくれたアンドレが殺意を持った。 事なきを得たとはいえ、どんなに驚かれたことだろう。どんなにお辛いだろう! ようやくそのときになって私の中にアンドレに対する憤りがこみ上げてきた。 言葉を選びながら、オスカル様が少しでも安心されるように、私は続けようとした。 「誰よりも信頼なさっていたのでしょう?いいのですよ、お泣きになって…」 私がなおも言葉を続けようとしたとき。 オスカル様の表情がふっと緩まれた。 その目を見た。 私は気づいた。 自分がとんでもない勘違いをしていたことに。 (あ…まさか) ようやく私は気づいた。自分の思い込みが思い込み以外の何者でもなかったことに。 オスカル様は怯えていらっしゃったのではなかった。その思いが間違いではなかったことをオスカル様は教えてくださったのだ。 「違うんだコゼット。悲しくて泣いているのではない。私は…彼がいとしいのだ」 「オスカル様…」 私は呆然としてお肩にかけていた手をはずしてしまった。 私の手を支えにしていたせいでオスカル様は一瞬バランスを失われ、ご自分でご自分の肩を抱きしめるかっこうになっていた。 そしてそのままの姿勢でオスカル様は私をまた見あげ、そして続けられた。 「彼を抱きしめてやりたい。でもどうしたらいいのかわからないのだ。 私は彼を愛していない。でも…彼はもう生きてはいられないんだ。どうしたらいい?コゼット。 彼はあんなにも苦しんでいる。だけど私はどうしてやることもできない。 父上にも、父上の決められた婚約話もいくら断ってもみんなが勧めてくる。 毎日毎日はなしが進んで行く。そのことが彼を苦しめている。 彼がいとしい。抱きしめてやりたい。でもできないのだ、コゼット」 愛してはいない。でも彼を抱きしめてやりたい。 そのお言葉が私の胸を締め付けた。 このお方は。 「オスカル様」 お名を呼ぶと同時に私はその肩をしっかりと抱き寄せ、お背中を優しくさすりながら続けた。 「いいのですよ、オスカル様。お泣きなさい、今は。何もかも忘れて」 うん、とオスカル様が頷かれたような気がした。 私の決して居心地がいいとは言えない胸にお顔を埋められ、オスカル様は静かに、でも声を殺して泣き続けられた。 お泣きなさい。今は。いずれご自分のお気持ちに気がつかれるときがくるまで……。 言葉もなくただ泣き続けるオスカル様を月の光が抱きしめているような夜だった。 少しだけ年上の私と同じように、月の光も、オスカル様を優しく黙って包んでいるような夜だった。 |