☆ ハンカチ ☆
「あら!」
アントワネットは思わず声を上げた。
150年も人の入らない空家だったチュイルリー宮殿。
その薄汚さと不自由さに最初は戸惑ったが、慣れてくると余りに大きすぎたベルサ
イユ宮殿より落ち着ける空間であると感じ始めていた。
そんな中後回しになっていた荷物の整理をしていた王妃は古い小箱の奥に懐かし
い思い出を発見したのだ。
「お母様、どうなさったの?」
突然動きの止まった母に気が付いて長女のマリー・テレーズが近づいてきた。
母の手元を覗き込むと一枚の白いハンカチがある。
普段母が持つレースなどの飾りの付いたものではない実用一点張りの白いハンカ
チ。
年月を感じさせるような色合いを帯びるそれを王妃は愛しそうに見つめている。
しばらく見せた事の無い幸せそうな母の顔…
『誰のハンカチだろう…まさかフェルゼン伯?…いいえ、それは違うわ』
彼女たちがパリに連れて来られた時、馬車を守る貴族の中にフェルゼンはいた。
今も時々この宮殿にやってくる。
ベルサイユにいたときより会おうと思えばいつでも会える状態なのだ。
わざわざ古いハンカチを見て喜ぶほどの事ではないだろう。
『では一体どなたの…?』
王妃はその美しい顔に笑みを浮かべながら膝の上にそのハンカチを広げた。
それにただ単に年を経たのとは違う色合いが所々に見受けれられる事に娘は気
づく。
そして彼女は持ち主を知る大きな証拠をその隅に見つけた。
『"J"?』
ハンカチの右端に青い糸でそう刺繍してある。
テレーズは様々に模索した。
でも母にこのような表情をさせる人物を思いつくことはできない。
『オーストリアにいらっしゃった頃のものかしら…?』
それならば自分は知るはずはないと彼女は素直に母に尋ねることにした。
「お母様…?」
王妃はその輝いた瞳を娘に向ける。
彼女の不思議そうな表情に母は満面の笑みで答えた。
「ごめんなさいね、モスリン。とても懐かしかったから…
こんなところにしまってあったのね、本当は返さなくてはいけなかったのに」
母の瞳は自分に向けながらもその心は遥か彼方に飛び去っている。
ベルサイユ宮殿から貴族たちがいなくなって寂しさを感じた頃、以前の栄華を語ると
きに見せた瞳と同じであった。
「どなたのハンカチなの…?」
少し遠慮した声でテレーズは尋ねる。
「オスカルのものですよ」
その答えに王女は驚いて声を上げそうになった。
彼女の脳裏に輝くブロンドの髪と深蒼の瞳の近衛連隊長の姿が蘇ってくる。
『でも彼女は…』
「まだ私が王妃になる前のことよ。
みんなに危ないからと止められたのに当時王太子だった陛下にお願いしてむりや
り馬に乗せてもらったの。
でも突然馬が暴れてね…宮殿の奥に向かって駆け出したときはとても怖かったわ」
娘の心情を察することなく母は楽しげに思い出話をつづってゆく。
膝に置いたハンカチを折ったり透かしたりしながら…
「私付きの近衛仕官だったオスカルが後を追ってきてね…泣き喚く私を助けてくれた
の。
おかげで私は多少の打ち身と手の甲の擦り傷くらいですんだわ。
このハンカチはオスカルがその手に巻いてくれたものなの…」
変色した沁みはそのときの名残なのだと、と王妃はその細い指で跡をたどってゆ
く。
洗ってすぐに返すはずだったのに完全に汚れを落とせなかった事と負傷したオス
カルがしばらくアントワネットの前に姿を見せなかった事でそのまま置き忘れてしま
ったのだと彼女は当時の情景を事細かく語っていった。
「お母様!」
母の昔語りに堪え切れなくなったマリー・テレーズは叫んだ。
「オスカル・フランソワはお母様を裏切ったのよ!そんな人のハンカチなど何故そん
なに大切になさるの!?
今私たちがこんな目に会っているのはオスカルの所為なのよ!」
娘の瞳には怒りの炎と哀しみの涙が込み上げていた。
突然に奪われた平穏、様々な輝きに満ち溢れた生活からの転落…ずっとその内
に秘めていたやり場の無い思いが一気に開放されたのだ。
その気持ちを察し母はその紅潮した頬をそっと両手で包んだ。
「オスカルは裏切り者よ!大っ嫌い!憎くて…堪らないわ…!」
瞳にこみ上げた涙が柔らかい頬をつたって行く。
その頬を包む母の手はそのひんやりとした冷たさを感じた。
「…でも、モスリン。あなたもジョゼフもオスカルをとても好きだったはずよ。よく彼女
に馬に乗せてもらったでしょう?とても楽しそうだったわ」
「それは…ずっと昔の事よ!まだ彼女が近衛隊にいた頃の事。
今は嫌いよ、大嫌い!お母様だってそうでしょう?」
母を見つめる娘の目は大きく見開かれ同調の意を待っている。
だが母は瞳を閉じてゆっくりと左右に頭を振った。
その行為に娘の瞳は更に大きく零れ落ちんまでに見開かれる。
「いいえ、モスリン。私はオスカルを憎んでも恨んでもいませんよ」
穏やかな春の女神のような慈愛に満ちた微笑を浮かべて彼女は言う。
「だってオスカルは私のお友達ですもの。私がフランスにきて最初に出来たお友達。
それは私の中で永遠に変わらないわ」
「でもオスカルはお母様を裏切ったのよ!私たちに銃を向けたのだから!」
驚愕と当惑が交差する娘の心情。
しかし母の感情は絶対である事はその毅然とした態度で感じ取れる。
『何故…お母様はオスカルを嫌いにならないの…?』
母は両手を娘の頬からその体に移し胸の前で抱きしめた。
変わらない母の胸の香りに波立っていた心が凪いでくるのを感じる。
テレーズもまた自分の両手で母の体を抱きしめた。
「ごめんなさいね、モスリン…いえマリー・テレーズ。
こんな状況ですからお友達を作ってあげられないものね…
でもあなたにいつか本当のお友達ができればきっと私の気持ちがわかるでしょう」
「…オスカルは…お母様を裏切ったのに…」
母の胸に顔を埋めて落ち着きを取り戻しながらも娘はささやかに抵抗する。
そんな小さな娘の姿を母は愛おしそうに見つめていた。
「いいえ、オスカルは私を裏切ったりしていませんよ」
母の明るいその返事に娘はビクッとその体を震わせた。
そして抱きしめるその腕に更に力を込める。
「オスカルが本当に私を憎んで、私をその地位から追いやろうとするのならわざわ
ざ民衆と行動したりなどしないでしょう。だって私は彼女を信じているのだから…
オスカルがその気になればいくらでも私と二人きりになる機会は作れる。
その剣で私を切り裂く事も銃で貫く事もいくらでも出来たでしょう」
テレーズの脳裏には鮮やかな輝きの中で笑いかける女近衛連隊長の姿が甦っ
ていた。
そしてその傍らに美しく着飾った最愛の母の姿を・・・
確かにあの姿に偽りの感情は見えなかった。
『でも・・・』
打ち消すことができない疑惑と込み上げてくる感情に王女はただ母にしがみつ
く事しかできなかった。
「ただ世間一般で言う友人関係と私とオスカルの関係が異なるとすればそれは私
たちがそれぞれに立場というものを持っていた、という事でしょう」
「立場…?」
娘の揺れる心を感じながら母は静かに語り続ける。
その母譲りの見事なブロンドの巻き毛を優しく撫でながら・・・
「そう、私はフランスの王妃。そして彼女はこのフランスを守る軍人。
その立場ゆえに彼女はその身を投げ出して戦渦に飛び込んでゆかねばならなか
った。
その高貴な心の命ずるままに…」
母の言葉に燃えさかる炎の中馬を駆けてゆく金髪の軍人の姿が浮かび上がる。
戦闘など見た事も無いのにあの強い瞳を真っ直ぐ空に向けて進んでゆく光景はな
ぜが容易に想像がついてゆくのだ。
「今になって私は本当の友情というものを知りました。
以前私は大勢の取り巻きを友達と呼んだ。彼らの言葉は優しくて様々に私の心を
躍らせてくれた…でもそんな人たちは私の身が危うくなると真っ先にその姿を消し
ていった。私への忠義も友情も無く・・・
そうあの人たちにとって私はただの操りやすい人形だったのでしょう」
華やかで懐かしいベルサイユ宮殿。
冷たい大理石の輝き、金銀様々の宝飾、豪華なドレスに綺羅綺羅しいシャンデリア
の光・・・チュイルリー宮に来てからこれまであたりまえに周囲にあったそういったも
のにどれほどの価値があったのか王妃はようやく認識していた。
自分と同じ過ちを繰り返さないためにそれを愛しい子供たちに伝えなくてはならない。
王妃は静かに語り続ける。
「それに引きかえオスカルはいつでも私の行為を制限するようなことや楽しみを減
らすようなことばかり言っていたわ。
彼女の事は大好きだったけどその堅苦しさ故に私は一度も本気でその言葉を受け
止めようとはしなかった…」
いつしか王妃の心にも懐かしい友との数え切れない場面が浮かんできた。
そしてそれはいつしか霞んで画像が結びつかなくなってくる。
「考えてみれば私の方がずっと以前から彼女を裏切っていたのよ。でも彼女はずっ
と私を守り諌めてくれた。あの時だって
最後まで軍を引くように私に忠告したのに・・・私はそれを拒絶した・・・」
テレーズは母の体の震えに顔を上げた。
その頬が涙に濡れる儚い姿がそこにあった。
『オスカルを・・・思い出しているの・・・?』
今の母は王妃でも自分の母でもない。
友の死を悲しむ一人の心弱き女性の姿がそこにあった。
「・・・オスカルは軍人としてこのフランスのためにすべき事をしたのでしょう。
それは決して私を裏切った事にはならないのです」
「何故・・・?」
母の涙に娘もまたその頬を濡らしていた。
先程までの激昂ではない、その美しさに憧れた懐かしい母の友人の死が今更に
彼女の心を締め付けてきていた。
「なぜならそれは彼女が自分で選んだ行為なのだから・・・オスカルがオスカルであ
るためにしなければならない事だったのだから・・・私はオスカルが好きだったので
す。彼女が彼女であるために選んだ道を否定など出来ないわ。もしその心を
偽って行動したならあの輝かしい精神は失われてしまったでしょうから・・・!」
大勢の兵士を前に一歩も引かないその強い意志・・・
その蒼い瞳は空よりも海よりも深く美しく、その豪華なブロンドの髪が靡く様は
まるで神話の神々が地上に降り立ったかのように艶やかだった。
その姿をきっと忘れる事など出来ないだろう・・・
テレーズは少しだけ母の気持ちがわかったような気がした。
「私はフランス王妃として正しいと思う事をした。そして彼女はこの国を守る立場
として行動した・・・ただそれだけの事なのですよ。
その事で私はオスカルを嫌いになる事などましては憎む事など出来ません・・・」
もしも二人の間に立場という壁が無かったら・・・王妃はその考えを振り切った。
立場が無ければ出会う事も無かった事を彼女は今なら知っている。
立場があったからこそより惹き合ったのだという事も・・・!
「もし・・・もしも今オスカルが生きていて・・・彼女に助けてと頼んだのなら、きっと
何も顧みず私の元に駆けつけてくれるでしょう。
いいえ、亡くなってしまった今でさえきっと彼女は私を見守ってくれているはず。
だって彼女は私付きの近衛隊士、永遠に私の近衛連隊長なのですから!」
母はかつてベルサイユで多くの人に傅かれていた時の強い意思を秘めた目で娘
を見つめた。
美しい母は彼女の誇り、自分の母ながらにその美しさに見とれてしまう。
笑顔が戻った娘に王妃は微笑みながら穏やかに諭した。
「マリー・テレーズ・・・今はこうして監視された中で暮らしているけれどきっといつか
元の通りに幸せに穏やかに過ごせるようになるでしょう。
そのときはあなたもお友達を作りなさい。オスカルのような本当にお友達を・・・!」
「お母様・・・!」
黴臭いタンプル塔の中で王女は母を思っていた。
彼女は数日前に裁判に掛けられるためにこの塔を後にしていた。
母の残した僅かな荷物の中に娘はかつて一度目にしたハンカチに再び出合った
のだ。
『彼女は私付きの近衛隊士、永遠に私の近衛連隊長なのです』
チュイルリー宮での懐かしい母の言葉が甦ってくる。
「あなたは最後までオスカルを信じているのですね…」
王女はハンカチを握り締めて母の送られたコンシェルジュリー牢獄の方角に跪き
祈った。
涙が後から後から流れてくる。
母が父と同じく処刑される運命である事はわかりすぎるほどわかっている。
もう二度とまみえることが無い事も・・・!
それでも王女は祈らずにはいられなかった。
「オスカル、お母様を守って差し上げて。お母様がお母様であるために。
最後までお母様がフランスの王妃であり続けられるように!」
1793年10月16日、王妃マリー・アントワネット処刑。
ただその事実だけがマリー・テレーズの元に届けられた。
最後の瞬間に彼女の胸に去来した思いは…もう誰も知ることが出来ない…
FIN