☆ 午後のまぼろし 〜マドレーヌ〜 ☆


             雨のパリは、一段と美しい。
             世界中探したって、こんなに雨の似合う街はない。
             真珠のような雫に、夏の青葉がしっとりと光り、すべりおちていく。

             「まったく・・退屈だ・・・。」

             そんな外の風景をよそに、アンドレはため息ばかりついていた。

             今、彼は、ばあやの知り合いの菓子店にいる。
             なんと店のカウンターに座っている。
             一昨日、おつかいでマドレーヌを買いに来たのだが、その時、店の主人に
             今日、三時間だけという約束で店番をまかされてしまったのだ。

             この店は、表通りにあるわけでもないので、お客もそう頻繁には来ない。
             今の主人も、ここで修行して先代から店を継いだのである。
             五十年も前から、パリの裏通りで伝統のマドレーヌを守ってきた。

             表通りに出店させたいという話や、店にマドレーヌを卸して欲しいと
             頼んでくる人々は後を絶たない。
             しかし、主人はこの店だけを大切にして、そんなことはしなかった。

             そんな主人の心や、他には真似の出来ないマドレーヌの美味しさは認める。
             しかし、こうやって退屈な店番を任されるのは誰だって好きではない。

             「まったくねぇ・・、俺だって忙しいのに・・・。」
             アンドレはぶつくさ言いながら、傍らにいる、白猫を膝にひきよせた。
             猫は、特注の首輪に、可愛いイチゴの飾りをつけている。
             アンドレに抱かれ、猫は嫌そうな視線を投げかけた。

             「お前の名前もマドレーヌっていうんだよな。ふふ・・・・。」
             なでてやろうとしたのに、子猫の頃いじめたことを根に持っているのか、猫は
             その身をヒュッとしならせて、あっという間に棚の上にのぼった。

             「あっ・・おりて来い!ほらっ!マドレーヌ・・・!」
             アンドレは両手をひろげて、マドレーヌを受けとめようとした。
             しかし、マドレーヌは、フーッという声をあげてアンドレをにらみつける。

             その時である。
             マドレーヌがのぼったせいで、棚の上の調理器具や箱が、バランスを崩して
             まっさかさまに落ちてきたのだ。
             「あ・・・・っ!」
             アンドレは、避けようとしたがもう遅い。
             重いミルク壷がアンドレ目がけて落ちてきたのである。
             ゴツッという鈍い音、頭全体に走る鋭い痛みと、痺れたような感覚・・・・。

             目の前が真っ白になって、アンドレは、気を失ってしまった―――。





             ・・・・もう、どれくらい経ったのだろうか。

             「ニャ・・・・・・ア・・・・・」


             遠く、意識の彼方で、マドレーヌの鳴き声が耳に響く。
             「ん・・・・?マドレーヌ、どこだ・・・・・?」
             アンドレは、ゆっくりと目を開けた。

             店の照明が、オレンジの光のかたまりとなってアンドレに降ってくる――。

             「だ、大丈夫ですか・・?」

             その声にアンドレが驚くと、声の主の、一人の男が目の前にいた。

             アンドレは慌てて飛び起きた。
             「いらっしゃいませ・・すみませんでした!」
             そのアンドレの声に合わせ、マドレーヌも、ニャー・・という声をあげた。
             「三時に、ケーキを取りに来ると言っていたのですが・・?」
             男は、アンドレを心配そうに覗き込みながら言った。

             「はっ・・はい、お待ち下さい!」
             そんなこと聞いてない、とアンドレは思った。
             しかし、今は自分一人しかいない。何とかするしかないのだ。

             「あの・・・ケーキ・・・・。」
             男は、うろたえるアンドレを、ますます心配そうにじっとみつめる。
             「はいはいっ!お待ち下さいね!ムッシュウ・・・!」

             そう言って、ケーキを探そうと、アンドレが引っ込んだ時である。



             「・・・・・・・お待たせしました、こちらですね、ムッシュウ!」


             店の方で、女の声がしたのだ。
             「!?」

             驚いて店に戻ると、今まで見たこともない娘が、カウンターにいた。

             真っ白い、透き通るような肌に、夏の海のような透明なブルーの瞳。
             栗色の綺麗な髪は長く、つやつやとして美しい。
             たおやかな指が、ケーキの入った箱をそっと傾けて、男に見せている。

             「ああ、これです・・!素晴らしい出来だ!」
             男は喜んでそう言い、娘がリボンをかけるのを見ていた。
             「申し訳ございません、今日はお嬢様のお誕生日でしたわね。」
             娘は、箱を男に差し出し、代金を受け取った。
             「やあ・・どうもありがとう。また寄らせてもらうよ!」
             嬉しそうな男の笑顔を見つめながら、娘は、「メルシー、ムッシュウ!」と、
             明るい声で男を送り出した。


             「・・・・・・・・・・・!?」

             その一部始終を、棚の陰からアンドレはずっと見ていた。
             アンドレの視線に気づき、娘はくるっとアンドレの方を向いた。

             一瞬、ふたりの目がパチッと合う―――――。

             すると娘は、つかつかとアンドレの方に歩いてきた。
             そして、アンドレの目の前でとまったかと思うと、いきなり怒り出したのだ。

             「まったく、何をやってるの!?アンドレは!
              ご注文のあったケーキはね、いつもここに置いてあるのよ!」
             娘の指す方には、小さいメモつきのお菓子の箱がいくつかならんでいた。

             「それから、ここの予定表に、何時にどなたがいらっしゃるかもね!」
             また娘の指す方を見ると、予定表にはしっかり、一週間分のお客が、
             書き込まれていた。

             そのうち、今日の予定を何回も何回も指さす。
             「ほらここよ!‘三時 グリンブルゲン様 洋梨のケーキ’!」

             娘はすごく怒っている。
             キッとアンドレを睨んで、機関銃のように話は止まらない。
             「わ・・わかった、わかったよ!」
             アンドレは、話し続ける娘に怒鳴った。
             「何!?その態度は!あたしがいなくちゃ、どうなってたか知らないのに!」
             「それより、お前、誰だ!?さっきから・・どうやってここに入った!?」
             「まあ・・!お前ですって!?」

             そんなことを言い合っていたら、次のお客があらわれた。

             「いらっしゃいませ〜!」
             そのとたん、娘はコロッと態度を変え、お客の注文通りにケーキを選ぶ。
             「アンドレ!赤いリボンを取って!早く早く!」
             娘は、アンドレに指示を飛ばす。

             もうこうなっては、アンドレも娘に従うしかなかった。
             店の勝手を良く知っているし、現れるお客とも仲良く話し出す。
             きっと、自分の知らないうちに雇われた店員が、主人から自分の話を聞き、
             手伝いにでも来てくれたのだろうと、そう思った。

             早くして!アンドレっ!」

             「わかったよ、分かった!」


             その日の三組のお客が終わるまで、アンドレは娘の手下のように働いていた。



             「疲れた・・・。」
             ぐったりとするアンドレに、娘は、ワイングラスを持ってきた。
             「はい、飲みましょう!」
             自分の分と、アンドレの分と、ふたつのグラスを並べて、ワインを注いだ。
             「飲んでいいのか・・?」
             「ご主人は許してくれるわ!はい・・乾杯!」

             その声とともに、カチン・・という音が店に響き渡る。

             「頭、ごめんなさいね・・・。明日が誕生日だっていうのに、
              嫌な思いをさせてしまったわ・・・。」
             娘は、早々と二杯目のワインに口をつけながら言った。
             「・・・・どうして知ってるんだ・・?」

             すると、娘は、アンドレの手をキュッとにぎった。
             柔らかくて細い、白い手だった。

             「知ってるわよ・・、ずっと昔からね・・・・。」

             「どういう事だ・・・?お前、一体・・。」

             「立場が違うってのは、辛いものね。」
             娘は、アンドレのグラスにワインをゆっくりと注いでいく。
             波打つようにしなやかに、ゆっくりと、紅い海ができあがる。

             アンドレは、ワインに口をつけた。
             すると娘はじっとアンドレを見つめた。

             「もう、小さい頃の事を根に持つのはやめたわ。大人げないしね。」
             「何が言いたい?」
             アンドレは、娘ににぎられた手を、ぱっと放した。

             「冷たいのね。また、膝に乗せてくれない?もう今度は素直になるわ。
              絶対に暴れたりしないって約束する。」

             「だから・・・何が言いたい?」
             アンドレは、ワインを飲み干して言った。

             あら・・・・まだ、わからないかしら?」

             娘は、自分の左手首をスッとアンドレに差し出した。

             その瞬間、アンドレは、目を疑った。

             細い手首には、見覚えのある、金色の鎖・・・・。赤いイチゴの飾り。
             見まごう事なき、マドレーヌの首輪だった。

             「そんな・・まさか・・・!?お前、マドレー・・・」

             まるで口をふさぐように、娘はアンドレの唇に、自分の唇を重ねた。

             「・・・・・・!?」
             びっくりしているアンドレに、娘はワインの匂いとともに、そっと囁いた。

             「Bon anniversaire・・・・・・」

             その言葉に、アンドレは、いきなり酔いが回っていった。
             「マド・・・レーヌ・・・・。」

             「お誕生日・・・おめでとう・・。」
             微笑む娘の、唇のやわらかさを胸に抱いて、アンドレは、また気を失った。





             次にアンドレが目覚めたのは、眩しい夕日の光でだった。

             雨はいつの間にか上がったらしい。
             切れた薄雲の隙間から、美しい光がもれている。

             アンドレは、自分の周りを見渡した。
             床には、散らばった道具、落ちてきたミルク壷。

             そばには、あの娘はいない。
             アンドレはそっと、唇に触れた。
             「夢・・・か・・・。」
             そう言って、アンドレはゆっくりと立って、道具の片づけをはじめた。

             「夢だよなあ・・・、そんなはずないもんな・・。」
             自分にそう言い聞かせてはまた、なぜか唇に触れてしまうのだった。

             「マドレーヌ、どこだ・・・?」
             そう言って、店内をぐるりと見回したアンドレの目に飛び込んできたもの。


             それは、ならんだワイングラスの隣で眠る、白猫のマドレーヌだった。




             FIN