マロニエ ]


出発の朝になった。
いやに眩しい朝日が差し込んできたが、アランは瞳を閉じないでいた。

昨夜のヴィスタリアの最後の姿が、頭から離れない。
目に涙をいっぱいにためて、栗色の髪を光らせながら揺らしていた。

アランが鏡の前に立つと、目が腫れていた。
舞台の初日に、目が腫れていないか、ヴィスタリアが心配になった。
きっとヴィスタリアは、アラン以上に辛かったのだろう。

夫がいたのだから、アランとは許されぬ恋だったのだから。


昨夜、この倍以上女を泣かせたくせに、無性に自分が情けなくなって、
アランはまた、頬に熱いものがつたっていくのを止めることができなかった。

にじむ視界の向こうで、アランはオスカルのペンダントを手に取った。
手のひらにのせていると、何となく暖かい気がした。
人形のように繊細なオスカルを思い出しながら、ペンダントを首に掛けようとすると、
ペンダントは一瞬の隙をついて、アランの手からするりと抜けていった。
「あ・・っ!」
アランは手を伸ばしたが、ペンダントは無惨にも床にたたきつけられた。 
その衝撃であろうか、中央にはめ込まれた大きなサファイアは、金具とともに外れてしまったのである。

アランは青い顔をして、サファイアとペンダントを拾った。
すると、ペンダントのサファイアのはめ込まれていた部分に、小さな紙が入っているのに気が付いた。
「・・気づかなかった・・、仕掛けか?」
アランは指でそっと取り出し、小さな小さなその紙をひろげた。


『 ――――永遠の愛を   アンドレ・グランディエへ誓う 』


紙に書かれたたった一行のことばに、アランは声を殺して泣いた。
隊長、隊長と繰り返しながら、ベッドに突っ伏して泣いた。

今の彼には、殺されるよりも数倍辛い一行だった。






     
「・・・それでは、ムッシュウ・シャロン。」

八時を回った春の夜空の下で、宿の主人とレオニが、アランを見送った。
「こんなに綺麗な星空なのに・・行ってしまわれるとは何とも悲しい・・。」
宿の主人は、つぶやく様に言った。
「すいません、全員でお見送りできなくて・・。
 ・・女性陣は、奥で泣いてるんですよ、悲しくてね。」
レオニはすまなそうに言った。  
アランは笑って、レオニから荷物を受け取り、馬車の座席に詰め込んだ。
来るはずのないヴィスタリアの笑顔がふと浮かんだが、握りつぶすようにかき消した。

「世話になりました、おふたりとも。」
アランはふたりと固い握手を交わし、馬車に乗り込んだ。

「元気で、ムッシュウ・・!」

主人とレオニは、いつまでもいつまでも、馬車を見送っている。
夜道に蹄の音を響かせて、馬車は暗い町中を進んでいった。


アランは、馬車の中で、涙が出そうになるのを必死にこらえていた。

愛らしく輝いて見えた、ショコラ色の町並み、小さな店の並ぶ通り。
朝日差し込むカーテンの向こうにそよぐ、木立の心地よい葉擦れの音。

そして、心をこめて愛した、たったひとりの女性――――。

忘れがたい思い出が、アランの心の中に生まれる。
生まれるたびに、心の中に、藤色にも似た爽やかな風が吹き抜ける。
「ヴィスタリア・・!!」
アランは肩を震わせて、馬車の窓から、漆黒の彼方に消えた宿を見た。


その時だった。

大きな揺れと音、馬の嘶きとともに、馬車は急停止した。
「どうした!?」
アランはびっくりして、御者に顔を向けた。
「す・・すいません、急に人が飛び出してきて・・!」
御者は、暴れる馬を押さえつけようと、地面に下りた。

アランは座り直して、ため息をついた。
     
しかし、そんなアランの方に向かってくる足音がある。
ひそかに、コツリ、コツリと音を立てて、夜の闇のように歩み寄ってくる。
通行人ではない。御者の横をまっすぐに通り、それは、アランの前で止まった。

女のシルエットだった。
暗くて、よく見ることなど出来ないが、アランは、自分の胸に生まれた期待が、
だんだんと確信へと変わっていくのが分かった。

アランは馬車の戸を開け、外にいた足音の主を、いきおいよく抱きしめた。

「ヴィスタリア・・・!」

懐かしい香りが、胸いっぱいにひろがった。
その柔らかな体を抱きながら、アランは、涙が溢れてくるのを止められなかった。
「馬鹿なことを・・!馬車の前に飛び出すなんて・・!!」
アランは、ヴィスタリアを見つめた。
いつにも増して綺麗に見えたその体には、煌びやかなドレスを身に纏っていた。
「今日の衣装です、どしても見ていただきたかったの・・・!」
ヴィスタリアは、美しく化粧したその顔で、花のように微笑んだ。


「旦那様、お待たせしました、どうぞお乗り下さい!」

ふたりを引き裂くかの様に、御者の声が響いた。
    
アランはハッとして、馬車に乗り込もうと、ヴィスタリアを振り切った。
「ムッシュウ・・!」
ヴィスタリアはすがる様に、馬車の入り口に立った。
「乗ってと言っても・・乗るはずもないだろう?」
アランはそう言って強がってみたが、今ここでヴィスタリアを引き入れて、
連れて行ってしまいたい気持ちでいっぱいだった。

ヴィスタリアは、綺麗に結ってある髪から、藤色のリボンをほどいた。
しとやかに結われた髪は、跳ね返る様にしてほどけた。
「・・・愛しています、ここで死んでも、悔いはないくらい・・!」
ヴィスタリアは、アランにリボンを差し出した。

アランは、決心した様に、胸に下がったオスカルのペンダントを外した。
闇の中、きらきらと輝くペンダントは、ゆっくりとヴィスタリアに向かっていく。
ペンダントがその細い首にまきついて、白い肌の上で二、三度輝くのを見て、アランはそっと、つぶやいた。

「永遠の愛を、ヴィスタリア・ニコレに・・・。」

一瞬、時が止まったかの様に思えたのは、幻だったのだろうか。
すぐにヴィスタリアの瞳からは、大粒の涙が止めどなくあふれ出した。

「あたし・・あたしきっと、どこにいてもあなたに分かるようにするわ・・!本当よ・・!」

ヴィスタリアは、サファイアにキスをして、アランに誓った。

「さよなら、ヴィスタリア・・・!」
アランはそっと、ヴィスタリアの涙を拭ったあと、すぐに御者に向かって叫んだ。
「出してくれ!」
鞭のしなる音が響くと、車輪はすぐに動き出した。
「愛してるよ、ヴィスタリア・・。」
アランはもう涙を拭いもせず、ヴィスタリアだけを見つめていた。


暗い夜道の向こうから響いた、自分の名前を呼ぶ女の声を、アランは微かに聞いた――――――。







―――パリの夜空は、今宵も美しい。

    
降るような星空を眺めながら、アランは客に、シャンペンを配った。

革命後のパリはすっかり変わっていて、昔の知り合いが事業を興して成功していたり、
もとの衛兵隊の仲間達も、明るい笑顔を取り戻している者もいれば、
その彼の話になると、急に口をつぐんでしまわれるような者も少なくはなかった。

アランは、その知り合いの邸宅に勤めて数年が経つ。
悪戯っぽく呼んでいた『ご主人様』という言葉にも、段々真剣味が増してきていた。
     
今夜はその邸宅で、仕事仲間を招いてのパーティーが開かれた。
給仕をしながら、アランは、誘惑まがいのことをしてくる貴婦人達の手を払いのけるのに精一杯だった。


ひときわ賑やかな婦人達の周りは、ある話題でもちきりだった。

最近、人々をにぎわしてならないものがある。
もちろん、アランだって知っている。

「楽しみですこと、ヴィスタリア・ニコレのパリ公演!」
「ええ!昨夜パリのホテルに着いたそうですのよ、見た方がいましたもの!」

ヴィスタリアは、その美しさと他を寄せ付けない美声で、あっという間に有名になった。
彼女の最後の言葉通り、アランは、どこにいても彼女を感じることができた。

ざわざわと賑やかな笑いが飛び交う香水の匂いの渦に、アランは自分から飛び込んでいく。
シャンペンはいかがですか、と、作り笑顔で女性に微笑みかける。
ヴィスタリアの話題の中に飛び込むなんて、本当は願い下げたい所だ。
しかし、これが自分の、今のアランの仕事なのである。


時々、あのマリンブルーを思い出しすぎることもあるけれど――――。

     

     
ふいに、玄関の方が騒がしくなった。

数人の給仕が呼ばれ、慌てて駆けていく。
何事かと続くパーティー客も、玄関に近づくにつれ、次第に声が大きくなった。
     
アランも行かなければと思ったが、ワインをこぼした客の上着を拭くのに一生懸命だった。
背中で騒ぎを聞きながら、アランは、目の前ですまなそうにする客に話しかけた。

「お召し物の汚れは、ここだけでございますか?
・・・それにしても、一体何の騒ぎでしょうね?」

相づちを打っていた客も、すぐに仰天した顔をして言った。
     
「・・・君は、あれを見ても、そんなに平然としていられるか?」


時計が、午後の八時を告げたとき、懐かしい声が、アランの耳に飛び込んできた。


「アラン・ド・ソワソンさん、いらっしゃいますか?」

アランが振り向くと、あの日と同じサファイアが、あの日と同じように輝いていた。