マロニエ U
「アランさん・・アラン・ド・ソワソンさーん!?」
「どちらですかー?アランさーん!」
今隠れている壁の向こうで、自分の名前を呼ぶいくつもの声がする。
微かな吐息さえも聞こえてしまう、夜の静寂と闇の中の病棟。
アランは病棟の廊下にいた。
手には小さな鞄、黒の外套にマフラー。
息を殺して、じっと、暗闇の中で、看護婦の持った明かりが通り過ぎるのを待つ。
四つほどの光の玉が、ゆらゆらと揺れながら向こうの廊下に行った。
アランはほっとし、鞄を床に置く。
しかし、彼の鞄はドサリと鈍い音を立て、床に落ちた。
「アランさん!?そちら?」
去っていった光の玉が、またゆらゆらと揺れながら戻ってくる。
アランは、胸のあたりをギュッと押さえ、身を固くした。
看護婦達は、アランのいる壁の一歩手前で・・・・止まった。
「いないわね・・・。おかしいわ。」
「隠れようったって、そうはいかないのよ!まったく・・・。」
看護婦達は口々に、しかし小声で話をはじめた。
その様子を、アランは壁の向こうでじっとうかがっている。
屋根の雪が落ちる音と共に、柱時計が夜の三時を打った。
ボーン・・・・ボーン・・・という音が、闇に響いては消えていく。
一瞬の隙をついて、アランは病院を抜け出した。
まだ痛みの残る腕を押さえるようにして必死に走り、門の前に出た。
白い息を吐きながら、外套の襟を立てて、口元にまでマフラーを巻き付ける。
彼の申し訳なさそうな視線の先には、揺れる光の玉。
アランは病院を背にして走り出した。
冷気の中、どこからか、犬の遠吠えが聞こえてくる。
この凍りつくような暗い夜、アランは病院を脱け出した。
闇をまとったかのような黒い外套、夜空のような黒髪。
明るく照っていた月も隠れた。星すらもその光をひそめている。
この日ばかりは、全てが逃げる彼の味方をしてくれていた。
アランは、闇の中ひた走り、ようやく、街の入り口までついた。
家並みが彼を迎えた。ほっと息をついて、後ろを振り返る。
追っ手は、一人もいない―――――。
安堵のため息がもれた。
アランは、胸元に手をやった。
音を立てて彼の手に抱かれたのは、金色のペンダント。
無事に逃げられた嬉しさに、アランはペンダントにキスをした。
そして、小さくたたまれたオスカルからの手紙を出し、静かに開いた。
『 ―――――私の最後のお願いだ
親愛なるアラン 君の体に 身辺に不都合がなければ 引き受けて欲しい
手紙と一緒に 小包を受け取っただろう
入っている金貨は 全て使ってもいい
お願いだ 君しかいない このようなことを 安心して頼めるのは
この手紙と包みが 君の目にふれたということ
それは 私はもういないということだ
いなくなった者は 残った者に 後を任せるしかないのだ
サファイアのはめこまれた ――――金のペンダントを 君に託す 』
アランはペンダントを見つめ、そして空を見つめた。
陰っていた月は、その白銀の面をゆっくりと、地に映しはじめる。
『 ――――――このペンダントを ある場所に埋めてもらいたい
一度だけ 君と アンドレと 三人して馬に乗った あの場所へ
光り輝く湖に遊び 鬱蒼と茂る森に 小さな白い花咲く丘
時間を忘れて駆け抜けた あの日を憶えているか
ペンダントを どうか埋めてほしい 思い出さえも
死んでからは 持っていくことも出来ないのだ
美しき湖と 森と 丘の その先の その先の ―――――――― 』
「・・・・マロニエの並木道、七本目の木の根本へ。」
アランはそう呟き、夜の町並みへ消えていった。
彼の残した白い息が、白銀の月の光に、ふわりと輝いている。
この凍りつくような夜、アランは懐かしきベルサイユに向かって出発した。
思い出という、かけがえのない使命を胸に――――。