マロニエ X


夜のヴェールが街にかかる頃、アランはひとり、ショコラを飲んでいた。

飲み終わったら、カーテンを閉めて、食事の前に夜の祈りを捧げる。
その日を無事で過ごせることが、今のアランの何よりの幸福だった。

夜中から例の騒動で起き出していたアランは、昼間は眠っていた。
何度か夫人が部屋に足を運んだようだった。毛布とメモとパンがおいてあった。
夕方パンをかじり、また美しく沈む夕日を見た。 
未だに体が小麦粉まみれのような気がして、少し気分が悪い。 

読みかけの本を閉じて、アランはドアの方を見た。

さっきから、誰かが自分の部屋の前でうろうろしているのだ。
古い宿の廊下はキシキシと音を立てるので、人がいるのは手に取るように分かる。

「・・・どうぞ、開いていますよ!」
アランは思い切って、ドアの向こうに声を掛けた。
すると、消え入りそうなノックの音がした。

「失礼・・します・・。」

入ってきたのは、昨夜の娘だった。
トレイにアランの夕食をのせ、伏し目がちに静かに歩いてくる。
「・・こちらに、おいておきます、ムッシュウ・シャロン・・・。」
娘はびくびくしながら、トレイを窓際の机に置いた。
そして、おびえた子供の様な目で、アランをちらりと見た。

娘の目は、まるで曇り空のようにどんよりとしている。
大きな瞳は、自分に対する恐怖ばかりを漂わせ、それがアランには耐え難い苦痛だった。

「なあ・・・・おい。」
アランは、思い切って声を掛けた。
「はいっ・・!」
娘は、跳ね返ったボールのようにすぐに返事をした。
その返事は、思惑通りにアランに対する恐怖でいっぱいだった。
「あのことは、もう何とも思っていない。
 俺が勝手に早とちりして、君は一生懸命仕事をしていたのに・・・。」
アランは娘をおびえさせないよう、ゆっくりと話した。

「いいえ、あたしが夜中にあんなことしているのが悪いんです。
 今も謝りに参りました。本当にすみません・・。
 昼間はあの・・歌の稽古があって忙しくて・・・。」

娘は、アランをまた見た。

「歌・・・?」
アランは首を傾げて聞き返す。
歌の話になると、娘は別人のようによく笑った。
「ええ、あたし・・歌が大好きで・・!
 小さな頃からずっと夢見ていました、大きな舞台で歌うこと。
 今度、隣町の劇場で歌劇があって、それに出ることになって・・。」

「だから、あんな夜中に練習を?」
「はい。昼間、稽古でやれなかった分の仕事を、夜中にやらせて頂いてるんです。
 あの時は、スープに入れる野菜の皮をむいていて・・。
 静かにするよう言われていたのですが・・すみませんでした。」

娘は、そよ風のように、ふわりとはにかんだ。

アランは、その美しい形良いくちびるに、何か懐かしさを感じていた。
彼女の栗色の髪は、風にうねる青草のごとく光り輝き、真珠のような頬は、
すこし桃色に染まっているのが分かった。
時々、ふっと右の方を向く、愛らしい癖があるのにも気づいた。

しかし、容姿以上にアランを惹き付けたのは、生き生きとした若い表情だった。
希望に満ちたその顔の、何と美しく輝くことであろう。
自分の理想に向かい、一歩一歩努力する姿勢のなんと清らかなことだろう。

一見物静かなように見えて、その奥には激しく熱い、彼女の夢が燃えたぎっている。 

―――――この女と、どこかで会ったことがある。
アランは、そんな思いをぬぐいされなかった。


娘は、ふと部屋の時計を見た。
「あっ、そろそろ行きます。まだ仕事がありますので・・・。」

アランはその言葉に、胸に矢が刺さったような痛みを感じた。

娘はそんなアランに構うことなく、まっすぐにドアへと歩いていった。
「待ってくれ、その・・・。あの・・・!」
そして、ガタリと音を立てて、椅子から立ち上がった。

「・・・何ですか?」

娘は振り返った。
その瞬間、アランの体に電激が走った。

栗色の髪をしなやかに靡かせて、マリンブルーの瞳に輝きをのせて。

その細い手が、脚が、きらめくくちびるが、アランを捕らえて離さない。
吸い込まれる・・・のまれてしまう。アランは本気でそう思った。

「ムッシュウ、熱いうちにお召し上がりください。」



娘が笑うと、アランの奥に、亡きひとの振り向く瞬間が、幻影のようによぎった。

金色の髪が美しくたなびいて、宝石のような青い瞳が輝く。
強がっているくせに、本当は儚くて、何よりも綺麗で。
氷の肌からときおりのぞく、熱い血潮の真紅の色が、とめどなく美しい―――――。

「オスカル・・隊長・・・!?」
アランはとっさに叫ぶ。
どこかで憶えた感覚が今、鮮明に甦った。
甘い旋律が、アランの心の奥で切ないメロディーを奏でる。
きりきりと締め付けられるような胸の痛み、言いようのない寂しさ。

そんなアランをよそに、娘はまた、笑って言った。

「隊長じゃありません。
 あたし、ヴィスタリアです。・・・ヴィスタリア・ニコレ。」


――――ドアの向こうに消えていく娘の後ろ姿が、アランの中に色濃く焼き付いていく。


「ヴィスタリア・・・・。」
アランは食事もよそに、娘の名前だけをつぶやいていた。

ひとりになったアランの部屋に、娘の甘い香りが切なく漂っていた。