マロニエ Y
ヴィスタリア・ニコレ。
どことなくオスカルの影を落とした彼女に、アランは惹かれていた。
ヴィスタリアもアランに、夜の食事を毎日運ぶ。
そこでふたりは、いろいろな話をした。
家族のことや友達のこと、そして、歌のこと。
時折聞こえてくる鼻歌さえも、アランの心をかき乱すのに十分だった。
きっと恋人がいるのだろう、仲の良い男だっているのだろう―――――。
そんなことを考え始めると、アランの胸はきりきりと痛んだ。
彼女はずっと、この気持ちを知らずに生活しているのだろう。
朝起きて、歌の練習をして、疲れて帰って来て。
お客様、ムッシュウ。自分はそれ以上のなにものにもなれない。
それを分かっているから、その天使の笑顔はなおさらアランに眩しく映るのであった。
午後、アランは宿の裏庭で、使用人のメニーの仕事を手伝っていた。
「へえ・・!うまいもんですね、お客さん・・。」
メニーは目を丸くして、アランの手元を見ている。
アランは得意げに、三本目のにんじんに手を伸ばした。
すでに皮をむいてしまったものは、野菜かごに山積みになっている。
「・・まあな、母親をちょっと手伝ったこともあるし、手先は器用なんだ。」
話を続けながらも、アランの大きな手は、鮮やかにオレンジ色の螺旋をつくりだしている。
「そういえば・・この間、壊れた戸棚直してもらいましたもんね。
料理もできるなんてすごいですねえ。」
「ここの料理長の方がうまいよ。」
「当たり前です、レオニはコンクールで賞をとりましたからね!・・・痛っ!」
メニーはいきなり指を口にくわえた。見ると、人差し指から血が出ている。
「・・これじゃ、どっちが手伝ってるのか、分かんないですね!」
ちょっと舌を出して、メニーが笑った。
「本当だ、はは・・!」
アランもつられて笑顔になった。
「そうだ!」メニーは大きな声で言った。
「表通りをまっすぐ行ったところのレストランに、張り紙してありましたよ。
日雇いのコック募集ですって。この街にご滞在の記念に、どうです?」
「い・・や、遠慮しておくよ。」
アランはちょっと顔を曇らせ、野菜かごに手を伸ばした。
「そうですか、もったいないですねえ・・・あ、噂をすれば・・・!」
メニーは何かに気づいて、裏口をあけ、厨房から顔を出した。
「ほら、見てみてください。あれがそのレストランの料理長さんですよ。」
アランはそっと顔を出し、玄関を見ると、エプロン姿の、格幅のいい男がいた。
「どうぞー!ドナテラおじさん!」
元気な声でメニーが叫ぶと、コック帽を揺らしながら男が入ってきた。
「メニー、しばらくだったね、マイロンご夫妻は?」
男は、メニーと軽い抱擁を交わした。
「奥様と旦那様なら、買い物です、おじさんこそしばらく。また・・ほら!」
メニーは笑いながら、男のお腹をポンポンと叩いた。
「なあに、痩せたくらいだよ、ハッハッハ・・・・!」
アランは、ふたりのやりとりを裏口から見ていた。
「ところで、メニー。」
男は、コック帽をとって、真剣な顔つきになった。
「最近、森の向こうの病院から、男の患者が逃げ出したのは知っているね?」
戸口の向こうで、アランはビクッと震えた。
「え・・ええ、知ってるけど・・。」
実はな、と言い、男はメニーに近づいた。
「どうやらこの近辺にいるらしい、数日前、一つ先の通りで見た者もいる。
病院の者が言った特徴と、ぴったりの男だったそうだ。お前は見たことあるか?」
しまった、とアランは思った。
数日前、天気が悪かったのをいいことに、退屈に耐えかね本を買いに行ってしまったのだ。
「いいえ、見てないわよ。」
メニーは首を振った。
「そうか・・・。ちょっとココがおかしいという話も入っている。」
男は、自分のこめかみをトントンと叩いた。
「お前の所は宿屋だ、変な男が泊まりに来たら大変だろう。心配になって・・。」
「ありがとう、おじさん。今のところそんな人はいないわ。」
メニーは、自分のエプロンで軽く手を拭いた。
「・・ならいいんだ、4日もすれば、警戒のビラもまわるだろう。
泊まり客に気をつけるんだぞ!ご夫妻に絶対伝えておくれ。」
男はコック帽をかぶりなおし、玄関のドアを開けた。
「ありがとう、おじさん。またね!」
メニーは外に出て、男を見送っている。
―――――アランは真っ青になって、へなへなと座り込んだ。
胸元に揺れるペンダントは何かを告げようと、必死に光り輝いている。
アランは、分かっていると言わんばかりに、ペンダントをぎゅっと握りしめた。
「・・まったく、怖いですねえ!脱走した人なんて!」
戻ってきたメニーは、またアランの隣に座って、皮をむき始めた。
うつむいたまま、アランは言った。
「メニー、明後日の晩・・・馬車を呼んでくれ。」
メニーはびっくりして、アランを見た。
「お発ちになるんですか!?」
「あ、ああ・・・。いつまでも・・のんびりできないから・・な・・。」
アランは、震える手で皮をむきつづけている。
「世話になってしまったな・・。」
「寂しくなります、またどうぞ、おいでくださいね。」
野菜のかごを持ち上げて、メニーは厨房へ入っていった。
「(今すぐ発つわけにはいかない・・・。
あんな話が出たすぐ後だ、怪しまれるに決まっている。
俺のことが知れ渡る前に・・それまでに出なければ・・・! )」
アランは唇をかみしめながら、ペンダントに手を添えた。
気が付けば、この日もまた、小さな街の空に夕闇が迫ってきていた。