マロニエ Z


 
                「ムッシュウ・シャロン、顔色がお悪いですな。」

                 宿の主人は、その老木の様な手でアランの右肩を叩いた。
               アランは無理に笑って、何でもないと言ったが、その笑顔は、誰が見ても
               どことなくひきつっていた。
    
               ブロンズ像を無理に笑わせた様な笑顔のまま、アランは部屋に引っ込んだ。
               こうしていても何か辛い。心は重い荷物をくくりつけられたようにずしりとして、
               手足も死人のように冷たく、かたくなっている。

               まさか自分のことがあんなに知れ渡っていたなんて、夢にも思わなかった。
               ここ数日の平凡に満ちた日々を当たり前と受けとめていた自分が、音を立てて崩れた。
               崩れた後には、ただ不安と緊張という残骸が残っているだけだった。

                 アランはペンダントを外し、そっと手に包んだ。
               ―――――ほら、早くこんな街出ていればよかったんだ、アラン。
               今にも語りかけてきそうなサファイアの輝きが、今のアランには痛すぎる。

               アランは膝を抱えて、子供のようにベッドに座り込んだ。

               そういえば、自分はどうしてこの街にこんなに長くいるんだろう。
               下ばかり向いていると、そんな考えがふと浮かんだ。


                 アランの中に、栗色の髪が光る光景が横切った。

               「ヴィスタリア・・・!?」
               次々に浮かび上がるのは、マリンブルーの瞳や、細い体の美しさばかり。
               そして、ちくちくするような、甘い胸の痛み―――――。

                 「・・まさか・・そんな・・・」
               アランは、ヴィスタリアしか浮かばない自分に困惑した。
               アランの心は、もう確定したともいえるその思いの正体を叫び続ける。
               次第にひどくなる胸の切なさにも、それ以上にアランを迷いへと誘う。



                 その時、ノックの音が部屋いっぱいに響いた。
        
               ビクッと体が震え、アランはドアを見た。
               まさか、自分の事がばれたのかと、胸は嵐の海のように荒れ狂う。
               震える声で、アランは返事をした。

                 ドアが半開きになり、女の声が静かに響いた。
          「       失礼します、ムッシュウ・・・。」
               やってきたのはヴィスタリアだった。栗色の髪がこの日も綺麗だった。
               ワゴンにのせられたスープが、この日も美味しそうに湯気を立てていた。

               「あ・・・もう、食事か・・・?」
               アランはほっとして、また笑顔をつくり、ヴィスタリアの方へ近づいた。
               先ほどとは違う心臓の鼓動が、アランを支配していた。

               アランが目の前まで来ると、ヴィスタリアはアランをじっと見つめて、言った。
               「ほうら、やっぱり・・どこか違います、今日のムッシュウ。」
               そのマリンブルーの瞳は、全てを見抜くようにきらきらと光っている。

               「い・・や、別に・・・!」
               アランはまた笑顔をつくるが、すぐにヴィスタリアにベッドに寝かされた。

               「そんなに青い顔をして!何にもないわけないですよ!?
               メニーに何もかも聞きました!昼間からどこかおかしいって・・・・!」

               風に舞う羽のごとく、アランの上に軽やかに毛布が降ってきた。
               そして、天使のようなヴィスタリアも一緒に、アランの枕元に舞い降りた。
        
               「・・・ご無理なさらないでください、腕のお怪我もありますし・・。」
        
               ヴィスタリアはその愛くるしい笑顔を、薄明かりのなかアランに向けた。
               その姿は、荒れ果てた地上に差すひとすじの光のようだった。
        
               ヴィスタリアは何か気づいたように、さっと顔を曇らせた。
               「あ・・何か、心配事でも?それとも・・風邪・・?」
               そう言いながら、彼女はアランの額に手をあてた。  

               アランは、自分の体に大きな火柱が立つのが分かった。
               その火柱は、次第にアランの全てを取り込み、さらに大きく渦を巻いていく。
               どこか体の奥から、言いようのないあの痛みがこみ上げてくる。

                 その時、窓からふいに入った風に、ろうそくの炎が消えた。
               ――――――その瞬間、アランは、ただ一つをのぞいて何も目に入らなくなった。
  
               漆黒の闇が、音もなくぴったりとふたりに張り付いた。
     
               アランはゆっくりと上半身を起こし、ヴィスタリアの髪に指を滑らせた。
               驚き、口を何か動かすヴィスタリアをよそに、アランは言った。
     
               「・・・・君は・・。」