マロニエ [



                  「君・・は・・・。」
        
                暗闇とは、かくも便利なものであったのかと、痺れる意識の彼方でアランは思った。
                こんなにまごついた自分を、目の前の天使に見られたくはない。
                闇が真っ黒なカーテンとなって、アランの恥ずかしさをすべて隠してくれていた。

                「・・・ええ、ムッシュウ。」
                ヴィスタリアは、アランに言った。
                「き・・み・・は・・・!」
                三度目の嗚咽のような声を、アランはやっと絞り出した。

                愛している男はいるか・・・そう言いたいのに、言えない。
                その先に待つヴィスタリアの答えが、心配でたまらないのだ。
 
                知らぬ間に自分の中に息づいてきたものに、アランは今はっきりと気づかされた。

                ―――俺は愛している、ヴィスタリアを愛している。

                アランはそれをやっと、現実のものとして受けとめた。
                今の気持ちは、ただ奪いたいと思い続けた、オスカルへの想いとは違った。
                もっと愛しいと、大切にしたいと思う、穏やかで甘く切なく―――。
 
                ヴィスタリア、と、アランは呟いた。
         
                気づいてみれば、それはこの上なく愛しい。
                しかし、明後日にはもうあの輝く笑顔は見られない。
                そう思うと、今は別れなど考えたくもなかった。
       
                アランは、闇を羽織るかのように手を横に振り上げた。
                がらあきになった大きな胸に、ヴィスタリアは迷うことなく飛び込んだ。
                ふたつの鼓動が、重なり合ってひとつになった。

                「・・ムッシュウ・・・!」
                ため息のようなヴィスタリアの声を、アランは首筋で聞いた。
         
                深呼吸をしたアランは、抱きしめる両手に力を入れた。
         
                「愛している――――!」

                アランは、押し殺すようにそれだけを言った。
                ヴィスタリアの細い腕が、次第にアランの背中をつたのようにはっていく。
                「ムッシュウ・・・。」
                アランの胸に、ヴィスタリアは猫のようにすり寄った。
                そして、じっと、アランを見つめた。
                ガラス玉のように澄んだ瞳は、アランと同じ言葉を伝えようと必死になっている。
                闇の中でも、それは痛いほど輝き、いくすじかの露をもって彼女の頬を潤した。

                アランが起きあがり、ベッドに座ると、ほどなくしてヴィスタリアも座った。
                そして、もう一度深く吸い込むようにして、彼女はアランの胸に顔を埋めた。

                アランはそれを、大海原になったような気持ちでうけとめていた。



                ―――数分後、ヴィスタリアの服はアランの足下で丸くなっていた。
  
         
         
                待ちぼうけをくらって、すっかり冷め切ったスープからは湯気ももう出ていない。
                怒る気もなくしたかのように、じっと夜の闇に紛れている。

                古いベッドは、この夜二人分の重さを抱えていた。
                ヴィスタリアの吐息にあわせ、きしりきしりと低く音を立てる。
 
                もう彼女から、ヴィスタリアからオスカルの影は消えていた。

                あるのはただ、何かを求めて胸を上下させる、ひとりの女だけだった。
                唇が、腕が、脚が、全てが愛しい男を受けとめようとしていた。

                白く美しい陶器のようなヴィスタリアの肌は、温かく、しっとりと輝いている。
                そこにまとわりつく栗色の髪は、いつにも増してつやつやとすべらかで、
                上気したその頬から首筋につたる汗さえ、真珠の色をしていた。

                アランはその姿に、今までに感じたことのない、女の激しさを感じた。
         
                押し殺した声で波打つ彼女の細い体に、アランは繰り返し、愛していると言った。
                ヴィスタリアもそれに答えるようかのように、鼻にかかった甘い声を出して、
                アランに言葉以上の愛をおしみなく注いだ。

                潤んだ瞳がいつも以上にアランに激しく迫ってくる。
                ガラスの声で悶えるヴィスタリアは、闇にすっかり慣れたアランの瞳に生々しく映る。

                それは咲き誇る大輪の白百合のように気高く、美しかった。

         
         

                「アラン・ド・ソワソン・・・。」

                眠りについたヴィスタリアを胸の中に抱いたまま、アランは囁いた。
                「・・・・これが、俺の名だ、ヴィスタリア。」
                そしてまた、額にやさしくキスを落とした。

                空にはもう、夜明けの気配が漂いはじめていた。