マロニエ \
一番鶏を待たずして、ヴィスタリアは部屋を出ていった。
明け方から死んだように眠ったアランは、七時頃、静かに起きた。
眩しい朝日が入り込み、見事に晴れ渡った空だった。
シャツを羽織り、部屋の鏡で髪を整えると、昨夜の跡が首に生々しかった。
体だけではなかった。頭に、心に、全てにヴィスタリアが残っていた。
幸せだった。心に羽がはえて、どこかに飛んでいってしまいそうだった。
しかし、いつまでも幸せをかみしめているわけにはいかない。
アランには時間がない。
明日の夜八時の出発を控えて、やらなければいけないことがある。
今の彼には、これだけは置いていけないというものがある。
アランは何か決心した様に、立ち上がってカーテンを開けた。
小さな鞄に荷造りをしながら、アランは夜の闇が下りてくるのをまっていた。
「失礼します、ムッシュウ。」
透き通る様な声とともに、ヴィスタリアが今夜もアランに食事を運んできた。
しかし今夜は、今までとはどこか違う雰囲気がふたりの間に漂っている。
甘くてとろけそうな、『愛』がそこにあるのを感じる。
食事の用意もよそに、アランはヴィスタリアを引き寄せた。
照れ笑いのような声が耳元にかかると、アランの身体は浮き立った。
昼間は心に固くつなぎとめた決意が、ヴィスタリアの吐息に揺らいだ。
食事が始まってまもなく、ヴィスタリアは封筒を出した。
アランがナイフを置いて封筒を開けると、中からチケットらしきものが出てきた。
「歌劇のチケットです、ムッシュウ。明日の晩・・!」
ヴィスタリアはにっこりと笑った。
「明日の晩・・!?」
アランは驚嘆した。メニーに明日の晩ここを出ると伝えたはずである。
宿の者であるヴィスタリアがそれを知らないはずがないと、アランは思っていた。
「知らないのか、君は・・!」
チケットを持った手が、どんどん冷たくなっていくのをアランは感じる。
「知らないって・・何のことです?」
ヴィスタリアはまだ微笑んだまま、ワインをグラスに注いだ。
アランの背中を、冷たいものがひとすじ、走り抜けていく。
出発を知らなかったなんて、そんなことこっちの方が知らなかった。
しかし、そんな考えに翻弄されている暇はない。
今の俺には、時間がない――――――。
その一念だけを胸に、アランは下唇を噛んだ。
そして、オスカルのペンダントが鋭い光を放ったのと同時に、静かに口を開いた。
「一緒に来てくれ、ヴィスタリア・・・!」
チケットを傍らに置いて、アランはヴィスタリアを見つめた。
「俺は明日、街を出る。・・・ついてきてほしい。」
ヴィスタリアの顔が、さっと曇った。
「う、嘘でしょう・・!?」
「・・嘘じゃない。」
アランは静かに、ヴィスタリアの瞳を見つめた。
「あ・・・あたし・・・!!」
ヴィスタリアの瞳はどんどん涙で潤み、ひとつ、またひとつと頬につたっていった。
その美しい泣き顔に、アランは罪悪感に似た思いを感じた。
「ヴィスタリア、歌を続けたいなら・・パリへ行こう。
こんな田舎よりよっぽどいい講師も揃っている、大舞台に出るチャンスもある。」
アランは身を乗り出して、ヴィスタリアの手をそっと包んだ。
「あたし・・行けません・・ムッシュウ!」
ヴィスタリアは、アランの手を払いのけて立ち上がった。
「さようなら、ムッシュウ・・!」
部屋を出ようとするヴィスタリアを、アランは入り口のドアに押しつけた。
「分かってくれ、俺は・・・・!!」
「分かっています、分かっています、でも、でも・・!」
ヴィスタリアは身をよじらせて、アランを振り解こうとする。
「愛している、愛しているんだ・・ヴィスタリア!!」
アランはヴィスタリアを抱きしめ、もう何度目かになるキスをした。
「ムッシュウ、愛しています、でも、でも・・!」
ヴィスタリアは泣きながらアランの唇を受け入れ、アランの髪をそっと指にからめた。
「どうして頷いてくれない、どうして一緒に行くと言ってくれない・・!
こんなに愛しているのに・・こんなに愛しているのに・・・!!」
やるせない思いでいっぱいになったアランの頬に、涙がつたった。
その時、階下から男の声がした。
ヴィスタリア、いるか、と叫ぶ男の声は、宿の主人だった。
「は・・い!」
ヴィスタリアは涙声で返事をした。
次第に一階は騒がしくなり、数人の声が、がやがやと渦巻いていく。
「早く下りてこい、ヴィスタリア・・!お前の旦那が、フランシスが倒れたんだ!」
いつも温厚なレオニが、焦った大声でヴィスタリアを呼んだ。
「旦・・那・・!?」
アランは耳を疑った。ただごとではない雰囲気があたりを包んでいく。
「聞こえてるのか!ヴィスタリア、フランシスが仕事の帰りに急に・・!」
レオニはもっと大きな声で、ヴィスタリアをせきたてた。
「フランシス!!」
ヴィスタリアは顔を真っ青にして、部屋を出ようとした。
「待て、ヴィスタリア・・お前・・!!」
アランはヴィスタリアの腕をつかみ、無理矢理自分の方を向かせた。
次の瞬間、アランはもう、何も言えなくなった。
ヴィスタリアは首を横に振りながら、涙をいっぱいにためてアランを見つめた。
アランは、その大きな瞳から絶えず流れる涙の輝きに、心を大きく揺さぶられた。
あれほど力を入れていた手も、次第にゆるみ、とうとうヴィスタリアの腕からはなれていく。
「ごめんなさい・・・・!」
乱暴に涙を拭い、ヴィスタリアは一階へ駆け下りていった。