沈黙の庭 T 


初夏の風が吹き抜ける午後は、なぜか心が安らぐ。
この季節の風の匂いは、喜びときらめきに満ちている。

ぬけるような晴天、夕立、清々しい緑、冷えた飲み物―――――。
夏になった嬉しさは、実にいろいろな所にあふれている。


今日、ジャルジェ夫人の部屋からは、清々しい森林の匂いが漂っていた。

「・・・ま・・あ!何てことでしょう、奥様!」
ばあやが目を丸くして、手のひらの小瓶をうっとりと見つめた。
「そうでしょう、ばあや!わたくしも昨日から、蓋を開けっ放しなの・・ほほ・・!」
夫人もまるで少女のような、あどけない微笑みをたたえている。

ふたりの話題の中心には、香水瓶がきらきらと光りながら置かれていた。

まるで、夜明け前の空をそっくりうつしたような、絶妙な美しさを奏でる瓶の色合い。
その中に静かにおさめられた香水の波打つ様は、あの美の女神、ヴィーナスの涙を思わせた。

「この素晴らしい・・みずみずしい匂いといったら!
 奥様にぴったりですねえ、あでやかで、しっとりとした、初夏の樹木・・!」
ばあやは、胸一杯に香りを吸い込んだ。
「ほら、ばあや、このカードも見てご覧なさいな!なんてかわいらしい!」
ピンク色の小さなカードと一緒に添えられたブーケには、黄色いばらが朝露もそのままに束ねられていた。

「オスカルが帰ってきたら、きっとびっくりすることでしょうね・・・!」

ジャルジェ夫人が弾んだ声をだすと、すぐに、部屋のドアが開いた。



「――――母上、それが噂の、‘マダム・ド・ジャルジェ’ですか?」


オスカルは笑いながら、手袋を外した。

「母上とばあやの黄色い声が、オリーブの葉をつたって、下の庭まで聞こえていましたよ、ふふ・・!」

その言葉に夫人は、あら、と言って照れくさそうに口元を押さえた。



――――最近、ベルサイユの貴婦人達の話題になっている、ある女性がいた。
 
ラトゥール・ド・ダルヴァン侯爵夫人。

数ヶ月前、突然に、アントワネット王妃お気に入りの調香師がくびになった。
オリジナルの特注品まで任せた調香師をどうして、と、皆が驚いていたが、原因はこの侯爵夫人にある。

数ヶ月前、アントワネットの午後のサロンに、初めて招かれた侯爵夫人の
つけていた香水に、王妃はすっかり虜になってしまったのである。
しかもそれを自分で調合したというのだから、その時のサロンにいた貴婦人達の驚きは、
想像するのも難しくはないだろう。

香水を毎日取り替えるなど、珍しくもない貴婦人達の世界。
その世界の中心にいるのは、一点の曇りもない美しさのマリー・アントワネット。

彼女に一歩でも近づきたいという貴婦人達の想いは、日を追うごとに加熱して、
今や侯爵夫人のもとには、オリジナルの香りをつくってほしいという依頼でいっぱいなのだ――――。




「――――私は、母上はそんな流行にまかれるような方ではないと思っておりましたが?」

オスカルは、紅茶を片手に香水瓶をちらりと見た。

「わたくしも、初めはそう思っていました。
けれどオスカル、まるでそう・・・魔法なのよ。あの方の香水は・・!」

母親のおそらく初めて見る、熱っぽい浮かれたような目に、オスカルは変な気分になった。

 
「・・・オスカルには、女性の心は分かりません。」
オスカルは、‘マダム・ド・ジャルジェ’を手にとって、まじまじと眺めた。

香水なんて、つけたところでその人が変わるものでもない。
ただ何種類も無駄にあるだけ。
オスカルは、鼻で笑いながら、香水瓶の蓋に手をそっとかけた。


蓋を開けた瞬間、オスカルの体に、衝撃が走った。

衝撃というより、天地がひっくりかえるような感動といってもよかったかもしれない。
その香水は、本当に魔法だった。
グリーンの大人の香りの中にも、花の蜜を数滴たらしたような、少女のような純粋さがある。
それをきりりと引き締め、落ち着いた母に合うように計算された、甘くなりすぎない色の香水瓶。

かつてこれほど、自分の母を想わせる香りがあっただろうか。

緑の森の、朝の澄んだ空気にきらめく白露、そして凛とした静寂。
大きな優しさに満ちた慈愛、心安らぐ聖母の微笑み。

全てが美しく絡みあい、溶け合い、まさにこの香水は、オスカルの、母へのイメージそのものだった。



「・・・・ア、アンドレと、馬に乗ってまいります、母上。」
香水に圧倒されてか、オスカルはぎくしゃくと立ち上がった。
 
「待って、オスカル!」
ジャルジェ夫人は立ち上がり、オスカルを止めた。

「明日、その、ド・ダルヴァン侯爵夫人の誕生会があるの。
 侯爵夫人たってのお頼みで、あなたも一緒に来て欲しいと・・。
 オスカル、興味がないのは分かっているけど、ここは、母を助けると思って・・・。」
 
ジャルジェ夫人は、オスカルに、招待状の入った封筒を渡した。

「・・そんなに悲しい顔をなさいますな、母上。
 オスカルが嫌と言うはずはありません。アンドレを供にくわえてまいりましょう。」

オスカルは、ジャルジェ夫人に軽くキスをして、部屋を出ていった。


オスカルは内心ほっとしていた。
招待状を渡してきたジャルジェ夫人の目は、やさしい、おだやかな光をしていた。
香水を目の前にして、熱病にでもかかったかのような顔をしていて心配だったのだ。

「・・・母上を・・どうやってあそこまで知り尽くしたのだ・・・!
 ふ、ふん!ド・ダルヴァン侯爵など、聞いたこともないがな・・・・!」


末っ子としての甘えが、ほんのかすかに残っているのか。
十九歳のオスカルは、まだまだ、母に寄り添いたいようである。

オスカルは、庭にいたアンドレを大声で呼びながらも、母の部屋に立ちこめた、
あの香りが頭から離れない自分に、少しいらだちをおぼえていた。