月夜の訪問者 中編
「さてと・・まず、名前を教えてくれるかい?」
窓から入り込む月明かりと、ショコラの香りが満ちた部屋の中。
アンドレとオスカル、そして一人の少年が、向かい合って座っている。
アンドレの質問に対して、少年は、今にも泣き出しそうな、大きな
涙の粒を抱えている瞳をぐっとこちらに向けた。
「う・・・っ・・。」
アンドレはたじたじとして、どうして良いか分からないようだ。
オスカルが、少年の座るソファに移動した。
「さあ、こわがらなくていい・・・・。」
少年を、そっと膝にひきよせて、頭を、まるで小鳥でも触るかのように
やさしくなでている。
「泣くことはない。ここは安全なのだからね。」
オスカルは、なめらかな光を放つ少年の金髪に、そっとキスをした。
「ぼくは・・・・、ぼくの名前は、ピエタといいます。」
少年は、一つ一つ言葉を紡いでいった。
「ある事情があって、ぼくはこうやって・・・逃げてきました。
さっきの男達は、ぼくを追って走ってきたんです。
どう考えても・・・馬が追いつくのがはやくて・・・それで・・。」
カップに添えられた小さな手が、カチカチとふるえて音を立てる。
アンドレは、それを見てそっと男の子に近づいた。
「さあ、お飲み。おばあちゃんのショコラは特別おいしいんだ。」
そう言って、男の子、ピエタのカップを掴んだときである。
「危ない!掴まないで!!」
ピエタの大きな声が部屋中に響いた。
「熱・・・・っ!!!」
ほぼ同時に、アンドレのうめくような声がした。
左手の甲を真っ赤にして押さえている。
テーブルには、ショコラが湯気を立ててこぼれていた。
「大丈夫か、アンドレ!誰か!誰か来てくれ!!」
オスカルは、アンドレの手を布で拭きながら階下の人を呼んだ。
「お・・オスカル、大丈夫だ。それにしても・・カップが割れるなんて・・。」
絨毯の上には、真っ二つに割れたカップがころがっている。
「おかしいな、いきなり割れるものでもないのに・・・。」
「どうなさいました!?オスカル様・・・・!」
ばあやが部屋に入ってきた。
「ばあや、アンドレが火傷を!診てやってくれ!」
オスカルは、アンドレをばあやに引き渡し、割れたカップを拾う。
「まあまあ・・・そんなことしないでくださいまし、オスカル様!
アンドレ、あんたは下に行って薬をつけてな。今行くから!」
アンドレが階段を駆ける音と、カップのカチャカチャという音を聞きながら、
オスカルは、ピエタのサファイアの瞳を見つめていた。
(どうして分かったのだ・・・?カップが割れることを・・・。)
オスカルがあまりに見つめるので、ピエタは不思議そうにオスカルを見つめ返
した。
その視線に気づき、オスカルは、あわててピエタの足下を見る。
「だ、大丈夫か?ショコラはかからなかったかい・・・・?」
「・・・・どうして・・割れるって分かったか・・聞きたいですか・・・?」
ピエタのその言葉に、オスカルは悪戯を見つかった子供のようにぎくりとした。
「実は・・・・ぼく・・・・。」
そこまで喋ると、ピエタは、いきなりガタリとたちあがった。
「く、来る!あいつらが来るよ・・・!」
顔を真っ青にして、ピエタはガチガチと震え始めた。
「何だって!?」
「オスカル、正門の所にさっきの男達が・・・!」
手に包帯を巻いたアンドレが、部屋に駆け上がって来た。
「逃げよう、さあ・・さあ早く!」
オスカルは少年に自分のマントを羽織らせ、アンドレとともに、
ころがるように屋敷から逃げ出した。
夜の道に、けたたましいひづめの音が響く。
黒いふたつの陰が、夜の闇に浮かんでは消えて、凄い速さで駆け抜けていた。
「くそ・・・こんな日に月が出ているなんて・・!」
腕の中にしっかりとピエタを抱きしめ、オスカルは言った。
「ぼくは、少し先の未来が・・・読めるんです。」
必死にしがみつく白いシャツを握った手が、ひとつの言葉とともに、
オスカルとアンドレに驚きをもたらした。
「何だって!?じゃあ俺がさっき、ショコラをこぼしたのも・・。」
「はい、分かっていました。もっと早く言えば・・・。」
「・・・気にすることはない・・・・、それよりもっと重大な事がある。」
オスカルは、静かな、しかし強い口調になった。
漆黒の闇の彼方から聞こえてくる、何頭ものけたたましいひづめの音。
追っ手が、気づいて追いかけてきたのだった。
「気づかれたか・・・、くそッ・・・!」
アンドレは、後ろに視線を移した。
「しっかり掴まれ!スピードを上げる・・・・!」
オスカルは、馬の手綱に力を込めた。
外れの森の入り口まで来た、その時である。
一発の銃声が闇を切り開き、馬が嘶いて。その体を地面に倒れ込ませた。
「うわああ―――――――――――――ッ!!」
馬上のオスカルとピエタは落馬した。
ピエタは、強く頭を打ち付けたのか、呼んでも返事がない。
落馬のショックで、気を失ってしまったようだ。
「オスカル、大丈夫か!?」
アンドレが馬を止めて、ふたりの前にひらりと降りた。
「ああ・・しかし、ピエタが・・・気を失ってしまった・・・!」
そう言いながらも、なおもオスカルはピエタの頬を軽く叩く。
「ピエタ!ピエタ!大丈夫か!?」
ふたりはピエタを抱き、森の奥へと入っていった。
月が足下を照らし、ピエタの顔を照らしている。
「上手く・・・逃げ切れるか・・・・!」
しかし、淡い期待は崩れ去った。
「おい、馬がいたぞ!森に入ったようだ!」
「よし探せ!なんとしてでも探し出せ!今度こそ逃がすな・・・!」
男達が、入り口に残してきた馬を見つけてしまった。
「アンドレ、奥に逃げるぞ・・!」
「そんなこと言ったって、オスカル!夜は方角が・・!」
「私たちが散々遊んだ森だ!迷うはずはない!」
どんどん青ざめていくピエタの顔。
それとともに、空も怪しく曇り始め、不穏な空気を漂わせていた。