沈黙の庭 W 
      

数日前から止まない雨は、今日もヴェルサイユを濡らしていた。

「母上、お見えになりませんね・・・。」
オスカルは、ジャルジェ家の応接間で、アンドレと心配そうに
窓の外を見つめた。
 
「困ったこと・・・・。」
ジャルジェ夫人もため息をついた。そしてそっと、
この日のために用意したとっておきのティーセットに目をやる。

深緑色のドレスに、あの“マダム・ド・ジャルジェ”がそっと香った。


数日前のダルヴァン侯爵夫人の誕生会の後、ジャルジェ夫人、
オスカル、そしてアンドレの三人は、侯爵夫人と和やかな時を過ごした。
新作の香水をずらりと並べ、ひとつひとつに歓声と驚きの花を咲かせながら。

『 わたくし、お二人に香水をお作りしたくて――――― 』

紅茶のおかわりをカップにそそぎながら、遠慮がちに侯爵夫人は言った。

オスカルとアンドレは、顔を見合わせ、にっこり微笑んだ。
その美しすぎる微笑に、侯爵夫人も桃色の頬をゆるませた。

 
『 ああ・・・きっと素晴らしい香水をお届けできますわ!
  こんなに素晴らしい笑顔を頂いたんですもの・・・! 』


その日、夜の闇があたりを包む頃、侯爵夫人の繊細な手にキスを落として、
オスカルとアンドレは侯爵邸を後にした。
数日経った今も、オスカルは、鮮明にあの侯爵夫人の笑顔を憶えている。

実は、今日は侯爵夫人が香水瓶の試作品をもってジャルジェ家に来る筈だった。

しかし、この雨である。
ぬかるんだ道に馬車の車輪をとられでもしたのだろうかと、
オスカルも、いらだちにも似た不安を募らせた。

「せめて雨さえなければ、馬を走らせて様子を見るのに・・。」

つぶやくように言ったジャルジェ夫人の口をふさぐように、
突然、雷鳴がとどろいた。
「きゃっ・・!」
びっくりしてよろめいた夫人を、オスカルは慌てて支えて長椅子に座らせた。
 
穏やかな雨は、みるみるうちに表情を変えた。
真珠のように美しかった雨だれは、一変して鉛のつぶてとなった。
窓に、木々に、地面に激しく雨がたたきつけ、音を立てる。
「こんな・・!」
あまりの突然の空の変わり様に、オスカルもアンドレも、
ただただ怒り狂ったような雨を見つめている。

そしてまた、窓辺にいたアンドレの黒髪をほんの一瞬金色に染め、
腹の底まで響くような鈍い音があたりに響いた。
 
一本の激しい光の筋が、遠く東の空を真っ二つに切り裂いたのが見える。
 
 

「奥様、俺、外の様子を見てきますから・・・・!
 侯爵夫人・・これでは何かあっても動けはしません・・!」
アンドレが立ち上がり、応接間を出ようとした。
「私も行くぞ、アンドレ。」
オスカルも、不安に突き動かされるように立ち上がった。
 
その時である。

王家の馬車が、けたたましい音を立ててジャルジェ家に転がり込んできた。
雷鳴のなか、すっかり怯えきって、暴れた馬をなだめるのに精一杯の
御者が、オスカルの目に飛び込んできた。

「お目通り願います、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ准将・・!」
マントの下にしっかりと書状を抱いて、使者が玄関をくぐってきた。
「どうした!何事だ!」
オスカルは急いで階段を駆け下りた。
雨のつぶてと風を受てびしょぬれになった使者は、冷え切った、しかし
しっかりとした瞳でオスカルを見つめた。

「・・・ソレイユ伯爵夫人が・・殺されました・・・!」

オスカルの脳裏に、あの真紅のドレスがあざやかに甦った。
「分かった・・アンドレ、馬車の用意を!」
オスカルはくるりと向きを変えて、アンドレに言った。
 
「この雷雨です、ひどくならない内に、お急ぎ下さいませ!
 ド・ダルヴァン邸にて、皆がお待ち申し上げています!」

耳が裂けるような雷に、オスカルの顔が曇った。

「・・何だって?
 じゃあ、殺されたっていう場所は・・!」

「そうです、准将。
 ・・・ダルヴァン夫人は、すっかり取り乱されて・・!
 夫人がこちらにお伺いする予定だったことも聞いています。
 なのでぜひ、准将に来て欲しいと・・。」

‘マダム・ド・ジャルジェ’の香りを感じたオスカルが振り向くと、
真っ青な顔をしたジャルジェ夫人が、地獄のような雷鳴の中、
呆然と立ちつくしていた。