走れヴィクトール!

※ペットの苦手な方、おすすめいたしません。



 ジェローデルのペットは珍しい犬だった。
 現在のアフガン・ハウンド種。当時まだフランスにはほとんどいない。知り合いのイギリス人から
譲られるとき、『エジプトあたりでバルクジーとかサイノなんとかと呼んでいる』と言われた。
 メス。3歳。名はビルキス。毛色は・・・そう、ベンチに座り、後ろから見ると金髪の美女と並んでい
るように見える。前に回るとイヌだったのかー!という毛色である。外見は優雅。しかし駿足が自慢
のれっきとした獣猟犬である。

 ビルキスは召使いたちに身体をさわられるのが嫌いだった。
 毎日のブラッシングさえ、手際のよくない犬舎係には勤まらない。まして風呂となれば。
 「ヴィクトールさま、お湯がわきました」
 「うん・・・」
 ふつうこういう仕事の前には着替えて髪を束ねる。上半身は裸でもちょうどいいくらいだが、ビルキ
スの主人は上着と指輪をとるだけだ。平民にはそこらへんの感覚はわからない。
 ビルキスは翡翠のついた首輪をはずされた。お風呂だ、と思うと隙を見て逃げる体制に入る。
「おさえているから湯をどんどんかけて」
 庭の一角には湯桶と浴槽とタオル、石鹸、ブラシがずらり。
 大型犬の長毛種。洗うのはたいへんな作業である。ビルキスは牙をむき、湯をかけられるたび
に不機嫌に唸る。主人の左手がしっかりと抑えていなければ、唸りはものすごい咆哮になる。右手
は粗汚れを落とし、皮膚までしっかり濡らしていくが、これも本来ならもうふたりくらい手伝いがほしい。
ビルキスが嫌がって騒がなければ。
 抱き上げて、一旦浴槽につからせ、冠毛から尻尾の飾り毛、足先まですっかり濡れてから犬用の
石鹸が使われる。絹のような柔らかいビルキスの毛は下手に揉み洗うともつれる。体臭が落ち、輝く
艶を出すために、ていねいにしかも手早く。女性の手と競えるほどの美しい手が、泡と死毛でまだらに
なりながら繊細に動くさまは見事である。
 じっとしている犬でさえ楽な作業ではない。ビルキスはつっぱる。無意識に蹴る。気味悪さに全身を
ふるわせそうになる。いやがるからと手を抜いた部分には必ず汚れが残るのだ。すすぎも生半可では
いけない。石鹸分の残ったヒフはかぶれる。洗う以上にたんねんに、しつこいほど繰り返しすすいだ後
に特製の香料入りの湯につけて、上げて、ざっと水気を切って・・・。一度、ここでホッと気を抜いた途端
に何を思ったかビルキスが地面にゴロゴロと転がってしまい、目も当てられないやりなおしの姿になった
ことがある。召使いたちは心中かなり庶民的な罵り言葉をつぶやいた覚えがあった。
 「よし、ビルキス」
 人間たちはさーっと離れる。逃げ遅れた者はふりそそぐ水しぶきを浴びることになる。
 マルチーズだの小型のテリアだのがプルプルと水を切るならかわいいものだが、ビルキスのサイズに
なると「ブルッ!ばばばば・・・」に近い。
 今回、逃げ遅れたヴィクトールはもう充分に濡れていた上、顔面への直撃をくらった。
よしと言ったのが自分である手前、文句も言えない。
 あとで風呂に飛びこむからもういいのである。はしゃぐビルキスはヴィクトールにとびつく。
 「ハゥ、フォッ、フォッ・・・」
 「もう一回しなさいビルキス」
 耳をめくって、フーッと息をふきかける。
 くすぐったい!
 ビルキスがふたたび、みたび、身を震わせて主人に雨アラレを注ぐ。
 待ちかまえるタオル部隊がわっと囲む。ついでにヴィクトールも犬用のタオルで拭かれたりするが、鷹揚な
性格なので気にしない。ここで出来る限り水分をとり、速やかに暖炉の前に移動し、ウチワで扇ぎたてながら
ブラシをかけて完全に乾かす。その手際と早さがビルキスの輝くような毛づやを左右する。タオルでくるんだ
愛犬をかかえ、ジェローデル大尉は走る。美に対する真摯な姿勢は脱帽ものであるが、本人の姿は既に
大雨の中で神憑って踊り狂ったあとみたいである。
 この日にかぎって、よりによって上官のオスカルが所用で伯爵家を訪ね、噂にきく珍しい犬を見ようと庭へ
案内を乞うなどと、誰が予想しただろう。
 貴族の中の貴族とその物腰を讃えられる副官がずぶぬれのくしゃくしゃのシャツ姿で髪振り乱し、濡れた
毛むくじゃらの妖怪じみたケモノをかかえて走っていくのを、オスカルは呆然と見送った。
 見てはならないものを見た。
 「きょうは・・・帰ります。や、お構いなく・・・」
 黙っていてやるのがたしなみだろう。上官に見られたと知ったら、静かにピストル自殺でもしかねない。
 明日、顔をあわせて笑いをこらえるために、心の準備をしないとな。
 自分もむかし髪を乾かすときじっとしていなくて侍女たちをてこずらせたっけ。

 自然に、帰り道は犬のことを考えた。姉たちはネコや小型の抱き犬をもらって可愛がっていたが、自分は
大型の猟犬に親しまされた。

 ジャルジェ家の犬舎で首位をつとめる犬の多くは“ドラグン”の名を与えられた大きなオスである。
 その何代目かのドラグンは中でも巨大なグラン・ダノワ(グレート・デーン)だった。ある日、将軍が無謀にも
その背中に小さなオスカルを乗せた。
 いいオトナが、主人の子とはいえ2歳の幼児を背に乗せてお相手せねばならないとは。
 やわらかい金髪に青い目をした乳臭い生き物はかれの背中でキャッキャとはしゃぎ、ばあやと奥方は今にも
落ちるのではとはらはらし、ドラグンは困って上目遣いに将軍を見ていた。
 「オンマ、ドードー」
 いい気になったチビはまわらぬ舌でわめきながら巨大な犬の頸をもみじのような手で叩いた。
 おれは馬じゃないぞ・・・
 怒るのは大人げない。うんざりした大犬は尻をおとし、腹這いになってしまった。オスカルのバランス感覚が
良かったためか、犬がすばやく背を水平にしたためか、どちらにせよ“落犬”はしなかった。
 おそれを知らぬコドモはドラグンの耳をつかんで“立て”と命じたがきいてもらえず(よい子はまねしてはいけ
ません)、将軍が笑いながらこの暴君を愛犬から引き離してくれた。
 「じきにポニーを買ってやる。・・・やんちゃですまんがなドラグン、ま、犬へのマナーを教えてやってくれ、はははは」
 主人のコドモはたくさんいるが、裏庭の犬舎までやってきて錚々たるドラグンの一党にかまうのはこの末の
チビだけだった。
 鳥猟・水中作業犬、小型獣猟犬、大型獣猟犬、もしくは闘犬、警護犬・・・。
 馬と犬、少し前まで鷹は、武具と同じくらい大切な帯剣貴族の財産である。古代は獅子と闘ったマスティフ、
大型獣相手のグランダノワ、水泳が得意なプードル、おだやかで嗅覚にすぐれたブラッドハウンド、走るため
の芸術品のようなブリタニースパニエル・・・さらにそれらの優れた点を引き出した雑種たち。
 将軍がやってくると無数の尻尾がバタバタと振り立てられ、陽気な連中は吼えはじめる。「狩りに、はやく行こう」
と。気の弱い人間ならその迫力におじけづく光景だが、オスカルはかえって喜んだ。
 “嬢さま、スワレだよ。これはフセだよ。マテ、ツケもそのうち教えてやるよ。出来たらおれたちをちょっと撫でて
くれよ”
 “大きくなったな嬢さま。おれたちにイタズラはしなくなったしな、いい子だよ。馬に乗れるようになったって?
狩りにももうすぐ行くかい。猪狩りに女の子は来ないんだが、嬢さまはどうだい?”
 このドラグンはオスカルが十の年に死んだ。犬舎係と将軍に撫でられながら、すっかり肉の落ちた躰を木陰
に横たえて。オスカルと幼馴染が覗きこむと長い尻尾を小さく動かして、最後のあいさつをした。
 狩りで致命傷を負い、あるいは治療が面倒だと射殺される犬に比べれば、老いても大切に世話された大往生だった。

 レグルー、アリデラーン、ジェゼベル、べテル、フルカス、ユーディト・・・
 忙しくてあまりかまってやれない、今いる犬たちのどれかを洗ってみようか。
 楽しい想像がふと浮かんだが、オスカルはすぐに首を振った。
 ばあやが眼を三角にして許してくれないだろうから・・・。

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 18世紀の犬事情を、いい加減な知識だけで書きました。もっと詳しくご存知の方、おかしい箇所を見つけられ
た方、教えて頂ければうれしく思います。なお、アフガンハウンドが全てフロぎらいだということはありません。
狩猟はほんとは苦手なスリンク