鏡よ、鏡  若葉編 おまけ

  ☆☆ らいばる ☆☆


 ルイ17世はのびをした。
 ハプスブルグ家とブルボン家のすぐれた点ばかり受け継いだといわれる青年王である。
 母ゆずりの肌の色とやわらかい金色の巻き毛。父ゆずりの鷹揚さと上背。最高神ユピテルの若い日の姿などと言われるたびに、本人は恥ずかしさのあまり畑に穴を掘ってもぐってしまいたくなる。
 肩の凝る外交問題を論議し終え、さて家族と夕食をとる前に着替えてトリアノンの農園をひとまわり・・・。クワを振りまわせば気分は爽快に、ごはんもおいしくなるだろう。
 会議をすっぽかした王妃はヤギの乳でチーズでもつくっているのだろうか。
 ゆったりした表情を徐々に取り戻した国王に、女官のひとりが控えめに耳打ちし、王は苦笑いした。
 プチ・トリアノンでまた異変が起こったらしい。
 いそぎやってきた王の前で、アニルールとオスカルが睨みあって固まっていた。
 「陛下、ご足労をおかけし、申し訳ございません」
 王妃付きのソワソン嬢が深々と頭を下げた。
 「何だかお酒くさいね」
 「は、それがその・・・」
 卓上には酒瓶がずらりと並び、生き写しのふたりの前には空のグラスがそれぞれ鎮座している。
 オスカル・・・軍隊では将軍でもある王妃の母・大公妃は不敵な笑みを浮かべていた。最近ますますあでやかになった美しい顔の切れ長な目元がわずかに染まり、サファイアの瞳は本人の意思と裏腹にとろりと潤んで、なかなか色っぽい。
 このオスカルを正確に十年ばかり若返らせ、冷たい気品を幾分か取り去ったような王妃アニルール。嫁姑というならまだしも、正真正銘の母娘であるだけに確執の根は深い、らしい。

 おだやかな午後のこと。教育問題か何か些細なことで口論をはじめた(いつものことである)オスカルとアニルールは、どういう思考の飛躍か、飲み比べで決着をつけると言い出した。
 どちらもウワバミである。絶対の自信があった。
 止める側近たちを尻目に、相対した二人は平然と流し込む。ワインなんて上品なものではない。女性なら、いや並の男性でも二、三人は酔いつぶれる量が消えたが、オスカルの白面には朱色の影もなく、アニルールもけろけろしておかわりを催促する。
 侍従も侍女も口を開けて飲みっぷりを眺める中、アンドレがころあいを見てむしろけしかけた。
 「急に暴れ出されてはかなわない。正気かどうか、なにかしゃべってみろ。ほら、王妃さまもご気分はいかがでございますか?」
 オスカルの目の光がやや、強くなったようだ。酒で凶暴になったのか。
 「王妃には、軍事費の削減を王に進言されたとか。それはまことか」
 「いかにも。陛下にわたくしが武家の出ゆえご遠慮なさることはないと申し上げました」
 「勝手なことを・・・」
 「母上もうすうすはお考えのことでございましょう」
 口をきいたことで二人とも急速に酔いが回ったらしい。アニルールの姿勢が一瞬ぐらついた。オスカルの目つきもさすがに座ってきたようである。白い美貌が、目尻にほんのわずかに紅をはき、白目はむしろ普段より青白く澄んで光る。凄艶な視線の前で、アニルールはさりげなく扇を使って強がり半分、晴れやかにほほえんだ。
 あとは泥試合であろう。ディアンヌがはらはらし、おひやを差し出したが無視された。
 「引き分けるか?」
 アンドレの声に、だが二人ともガンコに首をふる。
 「では好きなだけやってなさい」
 労力を節約し、アンドレはさっさと次の間にひっこんで、待つことにした。
 「王妃も相当にお考えが深くなったようだが、だが、が・・・」
 「が、なんでございます?からみ酒でしたの、母上?アニルールもいつまでんこどもではねーちゅーんだ、軍人がせーじに出張ってくるとロクなこたーねえの、でございます」
 からんでいるのはどっちだ。
 「ふふ。言葉が乱れてきた。母と張り合うのは十年早いぞ」
 「そのお言葉聞き飽きましたわ。もそっと気のきーたこともおっしゃってみてわ」
 理性のタガがきしんだ。二組の視線が花火を、いや火花を散らした。すでに歩く酒樽。今、火のついたマッチでも口元にかざせばどちらも火を吹くに違いない。
 「ディアンヌ、酒がきれたぞ。王妃がつぶれるまでお持ちしろ」
 「も、もうおよし下さいませ。お昼からずっと飲み続けで、これではおからだに障ります」
 「ジャルジェの血筋はそうやわではない」
 「年寄りの冷や水だべ」
 「口ばかり達者だが、実はもう座っているのがやっとだろう」

 手におえずとみたディアンヌがこっそり呼びにやった、ただひとりこの場を分けられる人物が到着したのはこの時だった。
 「まあまあ、将軍も王妃も、こんどは何をいがみあっているんです」
 その場が突然いなかのお花見気分になる。おっとりしたこの声が割り込んでくれたことを、側近たちは心から感謝した。
 「母上、まいっただか」
 アニルールが妙にしゃがれた声で言った。いとしいジルに声をかける余裕がどうやらないらしい。
 「おろかもの。そなたこそ舌がもっつっれ、ているぞ。強情もほどほどにすることだ」
 こちらも国王に敬礼するのを忘れている。前代未聞のことである。
 国王の声に答えねばとあせってはいるのだが、アルコールで朦朧とした脳はもう言葉をまともに組み立てることができなかった。アニルールもじぶんたちが何を争っていたのか思い出そうとしきりに長い睫毛をしばしばさせるが、はーるか酔いの彼方に流れていってしまったようだ。
 「水のめ、アニルール。なんてぇ目してんだ。昼間っからどんだけ飲んだ?底なしじゃっちゅーても、限度を知れ。さあ、義母上も・・・だれか、グランディエ殿を呼んできてくれ」
 私的な会話になると国王夫妻のいなか訛りは一生ぬけなかったと言われる。水差しを取って妻と義母に水を飲ませる、マメな国王である。
 「わたくしならここに」
 控えの間からおもしろくもなさそうな隻眼の顔がのぞいた。
 「おそれながら陛下。・・・わたくしが思いまするに問題はこれといってなく、単にのんべえの血が騒いだだけ、ではないかと。おふたかたともこのご気性であらせられますゆえ、あとはご想像のとおりでございます。もうひといきで意識が飛びまする。わが主人はわたくしめ、責任を持って屋敷に引き取らせますゆえ、なにとぞもうしばらくご辛抱のほど」
 「あ、いえいえわたしは構いませんから、どうぞごゆっくり」
 義父にあたるが決してそれを明かしてはならないこの男が、ルイ17世はちょっぴり苦手だ。
 「あにごちゃごちゃゆーているのだあんどれ、へーかをいぢめてはいかんー」
 「そーら、とーちゃんものむらよ」
 いつも甘えている男たちの顔を見て、そろってロレツがあやしい。姿勢が崩れないのはさすがというか、意地っぱりもここにきわまるというか。
 「はて、王妃陛下のお父君は先年ご領地にてみまかられました。これはただのグランディエでございます」
 さりげなくアニルールの手の甲を叩いて諭すアンドレの声が羽根のようにやさしい。オスカルに向かっては「国王の御前だぞ」と。
 〜〜こくおうの、ご〜ぜ〜ん、だーーーぞー〜〜
 オスカルの耳にはその声が水の中のように遠く、とおーく間延びして聴こえた。
 くらっ、とアニルールは天井がまわった。いかん、あっちとしたことが。
 既に二人とも大トラである。気がすむまでやらせるべきか、とアンドレは思ったが、このふたりが倒れずに暴れ出したときのことをかんがみ、からかうのはやめた。いくら酒豪のジャルジェ家の胃袋を持っていても、脳みその方が酒で溶解してしまうかもしれない。
 「まったくどちらもお強い。すごい。つづきはまた改めてなさいませ」
 ひじでルイ・ジョゼフをつついた。この場をしめろ、国王だろう。
 「それがいい。きょうの所は引き分けです」
 ああ、外交問題もこの一言で収められればいいのに、と若い国王は茫洋と思った。
 国王夫妻と大公妃は会釈をして別れた。
 「と・・・ぐらんでぃーえさん、はは上のおみ足がもつれっから、きーつけてな」
 「おこころやり感謝いたします。アニルールさまもごきげんよろしう」
 「あっちはひとりで歩けるだー・・・ジルってば、心配ねえ〜」
 「ああ、わかってるって」
 若夫婦のむつまじい後姿を見ながら、オスカルは背筋をしゃんと伸ばした。誰の足がもつれるだと?
 何事もなかったように大股にホールをぬけ、アンドレが廻させた馬車を涼しい顔で待ち、平然と乗り込んだ。
 アンドレが席につき、扉が閉まったとたんに金髪の頭が華やかにその胸にくずれおちた。
 「悔しい・・・娘と引き分けなど!誰が国王を呼んだのだ、もうひといきだったのに、くそっ、何とか言えあんどれ・・・!」
 「ああ、惜しかったな。おまえの勝ちは見えてたよ」
 「そうだろう、わたしはくやしひ・・・」
 オスカルはなにやら酔っ払いのたわごとをむにゃむにゃ言いながらつぶれてしまった。
 そっと襟元をゆるめ、らくなように座席に横にした。
 アニルールも今ごろジルに同じようなことを言ってかわいい寝息をたてはじめたころだ。想像すると目尻が下がる。
 (ま、国王よりおれのほうがあやし方はうまいがな)
 それは年季の差というものだ。
 (あの若造も国王にしちゃ、マシな方だよ・・・。だから娘は任せてやるよ。面と向かっては口が裂けても言いたくないが。おれはオスカルで手一杯だから)
 馬車はトリアノンののどかな農園をぬけ、たそがれの中を宮門に向かっていた。
 右目の隅に何かを感じた。正殿の前庭に、一瞬ふしぎなものを見た。
 ルイ17世と王妃の像が仲よく並んで、もうずいぶんと古びている光景を。
 窓から顔を出す間もなくそれはゆらりと消えていった。
 頭をふった。アンドレは一滴も飲んでいない。
 茫然とした。オスカルに話したらきっと笑うだろうと思った。
 「親ばかの願望だとか言って」
 なんにせよ、あれはじぶんたちには決して目にすることのできない、ずっと先の世のことだろう。

 そんな未来がくるかもしれない、とろりと静かな夕暮れどきだった。