水の心8


「は、は・な・よ・めぇ〜!?」
オスカルは、体中の力が抜けていく気がした。
「おまえ・・・・・頭打ったからおかしくなったんじゃないか?」
掴まれたままの腕が熱く感じる。
「いいや・・・・なぜ、最初に見たときに気づかなかったんだろう。
 おまえはあのときの女の子に間違いない」


オスカルの頭の片隅で、なにかがチカッと光った。
このひたむきな瞳の色を、わたしは知っている!
『じゃあ、僕が迎えにきてあげるよ! 僕が君を花嫁にする!!』


呆然と自分を見ているだけの彼女に、アンドレは優しく語りかけた。
「覚えてくれていないのかな? 俺は、ずっとおまえのことを忘れなかったんだぞ。
 薄暗い森の中で命の水を探している俺に、おまえはやさしくしてくれたじゃないか?」


『命の水は、水の精の城に涌いている泉の水なんだ。よし、持ってきてやる!』
『ほ、ほんとうに? 君にそんなことができるの?』
『任せておけって!』
幼い二人の会話が記憶の中からわき上がってきた。


「あのあと、俺は母親が亡くなって親戚の家に引き取られていったんだ・・・・・
 おまえのことは、ずっと、森を挟んだ違う国の子だと思っていた」
「・・・・・・・・」
「すぐにでも探しに行きたかったけど、まだ子どもだったしな。
 大きくなるにつれて、あのことが夢のようで本当にあったことだったのか確信できなくなった。
 でも、おまえのことは、ずっと心の中で想っていたんだよ」
アンドレの言葉はオスカルの心の中に、浸み渡るように流れ込んでくる。
胸が苦しい。
なんだろう、この甘酸っぱい気持ちは?
まっすぐに自分を見つめる瞳に吸い込まれそうで怖い。
自分が自分でなくなるような不安がある。
「で、でもわたしは・・・・・」
泉の中に逃れようとしたオスカルを追って、アンドレも立ち上がって水の中に足を踏み入れた。
両腕を掴んで自分にむき直させると、俯こうとする視線を捕らえて懇願した。
「お願いだ、おまえが人間でも水の精でもなんでもいい。
 俺の花嫁になってくれないか・・・?」
「あ・・・・・」
頬を染めたオスカルに、アンドレはずくんと身体の中からわき上がる熱を感じ、本能の命じるまま
そっと唇を合わせた。
初めて触れるそれは、しっとりと柔らかで温かくて・・・・
何度もついばむように口づけた後、かすかに震えるオスカルの身体を抱きしめ、むさぼるように唇を奪う。
一瞬固くなったオスカルは、口づけが深まるにつれてぐったりと力が抜け、アンドレにもたれかかるように
その身を預けた。
息も止まるようなキス・・・・・
身体の中から熱いものがこみ上げてくる・・・・・
大きな波がわたしをさらっていくようだ・・・
それが怖くて、アンドレの身体に縋り付いた。
びくともしない逞しさを感じて、胸がきゅんとする。
泉の水は、そんな二人の足下でゆらゆらとたゆたっている。


ようやく離された唇は、口づけの余韻を残して濡れていた。
潤んだ瞳を愛おしそうに見つめ、アンドレが語りかける。
「・・・・・俺は・・アンドレ・・・」
「ア・・ンドレ・・・・・」
オスカルの唇から自分の名がこぼれると、言いようのない喜びが涌いてくる。
「そうだ・・・・・おまえの・・名前は?」
「わたしは・・・オスカル」
「オスカル・・・・・オスカル、愛している。あの時からずっと・・・」
そのとたん、泉の水が二人を中心に渦を巻くように流れ出した。
驚く彼らを祝福するかのように、水面がきらきらと虹色に輝く。
呼び合うように、森中の木々の葉がさわさわと揺れだした。
甘やかな風が、二人の傍らを優しく吹き抜けていく。
「な、なんだ?」
「わたしにもわからない・・・でも、ひょっとすると・・・・」
頬を染めるオスカルに
「ん? ひょっとするとなんだい?」
そうアンドレが聞き返したとき、
「きゃーーっ!! オスカル、おめでとう!」
「これで二人は、晴れて夫婦ね!」
「ステキだったわよ〜、さっきのキス!」
「もう、心臓バクバク!」
「あ〜〜ん、うらやましい!」
にぎやかに水の中から現れたのは、言うまでもなくオスカルの母と5人の姉たちだった。
「・・・・・また、のぞいてましたね〜〜〜〜?」
「あらぁ、当たり前じゃない!」
「可愛い妹のあなたのことが心配で心配で・・・」
全員が無邪気ににっこり笑う。
思わず目眩を起こしたオスカルの身体を抱き支えながら、アンドレが話しかける。
「あ、あのう、あなた方は? それに、おめでとうというのは??」
「うふふ、アンドレはじめまして、じゃなくって、お久しぶり!」
「わたしたちはオスカルの姉なの」
「おめでとうというのは、あなたがオスカルの花婿として水に認められたからよ」
「泉の中で二人が互いの名を呼んで口づけを交わしたことが、もう、正式な結婚式なの」
「ええっ!!??」
驚く二人に向かって、母親が静かに話しかけた。
「アンドレとオスカル、その通りなのよ。
 わたしたち水の精は、心を許した人にしか名を教えません。
 オスカルの名を知る唯一の男性がアンドレ、あなた。すなわち、オスカルの花婿なのです」
びっくり!
自分たちの知らないうちに結婚式を挙げたことになってしまうだなんて・・・・・
思わず顔を見合わせると、あらためて恥ずかしさがこみ上げてくる。
母親は、そんな二人を微笑んでしばらく見つめていたが、真面目な顔でアンドレに話しかけた。
「アンドレ、あなたは嘘偽りのない心でこの子を求めてくれました。
 それが、泉の水を通して森中に伝わったから、こうしてわたしたちも姿を現したのです」
「は、はい」
「お聞き及びと思いますが、わたしたち水の精は、人間の濁った心や悪意にとても弱いのです。
 すぐ側に、つねに変わらず美しい心で接してくれる者がいなくては、生きてゆけません。
 この森に守られていないならば、なおさらです。
 あなたがわたしの娘を預けるに足る男性かどうか、失礼ながら試させてもらいました」
「はあ・・・」
「あのね、この森の中をぐるぐる歩き回らされたでしょ? あれもテスト」
「そうそう、ただ欲だけで来ている人は、たいていあれでぶつぶつ悪口を言い出すの」
ねーっと頷き合う。
「それから、偽りのプロポーズをすると、泉の水が濁るのよ」
「もちろん、わたしたちにも嘘か本当かくらいはわかってしまうのだけど」
「ミイラになる伝説を作って脅しておいても、名誉欲や好奇心で来るやつは後を絶たないものね」
ミイラと聞いて、アンドレはぎくっとした。
「あ、あのう・・・・邪な人間は、本当にミイラにされるんですか?」
おそるおそる問いかける。
水の精達は、一瞬きょとんとして彼を見たが、声を揃えて笑い出した。
「きゃははは・・・・そんなことするはずないでしょ!」
「あー、おもしろい! やっぱり、人間はそう信じてるんだ!」
「ですが、ほんとうに黒い川が流れ出してきて、ミイラがその川に浮かんでいたと・・・」
「うふふふふ、あれはね、木の根っこ」
「はあ?」
「ミイラを誰も近くでは見てないでしょ?」
「そう言えば・・・・流されていくのを見ただけだと・・・・」
「そりゃそうよ。根っこと気がつかれないように、わざと泥水で一気に流すんですもの」
「でも、じゃあ、戻ってこなかった人たちは?」
「邪心を懲らしめるためと、この命の森を守るために、記憶に封をして違う国へ帰すの」
「だから、みんな他の国でぴんぴん生きてるわよ」
「・・・・・そうだったんですか・・・」
肩の力が抜けた。
「ところで、お二人さん?」
「はい?」
「いつまでそうやって抱き合ってるわけ? まあ、仲がいいのはけっこうだけど」
「!!」
にこにこ顔でからかわれて、真っ赤になった二人はぱっと離れた。
「さ、城へ行ってみんなでお食事でもどう?」
母親の一言できゃーっという歓声があがったのは言うまでもない。