月世界より 11
オスカルはカフェテリアで一人、シンプルな白いテーブルに肘をついて座っていた。
三週間後に迫った創立記念祭の編隊飛行の訓練が始まり、
ただでさえ過密なスケジュールがよりハードなものになってきた。
厳しい訓練の疲れを、温かいショコラの甘さが和らげてくれる。
幼い頃のやさしい思い出とつながっているせいだろうか。
身体が疲れているときや、気持ちが落ち着かないときに飲みたくなる。
軽く膝を組み、ときおり顔にかかるブロンドを気怠げにかきあげるその姿は、
星間航空科のストイックな制服と相まって、なんともいえない艶やかさを醸し出している。
オスカルのいる空間、そこだけがまるで絵のように光の中に浮き出ているようだ。
いったん視界にはいると、目を離せなくなるほどの美しさ。
だが、周りの人々が自分を憧れをこめた瞳で見ていることを、本人は少しも意識していない。
「オスカルさま!」
「ああ、ロザリー」
ぴょんぴょんとはずむような足取りで近づいてきたのは、最近知り合った木星出身のロザリー。
とくに約束すると言うほどでなく、休憩時間にタイミングが合えばいっしょにお茶を飲むという
気軽なつきあいが続いていた。
ロザリーは家があまり裕福ではなく、衛星大学入学にあたって奨学金を受けている。
それは、彼女が優秀で努力家であることの証だとオスカルは思っていた。
「ひさしぶりにお会いできてうれしいです」
にっこり笑うと、ジュースをのせたトレイを持って向かいのイスに座った。
「もうすぐ創立記念祭だからね。お互い忙しい身だからしかたない」
「オスカルさまは、また、編隊飛行パイロットに選ばれたんですよね!
しかも、隊長機とお聞きしました。
・・・・・・すごいなぁ〜」
ロザリーの憧憬をこめた眼差しにじっと見つめられ、さすがにオスカルも頬を染める。
「ありがとう。
でも、母上は喜んではくれるものの、心配の方が強いようだよ」
「それは、仕方ないです。母親ってそういうものですから」
「ところで、ロザリーはこの頃どうしていたの?」
「はい。記念祭の研究発表のために、実験が続いていて。
わたし自身の研究ではなく、アシストに入っているだけなんですけど」
「栄養学だったよね。どの教授なのかな」
ロザリーは、いたずらっぽく笑って、
「それは秘密です。
でも、画期的な研究になると思いますから、発表を楽しみにしていてくださいね」
と答えた。
宇宙空間を15機の最新型飛行艇が隊列を組んで疾走している。
《6号機、ターンのタイミングが遅い!》
《6号機了解!》
《10号機、11号機、飛行位置がずれている!》
《10号機確認します!》《11号機了解!》
《10秒後、パターンB開始! 10・9・8・・・》
インカムから、ひっきりなしに指示応答の声が飛び交う。
隊長機に搭乗しているオスカルは、レーダーで隊列を確認しながら、
飛行訓練を続けていた。
20種類ものパターンで隊列飛行を行う。
どれもタイミングがずれれば、大事故につながる難易度の高い飛行隊形だ。
“星間一”という名声を維持するために、15名のパイロット達は真剣に訓練に取り組んでいた。
編隊飛行は、個々の飛行テクニックだけでなくチームワークと隊長機のリーダーシップが求められる。
毎日の訓練は充実したものだったが、隊長は自機の操縦だけでなく隊列全体に気を配らねばならない。
オスカルは、しだいに疲れがたまるのを感じていた。
やがてポートに訓練を終えた15機が次々とすべるように着陸した。
休む間もなく、司令塔で指示を出していた教官とともにミーティングが行われる。
所定の位置に機体を止めると、オスカルはヘルメットを取り、
銀色に輝くパイロットスーツの襟元をゆるめながら大きく息をついた。
コックピットに地上係員により梯子が横付けされ、オスカルは機体から外に出る。
彼女が床に降り立つのをジェローデルが待っていた。
「隊長、お疲れさまでした」
「ああ、ジェローデル。お疲れさま」
「・・・今日のミーティングが終わったら、食事をご一緒したいのですが」
それには答えず、オスカルはヘルメットを小脇に抱えると通路を歩き始めた。
ジェローデルも同じようにオスカルの横を歩く。
「なぜ、最近はわたしの誘いを断るのですか?
なにか、貴女を不愉快にさせることをしたのならあやまります」
「いや、きみのせいではないんだ・・・・」
「では、なぜ?」
「ちょっと疲れ気味なので、自分のフラットでのんびり食べる方がいいだけだ」
「・・・・たしかに疲れていることはわかりますが・・・」
ジェローデルの瞳が心配に翳るのを見て、オスカルの胸がいたんだ。
まさか、恋人と噂されるのがいやで、などとは言えない。
ジェローデルのことが嫌いなのではない。
容姿も端正で、教養にあふれ、いつも自信に満ちあふれている。
同じ星間航空科で学ぶ者同士、共通の話題だって多い。
だが・・・・・オスカルには彼を恋人として考えることはできなかった。
彼とは同じスタンスで競い合えるよきライバル、そんな対等の関係でいたい。
だから、今の友人関係を崩さずつき合いたいというのが本音だった。
「創立記念祭が終わったら、また誘ってくれ」
「オスカル、そのことなのですが・・・」
ジェローデルが言いかけた言葉は、アランの呼ぶ声でさえぎられた。
「おーーい、隊長さん! 教官がミーティングルームで怖い顔して待ってるぞ!」
「ああ、今いく。さあ、ジェローデル、ミーティングだ」
「はい・・・」
二人は足を速め、アランの後を追ってミーティングルームへと向かった。
「何にしよう」
カフェテリアのショップで、オスカルは夕食を物色している。
フラットへ帰る前に、持ち帰りの食材を選んでいた。
機能的にパックされたそれは、レンジで温めるだけのものから、
調理は半分ほどすんでいて自分の好みに味を付け仕上げするもの、
素材のパックをしたものと、メニューはもちろん調理方法もいろいろ選べる。
オスカルは、調理済みのパスタとサラダ、そしてフルーツの盛り合わせを選び
カートに入れる。
ふと、シチューのパックが目に入った。
『そういえば、アンドレにシチューをごちそうになったままだった』
オスカルはしばらく考えた後、パスタとサラダのトレイをもう一つずつカートに入れ、
レジへと向かった。
荷物を持ってアンドレのラボに向かう。
『アンドレはまだ忙しいのだろうか。
でも、もし手が空かないようなら、食事だけおいて帰ればいいし・・・・
だが、迷惑だったら・・・』
しぶる気持ちをなだめすかしながらラボに近づくと、強化アクリルの壁面を通して
すがすがしい木々の緑が見えた。
立ち止まって見ていると、ふいに木の間からクーが姿を現す。
白い鬣、クリーム色の光沢を持った身体。
地球で見かける馬よりもはるかに小柄だが、やはりその姿は馬である。
クーは、しばらく葉っぱを食いちぎるような格好をして遊んでいたが、
たたずんでいるオスカルに気づいたようだ。
首を振り、前足を振り上げて歓迎の気持ちを伝えてくる。
それを見て、さっきまでためらっていた気持ちがすっと引いていった。
クーに誘われるようにラボのインターフォンを押す。
“オスカルじゃないか!? 今開ける!”
なにも言わないないうちに、モニターで自分の姿を確認したらしい驚いた声がして
扉がシューッと静かな音を立てて開いた。
「どうしたんだい、びっくりしたよ」
白衣を羽織ったアンドレが、変わらない笑顔で言った。
「あ、急にすまない。
いつか、シチューをごちそうになったままで。
この間も、手ぶらで来てしまったし・・・」
オスカルが早口でそう話すと、アンドレはちょっと驚いたように眉を上げたが、
穏やかな声で言った。
「そんなこと気にしなくていいのに。
でも、ほんとうにうれしいよ。
もう少しできりがつくから、よかったら実験スペースに来て待ってくれるか?」
「ああ」
オスカルがうなずくと、アンドレはうれしそうに微笑み先に立って歩き出した。
『よかった、あまり邪魔にはならないようだ』
オスカルはほっとしながら慎重に歩く。
アンドレのラボ内は地球の6分の1しかない月重力の設定になっているため、
気を抜くと飛び上がったり、身体が投げ出されるようになったりするのだ。
そろそろ歩くオスカルの横を、クーが『大丈夫?』というようにつきそって歩く。
「編隊飛行の訓練はたいへんなんだろう?
この間、アランがここに来て愚痴をこぼしていったよ。
こんなことなら選ばれなきゃよかったぜ!ってね」
「ふふふ・・・あの男がそんなにめげているようには思えないが」
初めて入ったアンドレの実験スペースは大型特殊コンピュータをはじめとして
電子顕微鏡や物質解析装置の他、オスカルには用途がわからない計器類で埋まっていた。
アンドレは粉末状になった物質を、スプーンでシャーレに小分けしながら話している。
「まあな。どちらかというと、あれは自慢話だな」
ひとつのシャーレを、電子レンジに似た装置の中にセットし、タイマーをかける。
「これでよし。あとは20分後だ」
残りのシャーレに蓋をして、保管庫にしまう。
後ろから手元を見ていたオスカルは、好奇心に勝てず思わず訊いてしまった。
「その粉は何? いったいなんの実験なんだ?」
言ってから、しまった!と歯がみした。
仮にも衛星大学のラボである。
その研究は最新、最先端のものであり、すべてが最高機密とよんで差し支えないのだ。
だが、アンドレは気軽に答える。
「ああ、これはルナ・モスから抽出した成分を結晶させたものなんだ。
これを使って、ちょっとした試みをね」
「そんなことわたしに話してもいいのか?
訊いたのはわたしなのだが・・・」
オスカルの方がうろたえてしまう。
「かまわないよ、あと少しで発表だし。
それに、ここまでくればもう盗用の心配もないさ」
「盗用?」
アンドレは、ゆっくりと頷いた。