月世界より 12


「俺がまだ月で研究しているときに、どこかの企業が研究所員を買収して、
 データやサンプルを盗み出そうとしたんだ」
「なんだって!」
ピピピピピ・・・・・・アラーム音がして数カ所のランプが点滅を始めた。
「あ、ちょっと失礼」
アンドレは、いくつかの計器で数値を確認すると、コンピュータの前に座り
キーボードに手を置いてすばやく数式をインプットし始めた。
目はディスプレイに向けたままで話を続ける。
「俺は、月でもラボ内で生活していたんだ。
 というより、両親とも研究員だったから、生まれついてずっとラボ育ちなんだよ」
オスカルはアンドレの傍らに立ち、ディスプレイを眺めながら耳を傾けた。
「祖母がやはり研究者でね。
 幼い頃に母親と父親を亡くしたものだから、祖母が俺の親代わりだ」
複雑な数式とグラフが、矢継ぎ早に表示される。
「家族の他にもたくさんの研究員が居たから、みんなに可愛がられてさみしくはなかった。
 俺も見よう見まねでデータを記録したり、実験をさせてもらったりしているうちに
 なんとなく実験や研究が面白くなったんだ」
コンピュータが打ち込まれたデータを元に計算・分析を始めた。
「祖母や研究員に勉強を教えてもらえたし、衛星ネットスクールでいろいろな単位も取った。
 ラボには子どもなんて他にいないから、競争相手がなくてのんびりしてたよ」
ウィィ…………ンとコンピュータのうなる機械音がする。
「実験を手伝わせてもらってるうちに装置の使い方や薬品の性質も自然に覚えられて、
 そのうち、自分で勝手にいろいろ試してみるようになった。
 ところがある時、俺がいたずらでやったことで面白い結果が出てね・・・」
ピッと短い信号音がして、分析結果がディスプレイに表示された。
アンドレが研究者の目でそれを眺める。
「なるほど。予想通りだ・・・・」
オスカルはその横顔をじっと見つめた。
アンドレは淡々と話しているが、研究所の大人達に囲まれ、遊び相手もない子ども時代は、
きっとさみしかったに違いない。
実験が唯一の気晴らしだったのではないだろうか。
オスカルはそんなことを考え、自分もさみしい気持ちになっていく。
「同情なんていらないよ」
アンドレが顔を向けて静かに言った。

・・・・・・・アンドレはエムパス(感情感応力者)だった・・・・・・
オスカルは、そのことを忘れていた自分のうかつさを叱った。

「いたずら実験の結果を祖母に話すと、最初は信じてもらえなかった。
 意地になって自分なりにデータをとって、もう一度それを見せながら話したんだ。
 そして、俺の発見がどうやら画期的なものらしいとわかり、地球連邦に研究助成を申し出た。
 金額的なことばかりでなく、内容が・・・・ね。
 とても、研究所助成や企業助成で済むものではなさそうだったから。
 地球連邦でもその内容に驚いて、さっそく調査官が直々に月まで来たくらいだ」
オスカルは、驚きを新たにした。
地球連邦の研究助成は、その規模と水準から言って一個人がなかなか申請できるものではない。
星間全体から多数の申し出があるが、許可が下りるのはごく僅かだと聞く。
「そうした動きが企業にもれたんだろうね。
 なんとか研究に参加させてもらえないかと数え切れないくらいのオファーが来た。
 あんまりアクセスが多くて、研究所のオフィシャル回線が使用不可になる騒ぎだったんだ」
その騒ぎを思い出したのか、アンドレが口元をゆるめる。
「そのドタバタの中で功をあせった企業が研究員を買収した。
 まあ、あの頃は盗まれても困らないデータしか集まっていなかったんだけど・・・
 でも、祖母は信頼していた所員に裏切られたわけだから、とてもショックを受けていた・・・」
しばしの沈黙の後、オスカルはそっと訊ねた。
「それでこの衛星大学に?」
「ああ、月の研究所とまったく同じか、それよりも最新型の設備を整えてくれるということだし、
 ここにいれば、へんな企業の利己的なオファーに悩まされることもない」
このB−R16は衛星全体が大学なのだから、不審者は空港ですべてシャットアウトできる。
なるほど、重力設定のできるようなラボで研究しているわけだ。
まさか地球連邦が後援していたとは。
オスカルは純粋に感心していた。

「はじめは、この研究成果をルナンのために使うつもりだった・・・・・
 ルナンの歴史は知っているだろう?」
オスカルは頷く。
「ルナンはエキセントリックで快楽に弱く、エピキュリアン(快楽主義者)と言われている。
 地球にはルナティック(狂気)っていう言葉があるんだってね」
オスカルは今度も頷くしかなかった。
「満月の夜は心が騒ぐ。
 出産も満ち潮のときが多い。
 すべて、月や月の引力によって引き起こされる。
 どうやらテラナンのDNAには、月の影響を受ける遺伝子が含まれているらしい。 
 だからかな・・・・・同じテラナンを祖先に持つ、我々ルナンがこんな風なのは・・・・」
アンドレは背もたれに体重をかけ、腕を頭の後ろで組んだ。
視線を空に向けたまま、話し続ける。
「俺はね、オスカル。
 俺たちルナンが、もっと楽に生きられるようにしたいんだ。
 テレパスやエムパスといった能力は、望まない者にとっては邪魔でしかない。
 そういう超常能力をコントロールする力を持つにはどうしたらいいか、
 あるいは、そんな力などあってあたりまえの社会にするにはどうしたらいいか・・・・
 いつもそんなことばかり考えてしまうんだ。
 なにしろ、俺たちルナンは出産からして当局の管理下に置かれているのだから」
オスカルは、さびしげなアンドレの横顔をじっと見つめ黙って聞いている。
「でも、この衛星大学に来ていろいろな人の感情と出会い、少し考えがかわった。
 地球連邦内には同じような悩みを持つ人種がたくさんいることを知ったんだ。
 同胞であるルナンももちろん大切だけれど、もし、俺の研究成果がすべての星で役に立ったら
 もう少し過ごしやすい社会にできるんじゃないかと思ってる。
 いや、そうしなければいけないんだ」

オスカルは、アンドレの言葉がすっと心に入ってくるのを感じた。
自分はテラナンで、しかもテラにおいても恵まれた環境に生まれたため、
亜人種が抱く被差別感情をほんとうには理解できないかもしれない。
だが、ルナンやその他入植星の歴史を顧みると、単に”地球生まれ”というだけで
自分を”特権階級”と思いこみ、尊大にふるまっていたテラナン達は
責められてしかるべきだと思える。
しかも、快楽のために、ルナンの人権を無視した憎むべき所業が半ば公然と行われていたのだから。

「ルナンは、すべての者がエピキュリアンじゃない。
 性的感覚が強いから、それに引きずられてしまう心の弱い者もたしかに少なくないけれど。
 多くのルナンは、ほんとうに愛する相手としか性的な関係を持たない。
 愛情から関係するのか、単に快楽をむさぼりたいだけなのか、わからなくなってしまうからだ。
 だから、はっきりいって他の人種よりセックスには慎重なくらいなんだよ」
オスカルは頬が赤くなるのを感じた。
あまりそんな話題を淡々と告げないで欲しい・・・と願った。
そんなオスカルの恥じらいを感じたのか、アンドレはにやりと笑った。
「レディに実験室で話すには、ふさわしくな話題だったな。
 悪かった。
 でも、ルナンは恋愛にはほんとうに臆病で傷つきやすいんだ。
 それを知らずにセックスだけを強要されると、精神に異常をきたしてしまうくらいに。
 だから、不幸な時代には廃人になってしまうルナンが後を絶たなかった。
 それも、テラナンをはじめ他の人種がルナンをほんとうに理解していなかったために
 起こった悲劇の一つだ」
オスカルは、大きく頷いた。
「・・・わたしもいろいろな資料でそれを知ったとき、暗澹たる気分になった。
 同じテラナンとして、すまない気持ちでいっぱいだ・・・・・」
アンドレはオスカルのその言葉を聞いて、うれしそうに目を細めた。

「俺はね、オスカル。
 場合によっては研究成果を人質にとって地球連邦を脅迫しようと考えてるんだ」
「脅迫!?」
オスカルは思わず大声を出してしまった。
「大きな声で・・・・・しっ! 誰にももらすなよ。最高機密だぞ?」
いたずらっぽく念押しされて、オスカルも冗談かと納得した。
「ああ、びっくりした。
 脅かさないでくれ。ただでさえ疲れているのに心臓に悪い」
「ははは・・・悪かった。
 疲れさせたお詫びに、お茶でも煎れよう。
 さあお嬢様、お手をどうぞ」
立ち上がり、ふざけて手を差し出すアンドレに、オスカルもくすくす笑いながら合わせる。
「それでは、遠慮なく」
明るく答えながら、アンドレに手を重ねた。
そのとたん、オスカルはふれ合った掌から熱いものが怒濤のように流れ込んでくるのを感じた。

『これは、なに?
 身体の芯を通り抜け、甘いうずきをよぶこの熱いものは?』

「とまどっているね・・・」
アンドレが切なげに眉を寄せて囁く。
オスカルは頼りない眼差しでアンドレを見つめた。
「俺も・・・おまえといっしょだ・・・・・・とまどっている・・・・・
 この感情は何なんだろう・・・・」
アンドレは目を閉じた。
「・・・痛み、せつなさ、困惑・・・ほんのちょっとの怒りと圧倒的な甘さ・・・・・」
オスカルは手を握りしめられ、電気が流れるようなしびれを感じてびくっと身体をふるわせた。
「オスカル・・・・こわがらないで・・・・!」
アンドレが碧色の瞳でオスカルを見る。
「おまえは・・・・俺たちルナンの憧れそのものなんだ・・・・」
「え?」
思いがけない言葉だった。

「その昔。
 何もない不毛の大地に降り立ち、入植生活を始めたルナンの憧れと願いは3つだった。
 あふれるほどの緑に覆われた大地、
 青々として命を育む豊かな水、
 そして、さんさんと降り注ぐ黄金の太陽・・・」
謳うようにアンドレは囁く。
「緑に憧れるあまり、ルナンの瞳と髪は緑色になったという伝説がある・・・・」
そう、アンドレの瞳と髪は純粋のルナンを現す深い深い碧色をしている。
その瞳にじっと熱く見据えられ、オスカルは動けなくなっていた。
「ルナンが心の底から憧れた水の青、そして太陽の黄金をおまえは持っているんだよ」
アンドレはそっとオスカルの髪の一房を手に持った。
「なんて美しい黄金の髪・・・・・陽の光を集めたようだ・・・・・
 そして・・・」
オスカルの瞳をのぞきこみながら言葉を紡ぐ。
「湖面のように透き通った青い瞳・・・・・
 ああ・・・魂ごと吸い込まれてしまいそうだ・・・・」
アンドレの凝視に耐えられず、オスカルは思わず瞼を閉じる。
そして、唇に温かいものが押し当てられるのを感じた。