月世界より  13


『ああ、あのときと同じだ・・・』

ゆったりと流れ込んでくる温かな感情。
それはオスカルのすべてを優しく包み、安堵と興奮を同時にもたらす。
その心地よさにすっかり身をゆだねようとしたとき、唐突に身体を離された。
「・・・・・え?」
まだ、焦点の定まらない瞳でアンドレを見つめる。
オスカルの両腕を捉えたまま、彼は苦しげな表情をしていた。
「なぜ?」
思わず唇からこぼれた問いに、アンドレはいっそう苦しげに眉を寄せた。
「すまない・・・・・でも、これ以上はだめだ」
その言葉は、オスカルの心に冷たく刺さった。
「・・・だめ・・・とは?」
自分の腕をつかむアンドレの掌からは、熱いものが流れ込んでくるというのに。
アンドレは、振り切るようにオスカルの腕を離した。
視線をはずし、うつむき加減で自らに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「さっきも言っただろう・・・・ルナンはセックスには慎重なんだ。
俺も・・・・一生を添い遂げる女性とでなければ、そういう関係にはならない・・・・」
「・・・・・・・・」
「ほんとうに愛し愛されているのでなければ、セックスはただの色欲でしかない。
そんな身体だけの関係をおまえとは持ちたくないんだ」
「・・・・・わかった・・・」
アンドレの言葉を聞き、オスカルはなぜか目の奥がつんとするのを感じた。
そんなオスカルの感情をエムパス能力で読んだのか、アンドレがあわてたように話し出す。
「おまえを嫌っているんじゃない!
俺は、まだおまえのことをよく知らない。
美しく魅力的な女性に対する、単なる憧れなのかもしれない。
男ならだれだって、おまえのような女性とつきあいたいと願うだろう。
俺だって、短い間にこんなにも一人の女性に惹かれたのは初めてなんだ・・・」
「アンドレ・・・」
「もっと、おまえのことが知りたい。そして、俺のことも知って欲しい・・・」
アンドレはまっすぐにオスカルの瞳を見つめて訴えた。
深い碧の瞳に映る自分が頷くのを、オスカルはじっと見ていた。
「オスカル、俺は・・・」
アンドレがなおも言葉を続けようとすると、インターフォンが来客を告げた。
アンドレは時刻を確認し、来客が誰かわかったらしい。
さっと壁に近づくとスピーカーのスイッチを入れ、相手がなにか言うより早く
「いつものようにリビングルームへ入ってくれないか。すぐに行くから」
と告げた。
〈・・・・・〉
スピーカーからかすかに聞こえてきた返事は、女性の声のようだとオスカルは思った。
「すまない、来客の予定があったのに・・・」
「いや、俺こそ・・・・・うっかりしていて」

アンドレにエスコートされるように実験スペースから出て、
樹木の間を抜ける。
ガサガサと音がしたかと思うと、葉の間からルナホースのクーが姿を現した。
「クゥ、クゥゥゥ」
甘えるような鳴き声に、思わずオスカルの頬がゆるむ。
無意識にさしだした掌にクーが鼻面を押しつけてぺろりとなめた。
「ふふふっ・・・・お前は甘えん坊だな」
「まったくだ。もういい年だというのに」
憮然としてつぶやくアンドレの言葉が気になった。
「いい年って・・・・この子は何歳なんだ?」
「え?あ、いや・・・・何歳だったかな・・・・」
うろたえたようなアンドレに、オスカルは首をかしげた。
「たしか、ルナホースは無理な遺伝子操作が災いして、短命だときいた覚えがあるが」
「・・・・ああ、そうだ。こいつらも、我々人間の被害者かもしれない」
クーはアンドレの感情に反応したのか、今度はアンドレの手をなめた。
アンドレは、そんなクーを愛しげに撫でてやり、
「ずっと一緒にいるから・・・・・・」
独り言のようにささやいた。


アンドレのラボを後にして、自分のフラットに帰り着いてから、夕飯のために買った食材をそのまま置いてきてしまったことに気づいた。
「まあ、いいか・・・・たしか、買い置きの物がなにかあったはずだ」
最近ほとんど使わないキッチンをのぞくと、真空パックのシチューがあったので、それを食べることにした。
たった一人の食事がこんなに味気ないものだとは・・・・
テラの最上級レストランなみの味付けだというシチューも、少しも美味しく感じられない。
オスカルはあきらめたようにスプーンを置くと、あらためて自分のフラットを眺めてみた。
機能的なテーブルにスツール。
壁はやさしいクリーム色の布素材だが、床は合成樹脂で、ところどころにカーペットが配色よく敷かれている。
ベッドスペースも同じで、壁になつかしいテラの風景を描いたリトグラフと、家族の写真が何枚か飾られているだけだ。
「アンドレの部屋とはだいぶ違うな・・・・」
自然の木材が豊富に使われている内装と、あちらこちらに置かれた植物の鉢植えが、なんともいえない温かみを醸し出していた。
もっとも、彼はラボが与えられている研究者、自分は言ってしまえば一学生だ。
この衛星大学では、出目で差別されることも、優位に扱われることもない。
「母上が嘆かれるはずだ」
フラットの画像をメールしたときの、母親の反応を思い出して笑いがこみ上げた。
『なんてことでしょう!
ジャルジェ家の娘がそんな味も素っ気もない狭い部屋で暮らすなんて!
だから、衛星大学への進学には反対したんですよ。
しかも、危険な飛行実技がたくさんあるのでしょう?
オスカル、お願いだから考え直してちょうだい』
父も、あのあと母をなだめるのに、さぞかし苦労しただろう。
やさしい母に、尊敬できる父。
家柄とか資産よりも、オスカルは自分の両親が心から愛し合い、姉たちや自分に温かな家庭を与えてくれたことに感謝していた。
その両親の愛に応えるためにも、まず衛星大学を無事に卒業し、念願の星間宇宙艇艦長になることが目標だ。
願わくば、夫となる男性にも、そんな自分を受け入れて欲しいと思った。
ジェローデルならば、同じ目標を持つ者同士、励まし合いながらともに歩んでいけるのだろう。
だが、オスカルは自分の心が、深い碧の髪と瞳を持つルナンに惹かれていることに気づいてしまったのだった。