月世界より 5


「オスカル」
ふいに廊下で呼び止められ、オスカルはたった今脱いだばかりのヘルメットを
小脇に抱え直した。
訓練機の離着陸する衛星ポートから、基地内に入る通路。
無機質なリノリウムの廊下を照明が明るく照らしている。
訓練を終えた航空科の学生パイロット達が、三々五々その中を歩いていた。
「わたしになにか? ジェローデル」
無表情に返す。
オスカルは、なんとなくこのジェローデルが苦手だった。
長身で、ウエーブのかかったセピア色の長髪がよく似合う知的な容姿。
よい家柄の出身らしく、物腰も優雅で礼儀正しい。
だが・・・・・・・
自分に対してどんな気持ちを持っているかがつかめないのだ。
ライバル視?
いや、それにしてはその視線はあまりにも・・・・・
「今日の攻撃訓練、すばらしかったですね」
「・・・・・ありがとう。君も教官にほめられていたじゃないか」
オスカルの応えに、ジェローデルは前髪をかきあげながら微笑んだ。
「いえ、はっきり言って、わたしはマニュアル通りのやり方しかできない。
 だが、あなたは臨機応変という言葉がおこがましいほど
その場その場で的確な判断をされている。
 実践の場で求められる力をお持ちだ。
 それが、すばらしいと思っているのですよ」
今度は心からうれしいと感じた。
「ありがとう。なによりの讃辞だ」
わずかに口元をほころばせ、礼の言葉を述べると、ジェローデルの表情が明るくなった。
「いえ、思ったことを言ったまでです。では・・・・」
脇をすり抜け、足早に去っていくすらりとした姿を見送った。

基地内のシャワールームで汗を流した後、これからのスケジュールをモニタで確認する。
「今日はこの訓練飛行の報告書を提出すれば終わりか。
 明日は、午前中に講義をふたつ受けて、午後はシュミレーションテスト」
ふうと小さくため息をもらし、どっとソファに座り込んだ。
「さすがに週も終わりに近づくと疲れる」
独り言をつぶやきながら手近にある端末機を引き寄せ、報告書を作成しだした。
パスワードを打ち込み、目当てのサーバにアクセスすると、手早く必要項目を打ち込んでいく。
静かな室内にしばらくキーを叩く音だけが流れた。
「これでよし、と」
送信ボタンを押して報告書提出完了。
頭の後ろで腕を組み、背もたれに体重をあずける。
白い壁を見つめながら、ふと先日訪れたラボを思い出した。
「あんなにたくさんの緑、久しぶりに見たな・・・・・」
そして、その中に立つ碧色の髪と瞳の男性。
黒と見まごうような深い深い碧色。
「地球の植物にたとえると、明るい南国でなく、深い雪に閉じこめられた国の
 木々のような・・・・・」
だがその男性は、逆に春を感じさせるような温かな雰囲気の持ち主だった。
「・・・・・ルナン」
オスカルはルナンの歴史を思い出した。
『真の意味でルナン』である彼は、いったいどんな生い立ちなんだろう。

ルナンの類いまれなテレパス能力は、他の面でも珍重されていた。
快楽を共有するとき、ルナンは相手の感じる快感をも自分のものとして受け止める。
そして、自分の受けた快楽をそのまま相手に返すのだ。
つまり、ルナンとのセックスは、快感が二重にも三重にも増幅されるのである。
一度ルナンを手に入れた者は、誰でも二度と離せなくなると言う・・・・・
そのため、性的目的を持ったルナンの拉致監禁が頻発した。
地下組織による人身売買が行われていた記録さえある。
連邦政府がルナン保護にやっと重い腰を上げたときには、
純粋なルナンは、すでに絶滅したのではないかとさえ言われていた。

「たしか、当時、ルナン保護法を立法させるのにルナン出身の女性科学者が
 大きな働きをしたと、どこかで読んだ覚えがあるが・・・・」
オスカルは考え込んだが思い出せなかった。
まだ、わずか半世紀ほど前のことだ。
あとでライブラリに検索をかけてみよう。
オスカルは端末機をシャットダウンすると、自分のフラットに帰ろうと立ち上がった。


ショップエリアで食材と日用品を買い、フラットへの道を歩いている時だった。
「クゥゥゥゥゥ」
と自分を呼ぶ声が頭の中に聞こえた・・・・・気がした。
「え?」
その不思議な感覚にオスカルがとまどっていると、アンドレとルナ・ホースが
横道から姿を現した。
「やあ、ほんとうだ! こんにちは、オスカル」
「アンドレ!?」
にこにこ笑うその人は、ルナ・ホースとともにゆっくり近づいてくる。
なんとなく足下がおぼつかなげである。
特徴のある髪は、帽子を目深にかぶって隠されていた。
「こいつが、あなたがいると言うものだから」
ルナ・ホースを愛しげに見て言った。
「ルナ・ホースがしゃべるんですか?」
驚いて聞き返すオスカルに、アンドレは困ったような笑みを浮かべた。
「いえ、言葉で話すのでなく、なんというか、直接心に伝えて来るんですよ」
さきほどの不思議な感覚を思い返し、ああ、と納得する。
きっとこの二人は、より細やかに意志の疎通ができるのだろう。
「今日は大学の方はもう終わったんですか?」
「ええ。フラットに帰って、久しぶりに食事を作ろうというところです」
「久しぶりに?」
首をかしげるアンドレに、オスカルはすこし頬を赤くした。
「あ、いえ、あまりこういうことは得意ではなくて・・・・・・
 ふだんは講義や訓練で疲れてしまって、外食ですませることが多いもので・・・」
オスカルがあわてて言うと、アンドレはくすりと笑った。
「では、俺たちもこれから夕食ですので、よければご一緒にいかがですか?」
「え? で、でも、それは・・・」
オスカルが断りの言葉を探し出す前に、アンドレが重ねて誘う。
「ビーフシチューなんですが、多く作りすぎてしまって。
 一人だと、2、3日は同じメニューになってしまいそうなんです。
 減らすのを手伝ってくれるとうれしいのですが」
「はあ・・・・」
「それに、今、おいしそうなワインも手に入れました」
いかがです?とにっこり笑うアンドレに、オスカルも思わず頷いてしまった。
「では、お言葉に甘えて。
 わたしもデザートにしようと地球産のオレンジを手に入れましたから」
「クゥゥゥゥゥゥ!」
ルナ・ホースが笑顔の二人の間で、お腹がすいたと啼いて訴えた。

ビーフシチュー、ガーリックトースト、温野菜のサラダにワイン。
二人はよく食べ、よく飲み、よくしゃべった。
「ああ、もう一口も入らない!」
オスカルは陽気に言うと、座り心地のいい椅子で大きく延びをした。
「まったくだ」
アンドレは、キッチンスペースでほとんど空になった銅鍋を見ながらつぶやいた。
「その細いからだのどこに俺のビーフシチューを隠したんだい?」
そのあきれたような声音に、オスカルは笑い声をあげた。
ルナ・ホースにオレンジをむいてやりながらすっかりくつろいだ様子で答える。
言葉遣いも、すっかりため口だ。
「わたしの胃は特別製だからな。おいしいものは圧縮して入れられるんだ」
「はいはい、光栄ですよ、まったく。
 で、お嬢様、その特別製の胃に、お茶の入る隙間はまだありますか?」
「いくらでも!」
「・・・・・了解」
ティーカップを持ち、居間のソファに場所を移す。
「ここは、落ち着くな。壁も床も木でできていて」
「俺はどうも無機質なものには抵抗があって・・・
 この部屋に使ってある木材は、ほとんどルナ・モスで育てた木のものなんだ」
「へえ」
「この衛星大学にラボを持つことになったとき、そのことだけ注文を入れてね。
 研究施設の方は、前のところと変わらないよう用意してくれる条件だったし」
「前のところ?」
何気なく聞き返したオスカルに、アンドレはちょっと戸惑った様子を見せた。
「あ、ああ。ここに来る前も、研究所暮らしだったからさ」
「ふうん」
それ以上踏み込むのはためらわれて、お茶をすすった。
「なんとなく温かくないか、この部屋。雰囲気もだけれど」
「温かい? 温度設定は他の部屋と変わらないはずだけど・・・・・」
そう言いかけて、アンドレが表情を変えた。
「どうしたんだ?」
「いや、なんでもない」
立ち上がって自分から離れようとするアンドレに、思わず手をかける。
「!!」
とたんに流れ込んできた熱いもの・・・・・
「これは・・・・・なに?」
びっくとして引いた手を見つめ、つぶやく。
「すまない、ちょっと、俺が、その・・・感情的になっているようだ」
うろたえた様子で言うのに首を傾げる。
「感情的?」
しばしためらったあと、アンドレは思い切ったように口を開いた。
「・・・・・俺は、テレパスであると同時に・・・エムパスでもある・・・」
「エムパス?」
「あ〜〜〜、何と言ったらいいか・・・・・」
アンドレは、頭を抱え込んでソファに座りこんだ。
「その、自分や相手の意志とは関係なく、周りにいる人間の生の感情を感じ取れるんだ。
 好きとか、嫌いとか、悲しいとか嬉しい、あと、気味悪がってるとか・・・・」
「生の感情?」
「たとえば、今オスカルが感じているのは、とまどいと混乱・・・好奇心、
 ・・・・ちょっとばかりの恐怖・・・・・」
「!」
「でも、嫌悪感はないね。ありがたいことに・・・・」
「アンドレ」
「ルナンはね、オスカル。いつもいつも周りの嫌悪感と好奇心にまとわりつかれるんだ。
 そして、むき出しの性的な欲望、さげすみ、執着・・・・・」
そう静かに話すアンドレの声は、今までオスカルが聞いた誰の声よりも寂しそうだった。
「アンドレ・・・」
「きみやアラン達のように普通に接してくれる人って、珍しいんだよ。
 いつもいつも遠巻きに眺められて・・・・まるで珍しい動物を見るようにだ。
 俺達ルナンだって、テラナンと同じ人間なのに」
「・・・・・」
二人の目が合った。
サファイアの青い瞳と、深い碧の瞳が、言葉よりも強い何かを伝え合う。
「・・・・・なぜだろう? 誰かにこんなこと話すのって、初めてだ」
「アンドレ・・・・・」
「・・・・・やさしい感情が流れ込んでくる。同情ではなく・・・・・」

オスカルはそっと目をつぶった。
さっきの温かさの正体がわかった。
これはアンドレの感情だ。
そう、わたしに対する包み込むような温かな感情。

それに名前をつけるとするなら・・・・・

頬に手が触れた。
そこから身体全体に熱いものが流れ込んでくる。
沸き立つ血のように・・・・・

そして、オスカルは同じ感覚を、そっと重ねられた唇からも感じたのだった。