遙かな時の彼方から その六



アンドレは、とある建物の前に立っていた。
パリにあるもっとも由緒あるアリーナ。
そこでは、今日、フェンシングの国際大会が行われており、もちろん、オスカルも優勝候補の一人として参加している。
ネットでこの試合のことを知ってから、来るか来まいかずいぶん迷った。

(いまさら顔を見たところでどうなるものでもない・・・・)

そう思うそばから、あのちびちゃんが成人して試合している姿をひと目見てみたいと思う。
画像で成人したオスカルの姿を見てから、その気持ちはいっそう強くなっていた。
意を決して、広く明るいエントランスに足を踏み入れたアンドレは、アリーナから立ち上る熱気にしばし身を任せた。

遠い昔・・・・
まだ自分が「天使(エンジェル)」になるべく生を受けたことを知らなかった幸せな時・・・・・
「母」に手を引かれ、フェンシングの試合に出た。
「父」は、仕事を休んで応援に来てくれた。
「祖母」も、食べきれないほどのお弁当を作ってくれた。
ほんとうの『家族』だと疑いもしなかった幸せな時・・・・・

わーーっと、フロアから響いてくる一際高い応援の声に物思いが破られた。
エスカレーターで2階部分の観覧席に登る。
広いフロアが六ヶ所に区分けしてあり、それぞれ試合用のピスト(コート)が設えてあった。
フェンシングのピスト(コート)は幅2メートル長さ14メートルと細長い。
入り口に近い二カ所がジュニアとシニア。
そして、奥の四カ所が成人男子と成人女子のピストのようだ。
アンドレは配置をざっと見て取ると、成人女子のピスト目指して歩を進めた。

フェンシングにはフルーレ、エぺ、サーブルの3種目がある。
どの種目も基本的には相手の身体を一定以上の力で突けば、1ポイントに数えられる。
試合で用いられる剣は先端がスイッチ状になっており、一定以上の強さがかかると通電がシャットダウンする。
電気回路が閉じるとブザーが鳴り、審判に突きが有効であったことを知らせる仕組みになっている。
電気審判は20世紀に発明され、はじめはユニフォームにコードを取り付けて試合を行った。
だが、選手の動きが制限されるため、すぐに無線回路が開発され現在に至っている。

アンドレはそんなことを思い出しながら他の観覧者の邪魔にならないよう、通路の端を足早に歩いていた。
と、柱の影に隠れるようにして、一人の男が携帯電話を手に試合を見つめていた。
・・・・別におかしいところはない。
丸顔で太り気味、どちらかというと人の良さそうな印象を受ける。
だがアンドレは、びくびくしたような目つきと、男の額に浮き出た汗が気になった。

(具合でも悪いのか?)

アンドレは無意識に男の視線を追った。
視線の先は成人女性の部、フルーレの試合が行われている。
フルーレは一番基本的な種目だが、攻撃を受けた場合これを一旦払ってからでないと反撃することができないなど、細かい試合規則が決めらている。
だから、そうした駆け引きがわかる者は試合を観ても面白いが、素人にはとっつきにくい種目である。

(あの男はよくわかっているようだ)

見知らぬ男の目は選手の動きを必死で追い、携帯を持つ手も緊張している。

(なにをそんなに緊張しているのだろう・・・)

選手の力量は伯仲しているようだ。
試合時間は4分間で、先に5本先取した選手の勝ちとなる。
すでに残り時間は1分を切り、得点は4対4。
と、青いマスクをつけた選手の剣が相手の胸部を突いた。
それはアンドレから観ても有効に思えた。
しかし電気審判器のブザーは鳴らず、青いマスクの選手が戸惑ったスキに、赤いマスクの選手が突きを決め、試合に決着がついた。

「よしっ!」

そうつぶやいた傍らの男は、今まで手にしていた携帯電話をポケットにしまい、ほっとした表情を浮かべた。
アンドレと視線が合うと、びくっと顔色を変え、あわててこそこそと立ち去った。

(なにか・・・ひっかかるんだが・・・・・)

アンドレは釈然としないものを感じながら、その試合の終了を見守った。
勝った選手の名は、ジャンヌ・バロアというらしい。
コーチらしき男とうれしそうに握手している。
ふとコーチの視線がアンドレを捉えた。

(いやな目つきだ)

そう感じた。
アンドレが見返したのがわかったのか、相手の男は一瞬眉をしかめると、また選手と話し始めた。
負けた対戦相手を見ると、なにか納得がいかないのか、マスクも取らずにしきりに剣の先を指さしてしゃべっている。
コーチらしき男性がなだめるように肩を叩いて話をしている。
そのうちに、もういい、というように大きくかぶりをふって、マスクをはずした。
金色の髪がこぼれおちる。
アンドレは思わず身を乗り出した。
彼女はマスクを腕に抱え、ふりむいた。

    
  オスカルだった。