☆ 賭け −8月の誕生日− ☆


       時々、私達二人は【賭け】に興じる。
       カードであったり、チェスであったり。だが、それは、金品を賭けるという類ではない。
       ただゲームの勝者が一つだけ願い−といっても、子供のようなかわいい願いであるが−
       を言って、それを敗者に叶えてもらうというもので、例えば、眠りにつくまで子守歌を歌っ
       て欲しいとか、目覚めのお茶は英国産の紅茶を飲みたいとか、そんなたわいもないもの
       だった。
       もっとも、勝者は常に私の方で、敗者である私の…黒髪の恋人も喜々として願いをきいて
       くれるのだから、賭けになっているのかは、実のところ、わからない。
       ずっと暑い日が続いていたが、ここ数日、やっと朝夕、涼しく、過ごしやすくなってき
       た。
       今日は、五月蠅い上司が留守のお陰で、皆、仕事を早くに終わらせることが出来た。やは
       り、タヌキは居ないに限る。
       私達もその恩恵に預かり、早々に帰宅し、先程からチェス盤を挟んでいるが、果たして結
       果はどうなるのやら…。
       明後日は、おまえの誕生日。
       出逢ってから、20年以上、一緒に迎えてきたけれど、今年は違う。恋人として初めて過
       ごす誕生日。
       「何が欲しい?」
       そう尋ねる私に、おまえは、とろけそうな笑顔を見せる。
       「何もいらない。おまえが側にいてくれれば、それだけでいい」
       「でも、何か欲しい物くらい、あるだろう?」
       尚も尋ねる私をおまえは抱きしめた。
       「俺の欲しかったものは、全ておまえから貰った」
       そうして、私の顔を覗き込んで、囁く。
       「おまえからの愛の言葉。おまえの心、それから…おまえのすべて。何もかも、俺だけの
       ものだろう?」
       この言葉に、私は赤面してしまった。そう、私のすべては、おまえのもの。でも、こう、
       はっきりと、しかも嬉しそうに言われてしまうと、私は何も言えなくなってしまうのだ。
       どうも、私は、おまえほど、感情を露わにすることが出来ないと言うか、表現が下手と言
       うべきか。嬉しいけど、とても恥ずかしくて、私はぶっきらぼうになってしまう。おまえ
       は、それさえもが、可愛いと言ってくれるのだが、これは、いささか、贔屓が過ぎるとい
       うものだろう。
       …と、上手い具合にはぐらかされてしまい、おまえへの贈り物を何にするか、私はずいぶ
       んと悩む事になった。結局、私は、自分が欲しくて誂えさせていた物をおまえにも贈るこ
       とにした。時間があまりなかったが、無理をきいて貰った。それが、明日、出来上がる。
       問題は、どうやって、おまえに気付かれずに、それを取りに行くか…。
       うーん、おまえは、私が、一人で行動するのを嫌がるからな、どうしようかな…。

       「ほら、チェックメイト」
       愛しい恋人の声につられ、盤を見ると、そこはまさに風前の灯火…詰められていた。
       しまった。考え事をしている内に、次々と、取られていた。
       「やった。今夜は俺の勝ちだな」
       うれしそうにおまえは微笑む。
       得意満面、もう、子供みたいな奴。
       「う…ん」
       私は諦めきれなくて、しばらく盤を見つめていたけれど、結局、両手をあげた。
       「完敗です。おめでとう、勝者殿」
       私の珍しい敗北宣言に、おまえの軽く笑いを含んだ声が続く。
       「考え事でもしていたんじゃないのか?楽勝だったぞ」
       ぎくっ。
       まさしく、その通り…とは、言えない。
       「哀れなこの敗者に、勝者殿の願いをお聞かせください」
       私の言葉に、何にしようかなと呟きながら、考え込むおまえの姿は少年のようで、愛し
       い。いつものおまえは、ひとつ違いと思えないほど、落ち着いた男だから。
       こんな表情を見ることができるのは、そして、無防備に見せてくれるのは、想いが通じ
       合ったからこそと思うと、嬉しい半面、何故、もっと早く素直にならなかったのだろう
       と、少しばかり後悔してしまう。
       「どんな願いでもいいんだよね?」
       「もちろん、勝者殿。あなたの仰せのままに」
       私は、静かに頷いた。
       願わくば、あんまり無茶な願いではありませんように、と心の中で呟きながら。
       「では、敗者殿」
       おまえは重々しく告げた。
              「明後日の俺の誕生日に、敗者殿の1日を下さい」
       「え?1日?」
       意外な願いに、思わず私は聞き返した。
       「そう、おまえの1日を俺にくれないか?」
       「それはいいけど…どうすればいいのだ?」
       私は問い掛けた。1日が欲しいなんて…漠然とし過ぎて、わからない。
       「明後日、俺の誕生日だろ。その日1日、俺の部屋で過ごして、俺の帰りを待っていて欲
       しいんだ」
       明後日か…非番だったな。
       帰りを待つくらい、簡単なものだし、おまえが仕事をしている間は、ゆっくり本でも読ん
       で、待っていよう。うん、簡単なものだ。
       「わかった。いえ、わかりました、勝者殿。貴方の仰せのままに、私の1日を差し上げま
       しょう」
       仰々しい私の言い回しに、おまえは吹き出しつつも、ありがとうと嬉しそうに笑った。

       さて、と。明後日は、どうやって1日を誤魔化そう。非番だから、仕事の方は心配ない
       が、屋敷の方が問題だ。
       朝、仕事へ行く振りをして、こっそり戻ってくるか…。それとも部屋に鍵をかけて、誰も
       入って来られないようにしてた方がいいか…。
       「オスカル?」
       おまえの心配そうな声に私は顔をあげた。
       「急に黙り込んで、どうかしたのか?」
       「ああ…すまない。明後日のアリバイ工作を…」
       「アリバイ工作?」
       「そう。だって、1日中、屋敷にいるのに、部屋に閉じこもっていたままだったら、不審
       がられるだろう?で、何か、いい手がないかと考えていたんだ」
       私の言葉に、そうだなと、おまえは小さく呟く。
       先程の少年じみた表情が、影を潜め、大人の顔に戻る。
       「さっき言ったことは、調子に乗った願いだったかも知れない。今回の賭けは、チャラに
       しよう」
       意外すぎるおまえの言葉。
       おまえはいつだってそうだ。いつも私のことを第一に考えすぎて、自分のことは後回しに
       する。そうしてくれるのは、有り難いけれど、今の私は、おまえを一番に考えたい。
       いつも我が侭を言うのは私の方だけど、たまには、おまえが我を通してたって、いいじゃ
       ないか。おまえが、喜んでくれるんだったら、私は何でもする。いつも、いつも、おまえ
       が私にしてくれるように。
       「ダメ…だ」
       わたしは、少しばかりキツイ口調になってしまった。
       「ちゃんと賭けをして、勝敗が決まったんだから、チャラなんてなしだ」
       我ながら、可愛くない言葉だと思うが、こうとしか言えないんだ、私は。
       「オスカル」
       優しい、響いてくるおまえの声。
       「勝者に情けをかけて貰うわけには、いかないから」
       おまえは、小さく笑うと、私をゆっくりと抱きしめた。
       そして、耳元で囁く。
       「ありがとう。おれの大切な…敗者殿」
       ああ、だから、おまえには…かなわない。どんなに意地っ張りな態度をとっても、胸の内
       をすっかり読まれてしまっているんだから。

       翌日。
       私は、アンドレに、急な会議が入ったと嘘をつき、帰宅の時間をズラした。
       贈り物を取りに行くのだから、多少のウソは許されるだろう。
       私は、オデオン座広場の近くにあるコルス・サン=タンドレへと向かった。ここのギャラ
       リーにヴァランの店がある。ヴァランは、母上が贔屓にしている宝石商の息子だが、細工
       好きの趣味が高じて、自分で、店を持つようになった。宝石店と言うよりは、細工師の工
       房と言った風情だ。
       「無理を言ってすまなかった。間に合っただろうか?」
       店内に入り、ヴァランの姿を見かけた途端、私は挨拶もそこそこに尋ねた。
       「オスカル様、お約束の品、キチンと出来上がりましたよ」
       人なつこい笑みを見せ、ヴァランは答える。
       「追加で注文なさったお品を、どなたにお贈りするのか、気にはなりますが…」
       ヴァランは、奥の方から包みを二つ取り出し、私に渡した。白の小箱に、青いリボンがか
       かっている。
       「オスカル様と、大切な御方に…」
       「ヴァラン、おまえはとても腕が良いが、ひとつだけ欠点がある」
       「はて、なんでございましょう?」
       問いながら、その目は笑っている。
       「少しばかり…お喋りが過ぎる」
       責めながらも、私の顔が赤くなっている事に彼は気付いているだろう。
       「心を込めて、お作りいたしました。オスカル様、どうか、大事になさって下さい。宝石
       も…人も、素直に心を伝えれば、心で返してくれます」
       そうだな、ヴァラン。今ならば、おまえの言葉も素直に聞ける。少し前なら、反発してい
       ただろうが。
       「ありがとう、ヴァラン。心に留めておくよ」
       私の言葉に、ヴァランは満足気に微笑んだ。
       勘定を済ませようとしたら、端はいらないと言う。急がせて、挙げ句、値切ってしまった
       のでは、あまりに申し訳ないと言う私に、ヴァランは一言。
       「お誕生日の贈り物ですから。私からも、ささやかな贈り物を…」
       まいったな。結局のところ、ヴァランには、何もかも、わかっていたのか。

       屋敷に戻り、私は着替えを手伝ってくれる侍女達に明日の予定を伝えた。これは、
       昨日からずっと、私が考えた案だった。
       明日は非番だが、仕上がり次第、本部に届けないといけない書類があるという事。
       そして、もし、私の部屋に鍵がかかっていたら、それは、私が朝早い内に、本部に出向い
       たという事。
       多分、書類を仕上げたら、そのままにして出てしまうので、決して誰も部屋に入らない
       事。
       部屋の掃除は勿論無用だし、何よりも人目に触れさせたくない書類がある事。
       非番だというのに、お体を休める間もないなんて…と侍女達は、口々に、本部に対して
       文句を言ってくれたが、これには少しばかり、私の胸が痛んだ。
       食事の後、久しぶりに侍女達に世話をやいて貰い、私の肌は、どうにか元に戻ったよう
       だ。最近、肌のお手入れどころではなかったので、荒れ放題だったと、皆に責められ、私
       は音を上げるところだった。
       肌で仕事をするわけではないし…と言いかけたら、一斉に、反撃を受け、さすがの私も怯
       んでしまった。その上、私付きの侍女では、一番長いシャロンに、耳元で「大切な方のた
       めでございますよ」と囁かれ、何も返せなくなってしまった。
       もしかしたら、子供の頃からの私を知っている彼女には、今の話も嘘だとわかってしまっ
       ているのかもしれない。
       「それでは、少しでも、お体を休めて下さいましね」
       労りの言葉と共に、部屋を後にする侍女達に、私は心から礼を言った。
       それから、12時になるまでの長かったこと。
       やっと、時計の針が真上を指し、おまえの誕生日になった。
       私は、部屋を出ると、静かに、静かに鍵を掛けた。
       誰にも会いませんようにと、祈りながら、私はおまえの部屋へと向かった。手には、贈り
       物である白い小箱を持って。
       そうして。
       やっとたどり着いた、ここは、おまえの部屋の前。
       小さく、小さく、私は扉を叩いた。
       すぐに扉は開かれ、目の前には、穏やかな笑みを浮かべた恋人の姿。
       おまえに誘われるまま、部屋に入る。
       この時から、長くて…甘い1日が始まったのだけれど、その話は、いずれ、又。

       F I N