この我侭を
私は今、一人でこのカフェにいる。秋の日の夕暮れ、私は知らない人々に混じって
コーヒーを飲んでいる。
数刻前、私は些細な事で彼と言い争いをして、勢い余って一人屋敷を飛び出してきた
のだ。
「パリへいってくる」と。
思えば私が悪いのだ。事の発端はこうだ。
私の仕事は日常的に楽なものではないが、ここ数日は特に立て込んでいた。本来の仕
事以外にも、隊の中で揉め事があったり、
例のブイエ将軍も何やら無理難題をふっかけてきて、要するにストレスがたまってい
た。
でも今日は隊の内部的な事情もあり、幸運にも仕事が夕暮れを待たずして早く戻る事
が出来た。こんなことはめったに無い事だし、久し振りに屋敷でゆっくりと過ごそう
と思っていたのだ。
いつものように彼に熱いお茶を運んでもらって、夜が更けいくまで
ゆっくりと会話を楽しみたい。そう決め込んでいた。
なのに彼は、いつまで経っても私の部屋へやって来ない。一緒に帰ってきた筈なの
に、来ない。
一体何をしてるんだ?
そのうち私はしびれを切らしてしまい、彼を探しに行った。
台所へ行くと、彼は侍女のアンナと何やら話しこんでいるではないか。そしてその傍
らには、私のものと思われる、冷めかけたティーセット。何を話しているのかは全く
分からなかったが、私は戸の影に隠れるようにしてその様子を見ていた。だんだんま
るで悪い事でもしているかのような、複雑な気持ちになる。
やがてアンナが他の者に呼ばれて彼のもとを離れていき、私は彼に声を掛けた。
「遅いじゃないか」
私は努めて冷静に言った。
「あ・・・ごめん。直ぐに持っていくから」
彼は済まなそうにいったが、何故か私は自分の感情を押し込めることができず、強い
口調で言った。
「お前は私にお茶を持ってくるより、アンナと話してる事の方が大事だっていうのか
?」
「彼女の仕事の相談を受けていたんだ。聞いてやらないと」
「私は直ぐお茶が飲みたかったんだ!」
もっといい言葉があるはずだろうに、私は興奮した口調でそう言い放ってしまった。
「・・・済まない。でも、俺も忙しい時もあるんだ」
彼が瞬間しまった、という表情を見せたのに逃しはしなかったが、その言葉に私は
かっと来てしまい、思わず屋敷を飛び出してきたのだ。
この店は昔からよく立ち寄る店だった。ちょっとした待ち合わせの
時や、たまに一人で考え事をしたい時に訪れていた。
そういえば、遠い昔初恋の人の事を想いあぐねていた時にも訪れたことがあったな。
私は顔を上げ、ゆっくりと店内を見渡す。
日の落ちる夕暮れ、一杯のコーヒーを楽しむ老夫婦、熱心に何か
討議しているような青年将校、甘やかに語り合う若い恋人達・・・。みんなそれぞれ
にこの時間を楽しんでいる。
私はこの雰囲気が好きだった。ほんの一時であっても身分の上下関係無く、こんなに
も人々が集まっているのに、みんなそれぞれに、まるで見えないカーテンで覆ってい
るかのように自分の空間を作って楽しんでいる。
この空間は、私の存在をいとも簡単に消し去ってくれる、と思う。
私が貴族だろうと、女だろうと、衛兵隊の隊長だろうと、みんなそんな事はどうだっ
ていいのだ。私という存在を、この街の、景色の一部として融合させてくれる。
それは私の気持ちを楽にした。
職務上、とかく人と関わる事が多いだけに私は時々こうやって
「孤独感を味わって」いたのだ。
ふう。少しクールダウンできたかな。
私は一息ついて、カップに残ったコーヒーへと視線を落とす。
少し濃い色のそれは、彼の瞳を思い出させた。
胸がチクリ、と痛む。
さっき、何だって私はあんなことを言ってしまったのだろう?
なんて大人気ない態度だったことか?自分でも恥ずかしくなる。
お茶なんて、別に飲みたくなかったのに。侍女のアンナだって、
私に疎まれるようなことなんて、何一つしていない筈なのに。
ただ、彼と一緒に居たかっただけ。
わかってる筈なのに。彼は衛兵隊の仕事を終えても屋敷の仕事
があって、本当は私の何倍も忙しいのだ。
それなのに、私はなんて我侭なんだろう?なぜ彼の前だとあんなに我侭になるんだろ
う?
私は急に彼に会いたくて仕方なくなった。
今まで心地よかったこの店が、急にうら寂しいものに感じられてきた。確かにこの店
ではひとときの孤独を味わえる。でも「孤独感を
味わう」なんて、いつも孤独じゃないから言えることだ。
私には家族が居る。
何より彼が居てくれる。
彼に、会いたい。
私は居ても立っても居られなくなった。でもあんな我侭なことを
言って飛び出してきたのに、どんな顔をして会えば良いんだろう?
ふと、私は自分の横側に人の気配を感じた。懐かしい、感覚。
「やっぱりここだったか」
彼だった。
「どうしてここが・・・?」
「いくつか当たってみたけど・・・お前がパリで立ち寄りそうなところなんて、ここ
ぐらいだろう?」
お見通しって訳か。彼はゆっくりと私の横に腰掛けた。会いたかった人の顔を、私は
しばし見詰めた。そして無意識に彼の頬に、手
を触れた。ひんやり、する。かすかに乱れている彼の呼吸を手の甲に感じ、それは
「駆けつけてくれたこと」の証にも思えた。
「・・・冷たい」
「当たり前だろ、この寒い中馬を急かして駆けて来たからな?」
そういって彼は少し笑った。
謝らなきゃ、と私は思った。さっきの我侭を。
「さっきはすまなかった」
そう言ったのは、彼のほうだった。
「ちょっと疲れてたみたいで、あんな事言ってしまった。ごめん。
お前だって疲れてるのに、気が回らなくって」
ああ、先に言われてしまったじゃないか。それは私の台詞なのに。私は済まない気持
ちと、暖かい気持ちが一気に到来した。
彼は頬に置かれた私の手をそっと握り、そのまま席から立ち上がった。私はまるで子
供のように彼に手を引かれていった。
頬と違って、彼の手は暖かくて、私の心まで染み入るようだった。
「いつも我侭ばかりで、済まない」
やっとの思いで、私は彼に告げた。本当はもっと色々言わなきゃいけないことがある
のに、こんな時に限って私の饒舌は身を潜める。それしか口を付いて出てこなかっ
た。
「お前の我侭は慣れっこだし、歓迎だ」
彼は言った。私は、彼の手をぎゅっと、握り返した。
たった数刻彼を見なかっただけなのに、この懐かしさは一体何処からくるというのだ
ろうか?
私は未だにこの気持ち・・・彼への思いにはっきりとした答えを出せていなかった。
でも、もう少しで形になる気がするのだ。
それまで、待っててくれるかな。我侭ついでに。
とにかく、屋敷に帰ろう。そして今度こそ彼とゆっくり話をしよう。
夜が更けるまで。