『星さえもひとり輝く』
母さんの息が粗い・・苦しそうだ。どうしよう・・誰か呼んで来たほうが良いだろうか・・。
アンドレは母の胸元にかじりつくようにして、息をうかがった。その喉からは、奇妙な音が洩れていた。その音にかき消されるようにわずかな声が聞き取れる。
「寒い・・喉が・・みず・・」
アンドレは急いで立ち上がると、狭い家の中を見渡した。部屋の隅にある甕には水がなかった。母が寝付いてから、汲んでくるのを忘れていた。その暇すらなかった。母の耳元へ取って返すと、
「母さん、待ってて。すぐに水を持ってくる」
そう言うと、小さな桶を持って部屋を飛び出した。扉のところで一瞬立ち止まり、母を振り返る。薄いシーツの下の胸が上下している。待ってて・・今すぐ・・。
彼は外へ駆け出した。
夏・・外は満天の星だった。
小川へと走っていく彼の足元で、気配を感じた虫が泣き止む。はだしの足に草が小さな傷をつけたが、彼は何も気づかなかった。夜の静寂の中で、水音だけが静かに響いている。彼は川べりまで、転げるように駆けてゆき、桶を川面に叩きつけるように、いっぱいに水を汲んだ。
早く・・・早く・・。
気持ちは焦っていても、走れば水がこぼれる。アンドレは両手で桶をしっかり抱えて小走りに家へと向かう。揺れた水がこぼれて彼の服を濡らした。しかし、気づかない。彼の頭の中にあるのは、遠くに見える家の明かりだけだった。
家の戸口に辿り着くと、彼は肩で息をしながら桶を抱えなおした。もう水は半分ほどになっている。彼は家に飛び込んで叫んだ。
「・・・母さん!水!」
母の枕もとの蝋燭の火が揺れていた。暖かそうな光が、母の白い顔を照らし出している。その部屋の中で動くものは、光だけだった。
母の胸はもう動いていなかった。
影と光に彩られた母の顔に、うっすらと微笑みが浮かんでいた。
彼はまだ息を切らしていた。外で虫が鳴いている。開け放たれた扉から、一陣の風が吹き込み、蝋燭の炎を消した。あたりは暗闇に包まれ、彼の周りから一切の光が消えた。
それから、多分誰かがやってきた。だが彼の目に映ったのは、黒い影だけだった。頭上から投げかけられる様々な言葉はただの音になった。
『可哀相に、こんな小さな子を残して』
『つい、何日か前まで元気だったのに。旦那が死んでから、子供を抱えて、働きづめだったからなぁ・・』
『この子は、誰か身内がいたかね?』
『確か、いるはずですよ、ベルサイユに・・』
『アンドレ、大丈夫かい。ここに一人でいちゃいけないよ、おばさんのところへおいで・・』
『・・手紙を出さなくちゃね。これからのこともあるし・・』
『埋葬は・・』
アンドレにとってどんな言葉も意味をなさなかった。彼の目に映っていたのは、ただ母の骸だけだった。
「アンドレ・・お母さんにお別れを言いなさい」
僧服を着たやせた男がそう言ったときも、彼はただ黙っていた。7月半ばだというのにその夏は暑く、周囲の人間が埋葬を急いだことなど知る由もない彼は、棺に釘が打たれ、穴に下ろされ、乾いた音を立てて土がかけられていくのを見ていた。
涙も出さず、声も立てずに。
夏の昼下がりに、蝉の声だけが木立に響いていた。
「ルイ、どうしよう・・」
「どうかしたのか、アンヌ」
「アンドレが・・あの子、口がきけなくなったんじゃないだろうか。一言もしゃべらないし、それに、母親が死んでから全然泣いていない・・あんなに優しくて明るい子供だったのに」
彼を預かっている隣人の夫婦が、不安げにアンドレを見ながら言葉を交わしている。
ベルサイユへは手紙を送ってあるが、届くのに数日はかかるだろう。唯一の彼の身内である祖母は、迎えに来るのだろうか。
貧しい夫婦の不安のたねは、魂の抜けたようになった幼い子供の様子だけではなかった。
ここでは誰も彼もが貧しい。アンドレの両親も、その隣人も同じだった。
「アンドレ・・手紙がきたよ。神父さんに読んでもらったら、お前を迎えに来るって。お前のおばあちゃんと一緒に、ベルサイユで暮らそうって」
「良かったな、なんでも貴族の屋敷に仕えてるって言うじゃないか。そこで暮らせるなら何よりだ。食うには困らないし」
アンドレは黙って聞いている。いつまでもこの夫婦に厄介をかけるわけに行かないことも分っていた。だが、母の下を離れなければならないことだけが、彼を苛んでいた。
「・・アンドレ?」
心配そうに彼を覗き込むアンヌの顔を見て、彼は頷いた。それしか選択の道は無いのだから。
その日の午後、彼は墓地のある丘にいた。彼は墓の前に花を手向け、そのまましゃがみこむとただじっと佇んでいた。
どのくらい時間がたったのだろう。アンドレの上に影が落ちた。見上げるといつの間にか、背の高い人が彼の傍らに立っている。夕日を背にして、顔がはっきり見えない。
「こんにちは、アンドレ」
「・・僕、あなたに会ったことがある?」
「いや、初めてだよ。でもわたしは君を良く知っている。・・ずっと君に会いたかったよ」
「もしかして・・」
「うん?」
「もしかして、あなた。ベルサイユから来たの?僕を迎えに・・」
「そうじゃないよ、わたしは君と話をしたくて遠くからきたんだ」
「僕、あなたを知らないよ」
「そうだね・・」
夕闇があたりに降りてきた。西の空に宵の明星が輝く。
「これは・・誰のお墓」
「・・・・母さんの」
「まだ新しい・・」
「うん・・・」
「ねえ、どうして・・・」
「何が?」
「どうして・・母さんが死んだの?どうして、母さんが死ななきゃならなかったの」
「その答えは神様しか知らないんだよ」
「じゃあ、神様に聞いて」
「神様は、色んなことに答えてくれる。でもその問いにだけは答えてくれない」
「なんでだよ!」
彼は弾かれたように、立ち上がった。瞳が夕日を映して紅く染まっている。
「なんで、答えてくれないの!僕は知りたいんだ。聞いてよ!何で母さんじゃなきゃならなかったの。母さんは悪いことなんて何にもして無いよ、どんなに苦しい時だって、人の悪口なんか絶対言わなかったし、泣かなかった。泣くと・・僕が心配するから・・僕が・・」
俯いてしまった彼の影が長くのびていた。傍らの人はいつしかかがみ込んで彼を覗き込んでいた。
「僕が・・いなきゃ良かったのかな・・あの時、もっと早くルイを呼びに行ってたら・・そしたら、母さんは助かったかな・・母さんが水って言ったから・・水なんか汲みに行かなきゃ良かった・・母さんは・・・ひとりで」
東の空に月が顔を出した。夏の長い日が終わろうとしていた。
「アンドレ・・神様が答えてくれないのは、誰もが本当は答えを知ってるからなんだよ」
「・・僕は知らない。いくら考えても分らない・・もうずっとずっと考えているんだけど」
「じゃあ、ヒントをあげる。上を見てごらん」
彼は見上げた。太陽はすっかり沈み、星が姿を現してきた。
「空に答えがあるの?」
「そう、星の間にね。西の空を見てごらん」
「一番光っているの、あれ宵の明星でしょう。昔父さんが教えてくれた」
「明星は昼も見えているんだよ、知ってるかい?」
「昼も?」
「そう明星だけじゃない、本当はどの星も昼も輝いているんだ。ただ見えないだけ・・」
「アンドレ、消えたように見えても、ただ見えてないだけかもしれない」
「それって母さんのこと」
「夜がくれば星は再び瞬く、それと同じ。今は見えてないかもしれないけど、失ったように思えるけど、きっと還ってくる」
その人の金髪が風に揺れた。宵の明星と同じ色をしていた。
「なくしたと思って神様を恨んだり、自分を貶めたりしちゃいけないよ、アンドレ。
きっと還ってくるから・・愛情というものは、そんなにすぐかき消されたりしないものなんだ。
星と同じように、自ら輝いていれば、きっと君の元へ戻ってくる」
アンドレは西の空を見た。宵の明星が他の星々を連れてきている。満天の星月夜だった。彼は自分の頬を濡らすものがあるのに気づいた。母が死んでから、一度も流れることのなかった涙が、頬を伝い地面に零れ落ちていく。しかし、彼はそれを拭おうともせず、ただ流れるに任せていた。
「暗くなった・・・もうお帰り」
「あなたは、何処へ行くの」
「人を待たせているからね。私も帰らなくては・・」
「また会える?」
「ああ、きっとね」
「オールボワール、アンドレ」
「オールボワール、・・あ、あの」
その人は彼に手を振ると、踵を返し、森の方へ歩いていった。その先に誰かが立っているのが見えた。背の高い黒い髪の男の人が。やがて二人は連れ立って、深い森の中へと消えていった。
「あの人に名前を聞かなかった。でも、きっとまた会えるって言ってたから。そしたら、今度こそ名前を聞こう・・」
丘から降りてくるアンドレを、アンヌが探しに来ていた。
「アンドレ、早くお帰り。マロン・グラッセさんが、ベルサイユからあんたのおばあちゃんが迎えにきてるよ」
「うん、アンヌ。今行くよ」
アンヌは驚いて彼を見た。その頬に涙の後を見つけて、彼女は安堵した。彼はアンヌの傍らをすり抜けて、丘を駆け下りた。
時は7月、夏満天の星空の夜のことだった。
END